[ Chapter15「Remember It」 - E ]

back  next  home

 重孝は二学期に続いて三学期も始業式を休んだ。今回は病欠ではない。前日に旅行先の離島から帰ってくるはずが、荒れる海に阻まれて連絡船が止まったため、島にもう二晩とどまっていたのだ。
 無事に帰宅した夜の翌日から、彼は母親の心配をよそに普段通り登校した。長旅の疲れや予定変更の影響は口にも態度にも出さず、体育も含めすべての授業に休まず出席したという。
 そして迎えた土曜日の朝、彼は高熱を出して倒れた。
「あんた本当は最初からやせ我慢していたんじゃないのか」
 様子を見に来たウィルに指摘されると、重孝はベッドの上に横たわったまま、口元に曖昧な笑みを浮かべた。常に下ろしたままの前髪が顔の上半分の表情を読ませない。
 否定も肯定も弁解もしない。いつものことと知っていても、ウィルはついため息を漏らした。
「さっき院長から出た指示を繰り返す。土日はおとなしく休め、できるだけ暖かくしてベッドの中で過ごせ、水分補給を怠るな。何かが必要ならすぐにメールで連絡するように」
 注文が列挙される間に掛け布団の端が持ち上がり、細く大きな体を頭から足先まですっかり覆った。ウィルが預かった言葉を一通り並べ終えると、室内は誰もいない場所のように静まりかえった。
 額縁に納まった親子の写真だけが同居人を見つめていた。
(肉体に過大な負荷を掛けてでも、父親に会いたかったのか。その点は院長も承知していると思っていたが……)
 ウィルは足音を押さえて重孝の、正確にはその父親の部屋から退去した。それから階段を降りていく間、口を閉ざして考えた。
 物質界における「生物」は霊魂と肉体の相互作用によって成り立ち、その構造は知性が高いほど複雑になる。訓練学校ではそんな話を習った。それが単純化された説明に過ぎず、二つの世界から常に受ける影響がいかに大きいかを、この地に来てから知った。
 相互作用のバランスが大きく崩れるとその後も脆さが残り、肉体が壊れやすかったり生物から外れた存在に狙われやすかったりする。新年会の席でそんな話を教わった。人間がこちらの正体を見抜くよりもずっと簡単に区別できると言われ、街でたまに出会う違和感の答えを得た気がした。
(個体を支える両輪の一方だけに大きく揺さぶりを掛けるような事態。たとえば事故等による肉体や精神の損傷。あるいは物質を介さずに霊的存在と接触すること)
 年明けに神社で聞かされた話が意識の底から浮上してくる。
 看護師たちは事の真相を知らず、あのカラスは多くを語らなかった。守護天使のリーダーは知識を分けてくれたが、事件については明言を避けた。
 決定的な証言がない今は、憶測までしか進めない。
(恐らく重孝は、少なくともどちらかを幼少期に経験している。人間では癒やせない傷を抱えている)
 一階まで降りたウィルを院長がリビングで待っていた。愛息の様子について報告を受けた母親は居候にメモ用紙を差し出した。
「いつもの家事は後回しでいいから、これ買ってきてほしいの」
 ウィルが受け取ったメモ用紙の筆頭にはスポーツドリンクの名称が記されていた。
 彼はそれを病人に与えるものと判断してから、同じ飲料を備蓄したはずの場所を頭に描き、同じ飲料を空にしたペットボトルが先ほどゴミ箱に入っていたことを思い出した。
「……これは、重孝の好物なのか」
「好きかどうかは分からないけど、昔から寝込んだときにはいつも飲ませているの。最近は私が言わなくても、体の調子が悪いって自覚するとこっそり飲んでいるみたい」
 少しだけ間を置いて、ウィルは買い物を引き受けた。

 その日は風が強く、日向を歩いても暖かさを感じられないほど冷え込んでいた。そこかしこでくしゃみの音が聞こえてくる。ウィルが借りた安物のダウンジャケットは寒さを多少は軽減したが、外気に当たって冷えた顔は赤く、痛みさえも感じた。
 休日の昼前、スーパーマーケットの店先はそれなりに混み合う。風に押し流されるようなせわしない往来をかき分けて店へ入ったウィルは、普段よりも急ぎ足で店内を回り、院長から頼まれた品物を最短ルートで揃えた。
 レジ前の行列に並んで立ち止まった直後、視線を感じた背中が震えた。
 彼は振り返ろうとしたがすぐに思いとどまり、そのまま会計の順番を待った。滞りなく支払いを終え、品物を二つの袋に詰めながらさりげなく周囲を確かめると、何も警戒しない顔で店を出た。
 歩道の往来は店に着いた頃よりまばらだった。店の前で左折してからは他の場所に寄らず急ぎ足で、背中を丸めてゆっくり歩く人々を追い越していく。途中で足を止めたのは、路上駐車の軽トラックの脇に立ち、カートを押して進む老婆に道を譲ったときだけだった。
 それから彼は一区画だけ直進して曲がり角へ入った。しばらく進むと後方の足音や車の走行音が急に遠ざかり、一人分の靴音が残った。
 風が吹く。
 側溝に積もった枯れ葉が転がる。
 ウィルは歩きながら頭上を仰いだ。近くのアパートの敷地に植えられた木が道路上にも枝を広げていた。ほとんどが既に葉を落とし、羽を休める鳥もいない。
 風が鳴る。
 枯れ葉の破片が舞い上がる。
 歩きながら振り向いたその瞬間、ウィルの目は電柱の影に逃げ込む誰かの姿を捉えた。数歩の間にいったん向き直り、そして立ち止まって再び後方を見たときも、電柱が道路に落とす影が少しだけ不自然に歪んでいた。
「それで隠れたつもりなのか?」
 ウィルは感情を抑えた声で呼びかけた。自身の吐息で温めた唇が再び冷えていく間に、両手から提げていた袋の持ち手をそれぞれ手首にかけ、それから軽い方の手で前髪についた枯れ葉を払いのけた。
 一連の動作の間、電柱の影に変化はなかった。しかし、
「さっきから革靴の爪先が丸見えだ」
 具体的な指摘に影が震えた後、電柱の後ろから人間が姿を現した。地味な色のシングルスーツを着た男は、ウィルがはっきり見たことのある顔を持っていた。
(やはり、そうだった。三ヶ月前、補習課題の実行中に割り込んできた、警察の人間)
 顔は正しく記憶していた。言葉を交わした理由も場所もはっきりと思い出せた。
 しかし目の前にいる現在のその人物は、以前と全く違う状況にあるようだった。見抜かれた尾行に意味はないと観念しただけではない。厄介な困りごとを抱え、今まさに対処を求められている、そんな状況が硬い表情と引けた腰に現れていた。
 そしてウィルはもう一つの重要な問題にも気づいた。
(あの日も、ついさっきも、人間は二人いたはずだ)
 スーパーを出てから一度だけ足を止めた際、軽トラックの脇に寄る動作の中に、後方の様子を見る隙を組み込んだ。異様な視線の出所にはそのとき見当をつけていた。
 問題なのは目の前にいる、突然血相を変えた男ではなく。
(もう一人はどこに……まさか、)
「やめてください!」
 男刑事の叫びと、ウィルの真横への一歩が、呼吸を合わせたように揃った。
 片足を軸に回りつつ一歩退く移動の中、ウィルは自分の肩をかすめて掴み損なう手を見た。狙いを定めた狩人のごとき形相を、正義の執行に燃える女の目を、確かに見た。
 それはレジ前で察知した視線の性質とは全く異なる色をしていた。
「どうしてこいつの肩を持つの」
「稲瀬さんこそ何しようとしたんですか今、完全に不意打ち狙いでしたよね!?」
「何って確保に決まってるじゃない。去年十月にこの近くで起きた通り魔事件の」
「被疑者と決めつけるには早すぎます!」
 以前ウィルに職務質問をかけてきた女刑事が、今度はその先まで踏み込もうとしてきたのだった。捕獲をもくろんだ一手が空振りしてから、すぐに相棒が駆けつけて問いただすも、彼女の方針が揺らぐ様子はなかった。
 二人が揉める間にそっと距離を置いたウィルを稲瀬は見落とさなかった。割って入る相棒を片手で受け流し、わざわざプレッシャーをかける目つきと動作でウィルを道路脇に追い詰めた。
(さっき背後から俺を見つめた視線は、確かに敵意と嘲りを含んでいた)
「証拠があるのよ。そこの角のお店にあった防犯カメラの」
「顔までは映っていなかったですよね? それに……」
(あれはその場だけだった。敵はここにいない。この女の導火線に火をつけて放っただけだ)
 ウィルはダウンジャケットの衿を掴もうとする指先をかわし、壁から離れて道路を背にした。
 こちらから手を出せば警察の勝ち。どこかで耳にした知識が意識の底で主張していた。