[ Chapter15「Remember It」 - F ]

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 刑事は容疑者を捕らえたかった。
 容疑者は刑事を牽制したかった。
 両者が同時に、相手の出方を見ながら動いた結果、二人は互いの手のひらを合わせて押し合う格好で止まることとなった。
「ねえお兄さん、公務執行妨害って言葉知ってる?」
「警察が見切り発車を正当化する免罪符だと聞いたことがある」
 ウィルが口にしたのは年明けに看護師たちが見ていたテレビドラマの受け売りだった。それを知るか知らずか、稲瀬は眉間のしわを深くして唸り声を上げた。
 もちろん彼はフィクションの知識ばかり持っているわけではない。警察官が心身をよく鍛えていること、並の人間なら難なく制圧できることは知っていたし、今まさに両手を通じて実感してもいた。
 勢いに任せて押し切りたいのではない。相手の出方を、わずかな隙をうかがっている。
(だが、それだけだろう)
 長身のウィルに見下ろされた稲瀬の目は、その整えられたまつげと同じようにまっすぐ上を向き、少しもぶれることがなかった。
 そして、彼の考察が結論に行き着いたその瞬間に、形勢が変わった。
 稲瀬が不意に両手の力を緩め、一歩下がると見せて足払いを仕掛けたのだ。
「なっ……」
「稲瀬さん!?」
 大きく傾いた体を立て直そうと両足が動く。しかしそれより早く、ウィルの両腕にぶら下がっていた重しが彼を背中から路面に叩きつけた。
「もらった!」
 投げ出された長い脚をかわした稲瀬はすかさずウィルの横に飛び込み、起き上がろうとした彼の左腕を持って背中側へひねり上げた。
 ウィルの口から彼自身も初めて聞くような声が漏れた。
「ここが日本で良かったわね。よその国ならとっくに撃たれてるはずよ」
 勝ち誇る声が上から降ってきた。起立前に動きを封じられたウィルは、首の後ろを圧迫してくる力強い肘に屈して前のめりに座り、片膝を立てて前屈姿勢への移行を食い止めた。
「記憶が飛ぶほど殴り飛ばしてきたんでしょ? この手で。でも残念でした、私にはそんな手通用しないから」
「何のことだ……俺は、何もして、いない」
 昨年この地区で起きた連続通り魔事件のことはウィルも知っている。新聞の地域版や回覧板の注意喚起のチラシなどで目にしていたし、院長たちが話題にした日もあった。以前あの落伍者と対面した場所の一つがその事件の発生場所だったことは後で知った。
 しかしその一度の遭遇は遠巻きで、他の日は怪しい人間の影さえ見かけていない。
 女刑事がそこまで把握して言っているかどうかもまた、見た目では判別できない。
「知らない、何もしていない。最初はみんなそう言うの。でもこっちには証拠がある」
「ちょっと稲瀬さん、ストップ、ストップ!!」
 押さえつけた腕がもう一段階ひねられる寸前、ついに相棒が二人の間に割り込んだ。彼はまず腕を押さえ込む稲瀬の手を引きはがし、それからウィルをかばうように、先輩刑事の前に立ちはだかった。
「だから落ち着いてくださいって。この人、今は現行犯でも未遂でもないし、別に逃亡しようとしたわけでもなかったですよね?」
「何言ってるの、藤井くんも見たでしょ。おとなしく捕まらずに逃げようとしたじゃない」
「それはあなたが最初から確保する気満々で襲いかかってきたからでしょう。あんな顔見たら誰だって身を守ろうとしますよ」
 刑事たちが言い争う間に、ウィルは姿勢を低くしたまま彼らから二、三歩分離れた。痛みの残る左肩を軽くさすってから足下を見ると、手首から滑り落ちたビニール袋の中身が半分ほど路上に散らかっていた。袋の端は稲瀬の足に踏まれている。
 逃げられない。
「目を覚ましてください。前から思っていましたけど、最近のあなたは時々何かおかしい」
「どう見ても覚ましてるじゃない。どこがおかしいって言うのよ!?」
 激化する口論からもう一歩離れ、落とさずに済んでいたショルダーバッグに手を掛けた。
 実戦経験の乏しい訓練生の身でも人間に勝てないことはない。これまでに遭遇したケース、たとえば公園でならず者の集団に襲われたときは、護身用レベルに威力を落とした武器でたやすく蹴散らせた。
 しかしその時と今日は状況が違う。この場に敵対者の気配はなく、結界の存在を疑わせる異変もない。武器を取り出す機会はまさに今だとしても、それを使えば女刑事の暴走を止めるどころか、身柄確保の口実にされる危険さえ考えられた。
 反撃もできないのか。
(違う。必要なのは反撃ではない。そもそも俺が疑われた理由は何だ、証拠があると言っていたが……)
 バッグの中に半分潜らせていた右手が止まった。
 指先で触れようとしていたものが何であったか。
 気づいた瞬間に腕が震え、視界を覆っていた雲が突然晴れたようなまぶしさを感じた。
「……証拠があればいいのか」
「そう証拠が……えっ?」
「どういうこと?」
 藤井が振り向いた。その横から稲瀬が顔を出した。
 ウィルは二人の反応を聞きながら立ち上がり、ほこりを軽く払ってからショルダーバッグを空けると、中から白い装丁の日記帳を取り出した。
「去年十月と言ったな。正確には十月何日のいつ頃だ」
 開いたページには数行だけ昨晩のウィル自身の書き込みが残っていた。それ以外は白紙のはずだったが、挟んでいた羽根の先端が指す位置に、銀色の文字が浮かび上がっていた。
 羽根を残したままページをめくると、古い筆跡が現れては送られていく。
「俺はこの地に来てから毎日、どこで何を行い誰と会ったかをすべてこれに記録してきた。もちろん前にあんたたちから職務質問を受けた日のことも書いてある。事件当日の俺の行動が分かれば、事件に関わっていないこともはっきりするはずだ、違うか?」
 ウィルをかばった方は目と口を見開いた。
 追い詰めたい方はしかめ面で後輩の脇をすり抜け、ウィルの真正面に立って日記帳を覗き込んだ。
「その話がちゃんと裏取れたらアリバイは成立ね。でも……何これ」
 銀色の文字を読もうとした稲瀬の顔が固まった。
 すると今度は藤井が近寄って、相棒の肩越しに日記帳を調べようとした。しかしすぐにその目が点になった。
「……あの、申し訳ありません。これはどちらの国の言葉でしょうか」
「わかった、どうせこっちは読めないだろうからって適当な証言してごまかすつもりだったのね。日本の警察なめてる?」
「そうじゃない」
 再びページをめくったウィルの前に細い手が割り込んだ。最初に開いた記述まで戻った直後、稲瀬の両手が日記帳の縁を掴み、それを持ち主から取り上げてしまった。
「話の続きは署の方で。これについても専門家にきっちり調べさせるから。観念しなさい」
 稲瀬は日記帳の上下を直して持ち替えてから、やはり彼女には読めない文字を軽くなぞるように眺めた。
 背表紙の下にそっと添えられた手があることに気づかずに。
「その前に一つ訊きたいことがある」
 ウィルが一歩前に踏み込んだ。
 直後、顔を上げた稲瀬の視界からすべてが消えた。
 日記帳の背表紙を弾くように持ち上げられた手によって、白紙が大半を占めていたそのページが、彼女の顔全体に押し当てられたのだった。
「今日あんたを走らせたのは誰の正義だ。――“思い出せ”」
 最後の言葉は、一番新しい銀色の文字で記されていた単語だった。
 それが声に出して読まれるや、教官から与えられた聖なる日記帳が純白の輝きを放ち、争いの現場からすべての影を吹き飛ばした。
 まさに一瞬の出来事。ウィルが日記帳を手元に戻して閉じたときには、刑事たちの目の奥にはフラッシュの残像さえ残らなかった。
「い、今のは……いったい」
 呆然としていた藤井が我に返ったとき、ウィルは日記帳をバッグに戻し、落とした袋の中身を拾っていた。慌てて手伝い始めた刑事の顔色は雪が積もった屋根のようだった。
 稲瀬の方はもっと酷い色に染まった顔で硬直していた。開いたままの目から正義の色は完全に消え失せていた。
「今日ここで見たことは誰にも話すな。あんたまで頭がおかしくなったと思われるだけだ」
「はい……そう思います」
 若い刑事の返答は、腑に落ちない感触と重荷からの解放感を含んでいた。
「分かったらそいつを連れて帰ってくれ」
「……ご協力ありがとうございました」
 目立つ損害は落下の衝撃でペットボトルの角がへこんだ程度だった。買い直す必要はないと判断したウィルは、元通り両手に袋を持ってその場を後にした。
 尾行してくる気配は一つもなかった。