[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - A ]

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 世の高校三年生たちがいよいよ勝負の舞台に立つ一月下旬。季花高校は決戦を前にした緊張感と、温暖化の警告を忘れさせる底冷えに包まれていた。
 そんなある日の午後、体育館では一年三組と五組が体育の授業を行っていた。広い空間を二つに区切り、男女別でバスケットボールの練習試合をしているのだが、男子側のコートには休み時間のような空気が漂っていた。
 理由は一に、体育教師の小森谷先生が所用で席を外しているため。
 二に男子バスケ部員が両組におらず、真剣にやりたい者もいないため。
 そして三に、隣の女子の試合が白熱し、男子の大半がそれに見とれているためだった。
「行けー!」
「ナイスシュート! このまま突き放せ!」
 火花散る女の戦いを尻目に、サイガは男子側のコートを走っていた。真冬の体育館は寒い。彼も他の生徒たち同様に長袖ジャージの上下を着込み、白い息を吐いている。周囲との違いは上着のファスナーを全開にしていることくらいだ。
 五組の誰かがシュートを放ったのを見てその脇へ回り込み、リングに弾かれたボールをさらって駆け出す。ドリブルを途切れさせることなくコートの反対側へ運び、投げる構えを取ったところで、ようやく他の生徒が追いついた。
 ボールが描く放物線はまっすぐバスケットの中心へ。三組に二点追加。歓声は上がらない。
「そろそろ交代……誰も聞いてねえか」
 壁際に座る級友たちは揃って授業を忘れた顔をしている。
 サイガは休憩を諦め、再び自分が立つコート上へ視線を戻した。再び五組が攻撃を仕掛けていたが、ゴール手前でパスに失敗し、ボールが白線の外へ飛び出していった。
 味方の援護に向かおうとしたサイガを、奇妙な感覚が呼び止めた。
 ふと見上げた先にはゴールがくくりつけられた回廊(ギャラリー)がある。普段は生徒が立ち入れないその狭い通路から、誰かがこちらを見下ろしていた気がしたのだ。しかしそこには当然何もなかった。
「あー取られた、ドンマイ! まだチャンスあるよ!」
「萩谷に負けんな芦名! 俺たちがついてるぞ!」
 女子バスケ部のライバル対決は熾烈化しているらしい。
 一方で男子のプレーも続いてはいるものの、そのレベルは隣のコートよりずっと下だった。錯覚を振り払ったサイガが割り込むだけで五組のパスはあっさり途切れ、三組の面々が攻撃に転じた。
 ゴール目掛けて走り出す彼らに続こうとしたそのとき、再びサイガの集中が止まった。
 上ではなく一階。体育館と屋外を隔てる磨りガラスの向こうに人影があった。近くの生徒たちより明らかに小柄なその姿は、まばたきする程度の時間で消えていた。
(今の……ガキ? こんなところに?)
「サイガ! 前見ろ前っ!」
 誰かが叫んだ。
 顔を上げた瞬間、回転の掛かったバスケットボールが彼の眼前に迫っていた。

 サイガを襲った不運なアクシデントは幸い大事には至らなかった。授業が終わってもしばらくは鼻が痛かったが、耐えられないほどではなかったので、保健室に行くことなく放課後を迎えた。
 ボールを顔で受け止めるという失敗そのものは自業自得と受け入れた。
 よそ見の理由を隣のコートと決めつけられたことには納得がいかなかったが、見間違いかもしれないものをわざわざ主張する気にはなれなかった。しかも、
「お前らの泥仕合なんか興味ねえよ」
 つい本音を口走って女子から大ブーイングを食らい、その後も冷たい目で見られ続けたせいで、当時の状況を聞き出すチャンスをことごとく逃していた。
(ま、どうせ誰も見てなさそうだし。聞くとしたら……)
 部活を終えて一人家路を急ぐサイガは、既に次の行動を考えていた。鼻の奥にかすかな血の臭いを感じることもあったが気にする時間はなかった。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい」
 自宅の玄関に入って一声かければ、廊下の奥から返事が来る。今日は母親が台所に立っているらしい。
 スープの匂いに空腹感を刺激されながら台所の前を通り、洗面所で手を洗い始めたあたりで、背後に気配を感じた。サイガは自分の足下を見て言った。
「桂。お前今日俺の学校に来てなかった?」
"What? Come again."(何? もう一回言ってよ)
 可愛らしい靴下の持ち主が冷たい口調で何かを言った。
「今日だけじゃねえよな絶対。最近やけにじろじろ見られてる気がするんだけど」
「ワカラナイ」
「ふざけんな」
 口走った直後、サイガの尻に何かが突き刺さった。
「いってえ、何すんだテメー!」
 サイガは思わず飛び上がってから、幼児の手ではなさそうな何かを払いのけた。振り向けば、悪さとは無縁そうな笑顔がそこにある。
「いつも偉そうにしてるくせに、やることがこれかよ。普通にしゃべれるだろ日本語で」
「んー?」
「サイガ、そんなところで何してるの」
 いつの間にか桂の背後に美由樹が立っていた。長男の怒鳴り声を聞いて様子を見に来たらしい。サイガが顔を上げて頬をこわばらせる間に、桂は身を翻して母親の後ろに隠れてしまった。
「母さん、今こいつが」
 兄の弁明はすぐに打ち切られた。
 半分隠れたまま見上げてくる弟の目が黄金色に光った。そんな風に錯覚した瞬間、言葉の続きが頭の中から消え失せたのだ。
 サイガは唇を噛み、母親の悲しそうな表情から視線をそらした。
「何か嫌なことでもあったの。桂ちゃんに当たり散らしてもしょうがないじゃない」
「違う!」
 怒りと苛立ちを押しのけるように声を上げ、床を踏みしめる。
 この母親が実の子より養子の方をかばうのはいつものことだ。学校からの帰り道、サイガはそんな構図ができることにふと気づき、対策まで練っていた。
 そして想定通りに手札を切った。
「なあ、母さん。まさかこいつをずーっと家に置いとくつもりなのか」
「どうしたの急に。桂ちゃんはもううちの子なの、サイガも知ってるでしょう」
「そういう意味じゃねえよ。もう五歳なんだろ。普通なら保育園とか幼稚園とか通って、近所に友達の一人や二人や十人いたっていい頃だ」
 母親の口元が「え」の発音の形で固まった。
 心に響いている。直感したサイガはさらに言葉を重ねた。
「俺が五歳のとき何してたかなんてあんまり覚えてないけど、あの頃から実隆とは仲良かったし、うちに遊びに来たのも一度や二度じゃねえよな。他にも仲良かった奴はたくさんいた。でもこいつはどうだ。同い年の、ちょっと上か下でもいいけど、そういう友達いるのか?」
「サイガ……」
「今この家に余裕とか金とか足りてないのは知ってる。でも考えてみろ、今年のどっかで六歳になるんだろ。来年には小学生だ。まさかそれまでずーっと家にいさせる気かよ」
「別に家から出してないわけじゃないのよ。お買い物に連れて行ったり、公園で遊んだり」
「でも友達はいないんだろ」
 返答はなかった。
 ではどうすればいいのか。それはサイガにも分からない。今の話は帰り道に親子連れを見かけたから思いついたもので、その子らがいきなり現れた得体の知れない子供と仲良くしてくれるものか、考えてみても自信のあるアイデアは浮かばなかった。
 しかし、正直に言えばすぐにうまくいく必要はないのだ。桂が「西原桂」として人目にさらされる時間が増えれば、今日のようにふらりと高校に現れる可能性は減るのだから。
「……桂ちゃんは、どう思う?」
 美由樹は自分の後ろでじっと黙っている当事者を見下ろした。
 顔を上げた桂と視線が重なった瞬間、彼女の様子が一変した。
「いけない、コンロに火をつけたままだった! 大変!」
 一目散に台所へ戻っていった母親の姿を、サイガはただ見送るしかなかった。
『余計な口出しはするなと言ったはずだ。今の一連の発言は美由樹の記憶から消去した』
 どこからか冷ややかな声が聞こえた。
 サイガが声の出所を探す間に、桂はどこかへ走り去ってしまった。
「おい待て……畜生。記憶から消去って何だよ。だったら何度でも言ってやる」
『ならば貴様の口と頭を封じようか。よく聞け、これは命令だ』
 一段と重たい声が、あることを告げた。
 サイガは耳を疑った。