[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - B ]

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 閉じ込められる夢を見た。
 見慣れた通学路の途中にいながら、前後左右をガラスの壁に囲まれて身動きがとれない。叩き割ろうにも何故か拳に力が入らなかった。
 狭い空間で一人もがく間に、壁の前を人が通り過ぎていった。
 これまた見慣れた制服の男女ペアだった。一瞬横顔を見ただけなのに、すぐ誰なのか分かってしまった。
 あり得ない組み合わせに慄然とした。
 真偽を確かめたいのに、一歩も動けず、次第に息も苦しくなってきた――

「……最悪だ」
 サイガは飛び起きることなく布団の中で目を覚ました。痛みも騒音も熱っぽさもなかったが、今し方見た夢の記憶が鮮明によみがえった途端、強烈な悪寒に襲われた。
 夢に知り合いが登場したことを覚えている日など滅多にない。
 悪夢の原因がはっきりと分かる日はもっと珍しい。
(早くなんとかしねえと、アレが現実になるってことか。クソ野郎!)
 おぞましい想像と現実の朝の冷え込みをまとめて気合いで振り払い、布団から這い出した。それでも記憶は冷たい空気のようにサイガへまとわりついてきた。
 顔を洗うときも、制服に着替えるときも、脳が勝手に言葉をなぞる。
 突然告げられた「命令」を嫌でも思い出してしまう。
『雨宮まりあに近づき、その素性を探れ』
 探れとはどういう意味か。しかもどうしてその対象が同じクラスの女子なのか。意味も目的も分からず困惑したサイガは断ろうとしたが、続く一言に阻まれた。
『先日のスキー場の事件を思い出せ。あの夜の真相を知りたくはないのか』
 その級友は事件の目撃者だった。証言の概要はサイガも既に知っている。しかしサリエルの誘い方は隠された事実の存在をわざとらしくアピールしているように聞こえた。
 きっと、この悪魔はその内容を既に把握しているのだろう。
(だったら狙いは何だ。あいつが目をつけるようなヤバい秘密でもあるのか、あの雨宮に)
 鏡に映る顔は押さえきれない怒りに震えていた。
 窓ガラスにかかる影はぬぐえない不安に揺れていた。
 命令された当初はそもそも「素性」の一語が分からず、携帯電話の予測変換機能と辞書を使ってようやく言葉の意味を掴んだ。理解したらしたで、今度は別の問題に頭を抱えた。
(家柄とか生まれ育ちとかって、結局は本人に聞けってことだよな? でもいきなりそんなこと聞いたって変な目で見られるだけだ。どうやって話を切り出す?)
 翌朝の落ち着いた頭で考えて浮かばない策が、昨夜の混乱した頭に降りてくるはずもない。それでサイガは夕食後まで悩んだ末、改めて辞退しようと考えた。
 するとそれを見透かしたようにサリエルがささやいたのだ。
『やはり素人には荷が重いか。ならばいっそ陽介を遣わすとしよう』
 聞きたくもない名前が突然挙がり、聞き返す一言も出ないサイガの前で、その時の桂は笑っていた。全く違う方を向いて。
『簡単なことだ。貴様の肉体を奴に貸し与え、学校に送り込む。貴様が大人しく寝ている間にすべてが解決するだろう』
 サイガの思考が説明に追いつくまでにはまたも時間がかかった。
 到達した瞬間、胃が丸ごとひっくり返りそうになった。
(俺と、あの■■■野郎が、入れ替わる!?)
 最初の契約の件を思い出すだけでも不快なのに、自分の体を乗っ取られるなど冗談でも許したくなかった。その先は想像さえしたくない。
 だからその時のサイガはこう言うしかなかった。
「……ったよ、やりゃいいんだろ、やりゃあ」
 その結果が最高に寝覚めの悪い朝だった。せめて非常事態が悪夢の中だけで済むように、ここは腹をくくるしかない。
 身支度を終えたサイガが部屋を出ると、廊下を駆けてきた桂と鉢合わせした。弟は兄を叩き起こすつもりだったらしい。もう起きていた兄を見上げると、あからさまに不満そうな顔でどこかへ行ってしまった。

 悪夢の後味は登校中もサイガにつきまとっていた。
 遠い昔、陽介がまだ家族と同居していた頃に語ったことを、求めてもいないのに思い出してしまったのだ。
『いいか、女の子と仲良くなりたかったら、女の子たちからどう見られているかはいつも意識しろ。男の目はほっといていい』
 厚い雲に覆われた空の下、同じ制服を着た生徒たちが次々とサイガを追い抜いていく。その中に手をつないだ男女の後ろ姿を見つけ、サイガは反射的に目をそらしていた。
『どうしても気になる、こっちを向いてほしいって想う子がいたら、その子を笑顔にすることだけ考えろ。直接振り向かせようとするな』
 当時は意味を知ろうともしなかったし、記憶に残っていること自体が意外だったが、今にして思えばあれは恋愛指南だった。去年の夏までに思い出していたら今頃何かが違っただろうか。
 一瞬よみがえったほろ苦い気持ちを丁寧に再封印したサイガは、車道の上に架かった歩道を急ぎ足で渡った。
 今日すべきは一つ、話をして情報を引き出すことだ。
 相手はたった一人、亡霊でも刺客でもない普通の人間だ。
(そうだよ、俺にもできることなんだ。半分死んでる奴なんかに横取りされてたまるか)
 同じ高校の生徒たちでごった返す道に知り合いの姿は見当たらなかった。サイガは背が高い上級生の影に隠れて進み、学校の正門前で小森谷先生に見抜かれ、名指しでののしられながら校舎に駆け込んだ。
 教室に着いたとき、雨宮まりあの席は空いていた。そしてサイガの席の前には何か話したくてうずうずしている様子の沼田がいた。
「あっ、やっと来た。サイガおはよー」
「はいはい、おはよう。朝からなんだそのキモい顔」
「それがさあ、マジで聞いてくれよ。……さっき、池幡が、女子に呼び出されてたっ!」
「……はあ?」
 沼田によると腐れ縁の友人は途中まで一緒にいたが、立体交差の手前で女子二人組に声をかけられ、その場で通学路を外れてついて行ったきり行方知れずだという。小柄な沼田は歩行者の集団に流されて友人を見失い、彼の行方についてあれこれ考えていたらしい。
 心配より妄想に忙しい級友を無視し、サイガは自分の席に座って授業の準備を始めた。しかし背後から甘酸っぱい仮説を耳に注がれ続けるうち、ふと気づいた。
 今日、折を見て同級生の女子に声をかける。
 内容を考えると教室では訊けないから、別の場所に呼び出す。
 あるいは別の日に人目を避けて会う約束を取りつける。
 そのシチュエーションは、かわす言葉さえ変えたなら、ありふれたゴシップネタの一場面になってしまうはずだ。
(俺がやろうとしてること……めちゃくちゃ誤解されるんじゃないか……?)
 サイガは身震いをこらえ、ゆっくりと唾を飲み込んだ。それから周囲に怪しまれず対象と接触する手段を真剣に考え始めた。
 思いつくのは昨晩にも考えたことばかりで、しかも今は具体的な問題や邪魔者が嫌でも目についてしまい、余計に難易度が上がったように感じた。特に面倒なのはいつも教室後方にたむろする女子たちだ。変な誤解をされたらとても厄介に違いない。どう避けたものか。
 背中越しに聞こえてくる笑い声からその顔ぶれを数えていると、椅子が倒れる派手な音にすべてをかき消された。沼田が遅れてきた池幡を全力のアピールで迎えたのだった。
「沼田、お前いきなり叫ぶな心臓に悪い……あっ」
 振り向いた瞬間にひらめきが舞い降りた。
 その糸口をしっかりと捕まえたサイガは、すぐに沼田の手を取り、驚く顔を力ずくで引き寄せた。
「え、ちょ、サイガどうした急に」
「頼みがある。この前のスキー場の件で」
 キーワードを吹き込まれた沼田の顔からふざけた笑みが消えた。
「もしかして何か思い出した? ついに?」
「残念だけどそっちじゃない」
 期待を否定された沼田はわかりやすく落胆したが、友達と決めた他言無用の約束は今も有効らしい。椅子を起こして座り直すと身を乗り出し、小声で続きを促してきた。
 サイガも周囲の様子を見ながら声を潜めた。
「あの後、約束のこと雨宮に伝えたのってお前だったよな」
「そうオレ。ちゃんと伝えたよ?」
「ちゃんと伝えてくれたお前には感謝してる。でも俺、あのときのことまだ謝ってないし、礼も言えてないんだ。他の奴らがいないところで雨宮と話したい、協力してくれるか」
「あいあいさー」小型の蛙に似た顔がにんまり笑った。「で、いつ頃がいい?」