[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - C ]

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 西原サイガには何やら謝りたいことがあるらしい。
 沼田からメールで知らされたとき、まりあには思い当たる節がひとつもなかった。最近関わった出来事ならよく覚えているが、そこに謝られるような落ち度はないはずだった。
 だから戸惑いはした。しかし断りたいとは少しも考えなかった。
《放課後や土曜は部活あるから日曜がいいんだって。空いてる?》
 打診されたその週の日曜日がまさに空いていた。まりあはそのことを素直に書いて返信し、会って話す日時と待ち合わせの話はすんなりまとまった。
 前日までの天気予報では冷え込むと言われていたが、当日を迎えてみるとよく晴れて暖かい日になっていた。防寒性重視のダウンをやめて先月買ったおしゃれなコートに袖を通した娘に、母親が声をかけた。
「もしかして今日、デートなの?」
「えっ? ち、違いますよ」
 まりあ自身にはそんなつもりなどなく、服装も友達と出かけるときのコーディネートと大差ないつもりだった。しかし自宅があるマンションを出たあたりから、その何気ない一言がひどく気になり始めた。
 彼女が同級生の男子と会う約束をしたのはこれが二度目だ。しかし前回は週刊誌の記者と話すのが目的だったから、それ以外の構図や目的が入る余地はなかった。
 今回はどうか。相手の目的は最初から分かっていて、遊びに行くわけではないことなら自信を持って言える。でも、落ち合った駅前で頭を下げられて終わり、では済まない気がする。人前では口に出せない話題だから、本題に入る前にどこかへ移動する可能性は高かった。
 メールをくれた沼田は同席しないらしい。つまり二人きりだ。
 あの不思議な夜のように。
(そう、あのときと同じ。話をするだけですから。……デートではない、ですよね)
 何故か騒ぎ出す心臓をなだめるように言い聞かせるうち、どうして違うと言い張りたかったのかも分からなくなってきた。
 まりあは横断歩道の手前で立ち止まり、右手を胸の上に置いて深く息を吸った。衣服の厚みに埋もれていても、いつもと同じ位置にメダルの存在を感じると、不安も緊張も自然にほぐれた。
(今日は日曜日。重荷を下ろして一休みする日です)
 この街に着てもうすぐ半年。駅までの道のりにはもう慣れた。
(もしも西原くんが何かに悩んでいて、それが人に話すことで楽になるのなら、喜んで聞き手になりましょう。明るい月曜日のために)
 街の中心地、鉄道の高架で串刺しにされたような姿の駅ビルも、すっかり見慣れたものになった。最初は全く分からなかった改札への行き方も、今はほとんど迷わない。
(全部あなたの受け売りです。……これを聞かれたら、笑われてしまうでしょうか)
 遠い街の懐かしいひとを心の中に描きながら、まりあは駅前のバスターミナルに到着した。メールで示された待ち合わせ場所は記者に会った日と全く同じ地点だった。
 駅前の広場は往来の波がちょうど途切れたところだった。その場で見回すだけで改札周辺を端まで見渡せたが、その中に彼女の約束の相手はいなかった。
 まりあは携帯電話を取り出し、待ち受け画面を確認した。指定の十二分前。広告メールが一件。不在着信は入っていない。
(西原くんは山口さんたちと同じ地域ですから……来るとしたら、きっとあの階段から)
 女同士の待ち合わせの記憶を参考に、彼が現れそうな方角に目をやった。
 彼はいつも時間ギリギリに着こうとするタイプなのか。それとも既に駅へ着いていて、どこかで暇を潰しているのか。
 学校生活から読み取れない級友の素顔を想像していると、こちらへ近づいてくる知らない顔の人物がまりあの視界に入った。白髪交じりのもじゃもじゃ頭が特徴的な中年男性で、口元がだらしなく緩んでいる。手荷物はなく、旅行やお出かけの途中には見えない。
 そんな相手に対してまりあが真っ先に思い浮かべたのが、
(この人は、何かお困りなのでしょうか?)
 だから人通りの少ない場所でぽつんと立っている一人に期待した、という推測だった。
 しかし実際に聞いた第一声は、
「今、時間ある? その辺でおじさんとお茶しない?」
 お人好しの発想を一撃で粉みじんにした。
「……ご、ごめんなさい。私、人を待っているところなので」
「でもまだ来てないじゃん。ね、ちょっとでいいからさ」
 まりあは一歩後ずさりして、素早く周囲を見た。朝礼や授業中でもよく目立つ赤銅色は見当たらない。
 その間に謎の男がさらに接近していた。黄色い歯の間から「君カワイイね」と一言発しただけで、アルコール分を含んだ奇妙な臭いがまりあを怯ませた。
(と、東京にも、こんな人はいるのですね……!)
 妙に感心してしまう自分に呆れつつ、まりあはこの状況から抜け出す手立てを探した。
 走って逃げる。大声で助けを求める。シンプルだけど、逆上が怖い。
「お茶するだけだから。変なことしないから」
「すみませんが、約束がありますので」
 電話で誰かに相談する。いっそ警察を呼ぶ。頼れる味方に通話する隙はあるのか。
「ここ寒いじゃん。お友達来るまであったかいとこで待ってよう」
「ですから、あの」
 考える間にも一方的なおしゃべりが止まらない。まりあは次第に左右を見る余裕もなくなり、にじり寄る男と一定の距離を保つのが精一杯になっていた。
 戸惑いより怖さが勝ってしまうと、相手の顔もまっすぐ見られなかった。
 だから、男の表情に生じた小さな変化を、彼女は見逃した。
「やめろよ。嫌がってんだろ」
 後ろから呼びかける声がした。
 まりあが聞いた声を理解する前に、その肩を掴まれた。
 誰の手なのかを悟ったときには、背中を押され、歩かされていた。
「ひゃっ!?」
「悪い、待たせた」
 聞こえよがしにそう言ったサイガは明らかに息が上がっていた。どこからかは分からないが、少なくとも直前までは走っていたらしい。
 乱入への驚きが冷める前に、まりあは背中に回された手によって、頭を級友の肩に寄せて半歩前を歩く姿勢を作らされていた。早足な上に歩幅も違う相手とうまくペースを合わせられない。足がもつれそうだったが、それをうまく言葉にして訴えられなかった。
「あ、あの……」
「しばらく合わせろ。あのおっさんまだこっち見てる」
 今度は小声で言われた。
 言葉の真偽を確かめたくても、振り返ればその瞬間に転んでしまいそうで、まりあは何もできなかった。されるがままの状態に慣れてくると、互いの半身が密着していることを自覚してしまい、違う意味で心が落ち着かなくなった。
 これでは、まるで――
「わ、私、ちゃんと歩けますのでっ!」
「……ああ、ごめん。そろそろ大丈夫そうだな」
 バスターミナルの端から角を一つ曲がり、階段を降りた先で、サイガは手を離して立ち止まってくれた。
 まりあが一息ついて顔を上げたとき、ようやく向き合えた待ち人はこちらを見ていなかった。その横顔には沸騰中の怒りとそれを抑え込もうとする気迫がにじんでいた。
 緊張と胸の高鳴りが急激に冷えた。
「西原くん、ありがとうございます。割り込んでくださって」
「お前さあ」
「はひっ」
 修羅像のような目に捉えられ、まりあは反射的に返事をした。声が裏返ってしまったことに気づいてもとっさに言い直せなかった。
 しかし彼女の焦りだけは伝わったのかもしれない。サイガのこわばった表情が少しだけ緩み、空気が抜ける風船のような長いため息をついた。
「その隙だらけの顔、なんとかしろよ」
「か、顔? ですか?」
「もうちょっと警戒しろってこと。いつかもっとヤバい奴に捕まるぞ」
 サイガはまりあの反応を待たず、歩き始めた。
 こんなときに置いて行かれるわけにはいかない。まりあは小走りで追いつき、今度は自分の足で彼の隣に並んだ。
(今のは、私のことを、心配してくださったのでしょうか?)
 自分がそう思いたかっただけかもしれない。
 他の有力な選択肢を知らないだけかもしれない。
 級友の優しさが本物かどうか確かめたくても、どこか引っかかるものを感じて、結局何も言い出せなかった。