[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - E ]

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 正月の雪山で何が起きていたのか。
 まりあは慎重に表現を考えながら、彼女が知ることを正直に語った。
 サイガは眉間のしわに様々な感情を封じ込め、黙って耳を傾けた。
「……結局、西原くんは外から戻ってきませんでした。そのとき外に立っていたお化けが、なんだか気になって。それでお庭を見ようと思いました」
 停電から救出までに起きたことが一通り説明されると、サイガはゆっくりと息を吐きながら表情筋のこわばりを解いていった。
「そんなヤバいことになってたのか俺」
「笑わないんですね」
「いや、お前が言ったんだろ」
 話の前置きをまりあ自身が忘れていたらしい。気づいた当人が縮こまる様子を見たサイガは思わず吹き出していた。
 深刻な顔で切り出された話が予想外の方向へ転がり、驚きのあまり相づちも忘れていた、その後にこの会話だ。緊張も表情も一気に崩れた。
「さっきも言ったけど、お前は人をからかったり、ホラ話で気を引いたりするような奴じゃない。今のリアクションも嘘っぽくないし」
「そ、そう見えました?」
「お前どっちかって言うとホラ話を真に受ける方だろ」
 反応して開いた口からは否定も反論も出なかった。
「図星かよ……」
「そんなことはないです……多分」
 まりあは呆れた目から逃げるように、顔を両手で覆ってしまった。
 これが何の裏もない雑談の場なら、つつき方を変えて遊びたくなったかもしれない。しかし今サイガの頭を占めるのは、聞いた話のリフレインといくつもの疑問だった。
(なんでそんなことになった? っつーか、それは本当に、本物の俺だったのか?)
 とりあえず矛盾はない。
 空白の時間を埋める答えになっているかというと、そうでもない気がする。
「ま、笑わなかった理由は他にもあるんだけどな」
 サイガはすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけてから、まだ無言で嘆くまりあに一言を投げかけた。こちらがフォローしなければずっとそうしていそうな気がしたのだ。
「俺が化けて出たって話には確かにびっくりした。でも常識外れっていうか、変な事件っていうか、それが『ある』ってことは知ってる。だから、信じられない話だけど聞いてほしいって思う気持ちは、分かる」
 両手が貼りついたままの顔が少しだけ持ち上がった。
「それに今の話聞いて納得したとこもあったし。俺を見つけたのがお前だったこととか、三学期に入ってからなんか苦しそうな顔してた理由とか」
「……わかります?」
「ちょうどお前みたいな立場になったこと、あるんだよ。俺は起きたこと全部覚えてるのに、目の前にいるその人は全部忘れてるっていう。本当に何も覚えてないのか確かめてみたかった、でも結局は黙ることを選んだ。ま、そいつの前から逃げるまではしなかったけど」
 指の間から離れかけていた顔が再び埋もれてしまった。
 サイガは口を滑らせたことを数秒だけ悔いた。そして、このあまりにもわかりやすい相手からさらなる情報を引き出せるのか、不安を感じ始めた。
 問題は話の真偽ではない。まだ本来の目的を果たせてはいないことだ。
(どうして雨宮だったのか。名指しされたのはどうしてなのか)
 この半年足らずの間に彼は様々な“常識外れ”と出会った。幽霊、悪魔、死神、妖怪に動く死体。そして道を踏み外した人間たち。それらの大半は彼にとって災難であり、ある人物にとっては敵だった。
 まさか彼女もその一員なのか。
 それとも本当に、ホラ話でも怪奇談でも受け入れてしまう善良な人間なのか。
「そういや」
 ふと思い浮かべた疑問符がサイガの口からこぼれた。
「雨宮って、前からそういう、ヤバそうな何かが見えるタチだったりすんの?」
「いいえ、特にそういったことは……なかった、はずですが」
 まりあは小さく首を横に振った。
「そうなのか……でもお前って確か、文化祭の前ぐらいに、何かを見たって話してなかった? 沼田が超しつこく騒いでた覚えがあるんだけど」
「え」
 続く質問はサイガにとってただの確認だった。今日の約束を取りつけた功労者の顔が浮かんでから、昨年秋の異様なはしゃぎぶりと、その後に起きた異変の記憶が続けて頭をよぎった。そして、そいつの起こす騒ぎに目の前の級友が関わっていたことを思い出したのだ。
 ところが。
「えっと」
「何だったっけ」
「何でしたっけ」
 相手の顔色が明らかに変わった。緊張や羞恥とは全く違う方向に。
 唐突な変わりようにサイガが面食らう間に、まりあはテーブルの端に備えられたデザートだけのメニュー表を掴み、顔の前に立てかけていた。
「……雨宮?」
 呼びかけても返事が来ない。
 サイガは戸惑い、それから回答を拒否されたと悟って言葉を詰まらせた。今の質問のどこが彼女の心を突き刺したのか全く分からなかった。
 背筋を伸ばして腰をわずかに浮かせ、メニュー表の向こう側を斜め上からうかがうと、うつむく顔とうるんだ目元を見てしまった。
 すぐに座り直したら、今度はメニュー表を支える手の震えが視界に入った。
(まずい。さっきの勘違いより断然まずい!)
 サイガは自分たちの周囲を慎重に確かめ、客も店員もこちらを気にしていないことを確かめた。そして一層の注意を払って右手を伸ばし、メニュー表を上から掴んだ。
「悪かった」
 身を乗り出し、できるだけ落ち着いた声で呼びかける。
「この話はやめとこう。言いづらいことがあるなら言わなくていい」
 顔を上げる気配がした。
 サイガは掴んだものを少しだけ手前に引き寄せ、自分の顔をまりあに見せた。呆然とする彼女の頬にまだ涙が通った跡はなかった。
「何だその顔。どんなこと考えたか知らねえけど、これじゃ俺が泣かしたみたいじゃねえか」
「すみません。違いますから、これは」
「だからストップ。それ以上考えんのやめろ。あと、ほら、何か食え」
「え、でも」
「いいから。ここはそういう店だろ。遠慮しないで好きなもの頼め」
 何度も言わせるなよ、とつぶやきながら右手を離した後、サイガはわざと前を見ないようにした。鼻をすする音も聞こえなかったふりをした。

 控えめな大きさのいちごアイスがテーブルに届いてから、二人はほとんど言葉を交わさなかった。サイガはこれ以上の失言を避けるべく口を閉ざし、まりあはそんな彼を心配するようにたびたび様子をうかがった。
 飲食代の精算についてはほんの少し揉めた。まりあが自分も負担すると言って伝票を持ち、サイガは小柄な彼女との体格差を活かしてそれを取り上げた。呼び出した上に心を傷つけてしまった責任とお詫び、という意図は彼女にいまひとつ伝わらなかったらしい。
 店を出た二人は待ち合わせた駅に戻らなかった。サイガはまりあを家まで送っていくと申し出たが、まりあはそれを丁重に辞退し、代わりの案を出した。
「バスに乗って帰りますので、この先のバス停までで結構です」
 駅前のターミナルからでも乗れる路線に、その一つ先の停留所で乗るという。
 そうして彼らは並んで歩き、直線距離で数百メートル先に立つバス停を目指した。ここでも行き先の確認以外の会話はなかった。
(よく考えたら、一回のチャレンジで答え出すなんて無理な話だった)
 サイガの頭の中は反省と再確認で既に満席だった。
 気になることは山のように残っているから、次の機会を作らなくてはいけない。級友の横顔を時々見ながら、この場で尋ねることを我慢し、思案中と気づかれないよう表情の変化も我慢しながら歩いた。
 しかし、交差点に吹き込んだ北風が、彼なりに考えていたことを根こそぎ倒していった。
(待て。……今の、視線は)
 目にとまったのは赤信号が灯ったばかりの横断歩道だった。
 それが視界の端にあったときには、何かが一緒に映っていた気がした。
(この前の授業中の、ガキ……?)
 今は何度まばたきをしても、白線の上には何もなかった。