[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - F ]

back  next  home

「西原くん……?」
 名を呼ばれてようやく、サイガは自分が立ち止まっていたことに気づいた。
 三歩先まで進んでいたまりあが心配そうな顔で振り向いていた。
「何か、気になることでも」
「いや全然ない。いちいち気にすんな」
 車道の信号が切り替わり、停まっていた車が次々に進み出した。
 交差点のはす向かいの角から少し離れた位置にバス停が見える。二人はその場所を目指し、まず青信号が灯った横断歩道を渡った。
 信号待ちの車の前を横切るとき、サイガはまずその前列に見知った人間がいないかを確かめた。それから残りのわずかな時間で周囲も確認した。
 おかしなものは見当たらない。
 おかしいのは自分の頭かもしれない。
 十数メートルの道のりを渡り終えたときには、サイガ自身が先ほど見たものをほとんど気にしなくなっていた。
「明日からまた学校ですね」
「ちゃんと話して、お互い事情が分かったんだ。次会うときはビビって逃げるのナシな」
「……はい。気をつけます」
 まりあは返事をしながら視線をそらした。
 小動物のような仕草と小さな声から「努力はしてみる」以上の自信が読み取れない。サイガの頭を不安がよぎった。
「あーそうだ、沼田がお前に俺の連絡先教えたって聞いたんだけど」
「はい。電話番号とメールアドレスをうかがいました」
「でも俺はお前の番号聞いてない」
「えっ!?」
 だから、と言葉を続けるつもりだった。
 車道の方から聞こえてきた異音が、舌に乗りかけた一言を忘れさせた。
 首を回した彼がはっきりと目にしたのは、交差点を曲がろうとしたミキサー車の車輪が何かに乗り上げた瞬間だけだった。車の前面がこちらを向いたように頭が認識したときには、直感と衝動によって手足が動いていた。
 すぐ隣にいる人間の腕を掴み。
 後ろへ飛び退き。
 倒れかかってくる身体を支え。
 仰向けに倒れ。
 轟音と衝撃が全身を駆け巡り。
 重圧が内臓を押し潰し。
 それから――
「えっ……そんな、どうしましょう……しっかりしてください!?」
 肩を揺さぶられる感触がサイガを時間の流れの中に引き戻した。目の焦点が合うと、視界の中心に涙で濡れた瞳が現れた。そこからこぼれたのか、ぬるい水滴が頬の上に落ちた。
 遅れて背中と頭の下から痛みが全身に染み始めた。受け身の態勢はスノーボードに乗るために習い、この冬休みに実践してきたばかりだった。しかしそれが今きちんとできていたかは分からないし、舗装は踏み固められた雪よりずっと痛いに決まっている。
「すみません、どなたか、救急車を……!」
 両脚に何かがのしかかっている気がする。
 確かめたくても頭が重くてうまく動かない。
 ふわふわしたマフラーが小刻みに揺れている。
 その隙間から、白くまばゆい輝きがこぼれ落ちた。

 鬼だか幽霊だかよく分からないモノに追い回された末に行き着いたのは雪が降り積もった夜の庭だった。できるだけ遠くへ逃げるつもりだったのに見えない壁が行く手を阻んで外へ出られない。破り方も抜け出し方も見つけられないうちに追いつかれて危うく捕まるところをギリギリで回避するのが精一杯だった。爪なのか拳なのかとにかく重そうな何かが地面に叩きつけられて砕けた雪の塊がこちらへ飛んできた。埋もれるかと思った。こんなところで死にたくない。なんだか寒気がする。真冬の雪山の屋外で寒くないわけがない。でも今の自分は肉体をどこかに置いてきたらしい。どこへ。いつから。そもそもどうやって。答えを探す余裕はない。例の恐ろしい奴が一歩また一歩とこちらへ近づいてきた。誰かに名前を呼ばれた気がしたけど方向も声の高低もよく分からない。頭を上げても星の見えない夜の下に雪混じりの風が鳴るだけで。

 サイガは一度だけまばたきをしたつもりだったが、実際にはもっと違うことをしていたらしい。涙の滝を抱えたまま見下ろしてくる少女が、いつの間にか左右に救急隊員を従えていた。
「聞こえますか!?」
「たった今、もう一人の意識が戻りました!」
 聞き慣れない声が頭上を飛び交うだけでなく、周囲の空気そのものが騒がしい。
 仰向けに寝転がった姿勢のまま視線だけ左右に振ってみると、動き回る何人かの足と、立ち止まる大勢の足が見えた。
 何があった。尋ねる言葉がうまく喉を通ってくれない。
「ああ、無理しないでください。大丈夫ですか。どこか痛みますか?」
 起き上がろうとするサイガに、まりあが手を貸した。腕から肩、背中の順で支えられて上半身を起こし、彼はようやく現実に対面した。
 ミキサー車が目の前で止まっていた。
 ガードレールを潰して歩道に乗り上げていた。
 ついでに歩行者用信号の柱をなぎ倒していた。
 まさに彼が進もうとしていた先、一歩前にいた級友が次の一歩を置いたはずの舗装に、信号機がめり込んでいた。
「嘘だろ……」
 体中に波打って広がる痛みをこらえ、周辺の様子を確かめると、やはり様変わりしていた。警察官や何かの作業員が行き交い、交差点では人の手による交通整理が行われている。黄色のテープに足止めされた人の多さは休日朝の駅前を思い出させた。
 肌で、脳髄で、ことの重大さを感じた。
 救急隊員たちの声が耳に入ってこない。
「彼の家族と連絡が取れました」
「来られそう?」
「それなんですが、今ご両親がちょうどK大付属病院にいるらしくて、そちらに搬送してくれないかと」
「了解。すぐそっちの救命に連絡して」
 唐突にサイガの腰と両足が浮いた。彼は二人がかりで担架に乗せられ、携帯電話のカメラらしきシャッター音を聞きながら、救急車の中に送り込まれた。
 その車両が走り出した頃、ようやく感情と理解力が状況に追いついた。救急隊員の問いかけに答えていくうちに話の筋が整理され、何事が起きていたかを知り、視えていながら見逃していたことにも気づき始めた。
 交差点に進入したミキサー車が何かを轢いてから急加速し、歩道に突っ込むまで五秒ほど。救出された運転手は錯乱状態で真っ先に救急搬送されたらしい。
 その運転手以上に危なかったのが、現場を通りかかった二人の歩行者だったという。サイガは飛び退いて倒れた際に全身を強打し、後頭部からは出血していた。一方まりあは彼を下敷きにする形で倒れたためか無傷だったが、緊急避難が少しでも遅れたら最悪の結果もあり得たらしい。
 ほとんど減速なく突き進む車両の中で応急処置が進む。
 傷の痛みと血の巡る感触が激しい主張を少しだけ緩めた頃、サイガは右手を包む温かいものに気づいた。
 まりあが担架の脇に座り、サイガの手を優しく握っていたのだった。
「雨宮……」
「ごめんなさい。西原くんが心配で、ついてきてしまいました」
「謝るのは、俺の方だ」
 サイガはぬくもりを振り払わず、しかしゆっくりと押し返した。
「今の事故も、この前のも、俺が出かけないでおとなしくしてたら多分起きなかった。お前を巻き込むなんて絶対なかった。怖い奴に会ったのも、結局は俺のせいで」
「そんな、そんなことは、ありません」
「そういうことにさせてくれ。じゃなきゃ俺の気が収まらない」
 車がわずかに減速して左折した。
 外で鳴るおなじみのサイレンが車内にも少しだけ響いていた。
「全部思い出したんだ。あの事件のこと。雨宮、あの夜お前が会ったのは、確かに俺だった」