[ Chapter17「ゴールド・ケース」 - A ]

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 一月の最終週の半ば、ある日の正午前。
 柳院長宅の一階はきれいに片付き、キッチンの片隅では昼食の下準備ができている。営業の電話や訪問者の気配はない。一区切りついた仕事の成果だけがそこにある、働き者にとっては実にすがすがしい空間だ。
 そんな場を完成させたウィルは、リビングの中心で背筋と腕を大きく伸ばしてから、ローテーブルの上に置いていた白い日記帳を開いた。
《今日も時間内に終わったようですね。では始めましょう》
 見慣れた銀色の筆跡を一通り読むと、そのページから白く輝く煙が立ち上った。
 発熱はない。浴びた者がむせかえるような勢いもない。煙はただ静かに広がり数分で部屋全体に充満した。その中心にいるウィルはカーペットの上に足を組んで座り、肩の力を抜いて、ゆっくりと息を吐いた。
 やがて日記帳の上に濃い煙でできた立像が現れた。人間に見えるが顔も背格好も分からないし、全く違う生物のようにも受け取れる。そんな曖昧な何かが彼に語りかけてきた。
『昨日までの復習は済んでいますか?』
「はい」
 最近、ウィルは家の留守を預かる時間を利用し、セラフィエル教官による特別講義を受けていた。
 彼を包む煙は普通の人間の目には映らず、彼自身の姿も傍目には瞑想しているようにしか見えないらしい。実際には何をしているのかというと、日記帳と白煙を通して物質界の外側にある訓練学校とつながり、教官の姿を人間流に言えば幻視しているのだった。
 学び舎に帰るのではなく、肉体の鎧を着たまま教官の話を聞くというやり方について、講義を予告されたときの彼は理解できなかった。しかし講義の主題を知るや、関心が不信を超えた。
『繰り返しになりますが、この講義は特別な許可を得て実施しているものです。結界の構築や実践的活用に関する知識は今回の補習プログラムのためだけに利用し、それ以外のレポートや演習では決して持ち出さないように』
 結界。霊的空間に作った特殊な力場で物質界の一部を切り抜き、隣り合う世界を強引に縫い合わせる技術。
 その基礎的な知識は訓練生のうちに得られるが、作り方や使い方といった技法を教わるには才能と階級と実績、すなわち現場での手柄が求められる。この街の守護天使たちでさえ手の届かないチャンスが見習いに回ってくる異例の事態には当然、理由があった。
 補習の課題は、敵の手に落ちた人間を救い出すこと。
 その「敵」は単独で武装も少ないが、結界の扱いには長けている元同胞。
 助けるべき人間に近づけば敵が邪魔をしてくる。その構図は簡単に想像がつくし、実際にウィル自身や守護天使たちが退けられ、あるいは近づくことさえ阻まれてきた。
 そんな状況を打破し、なんとしても課題を解決させるため――あるいは訓練生に挫折の道を歩ませないため――教官は大胆な作戦を打ち出してきたのだ。
(取り込まれた結界に惑わされず、支配されず、生き延びる。そのために敵の手の内を知る。……本当にそれだけだ。誰が試験の点数稼ぎになど使うものか)
 教官が何を考えているかは分からない。
 誰かのサポートでなく自力での課題達成を望まれている、と訓練生は解釈した。
『結界内で起きやすい危険についてはきちんと押さえているようですね。では今日は、その領域から閉め出された場合の対応について話しましょう』
 不安定な浮遊感がウィルを包んだ。
 白煙が濃霧のようにすべてを覆い隠し、目の前にあるはずの日記帳さえ見失った。はるか後方に吹き飛ばされた感覚と、何もかも幻覚だという認識が噛み合わず、座ったままの身体がふらついた。
 毎回がこんな調子だった。おとなしく話を聞くだけで終わった日は一度もない。知識を伝授され解説されるという意味では確かに「講義」だが、言葉を魂で受け取るにとどめず肉体にも刻もうとしているのか。
(それならそれでいい。俺はこの姿で戦うことになるだろうから)
 ここまでの特別講義で一つ学び直し、あるいは新しく知るたび、ウィルは補習に取り組んできた半年間のどこかを振り返った。たいていは己の経験に結びつく話だった。
 例えば書き換えられた空間の特徴について復習した日。物理法則が歪んで周囲に影響を及ぼしたり、居合わせた人間の感覚器官がおかしくなったりするという。そのあたりは訓練学校で習っていたし、彼自身も何度か体験したのですぐに思い出せた。
 しかし結界にとらわれた人間の大多数は肉体の異常を知覚しないか、できたとしてもあまり気にかけない、と聞いたときは理解できなかった。しかし後になって別の記憶がよみがえり、ただの記憶だった言葉が一連の出来事の説明としてはっきり形を持った。
 それは立てこもり事件の現場に彼の敵が現れたときのことだ。結界によって色彩が奪われていく空間には大勢の人間がいたのに、己の視界に生じた異変を騒ぎ立てる者はその場にいなかった。後日の報道の中にも見当たらなかった。
『人間は多少の不思議に接した程度では大騒ぎしないようにできています。それは刺激の多い世界を生き抜くために獲得した性質で、彼らの先祖と“こちら側”の長い関わりの中で形成されてきたものでもあります。見てみましょうか、彼らの目線で』
 深く息を吸い、白く濁る視界を忘れる。
 すると全身で感じていた擬似的な「異常」がたちまち薄れていき、本気で警戒しなければ感じ取れない程度にまで弱まった。一般人の感覚を教官が示してみせたのだ。
(しかし、この形式で本当に、実戦のための技能が身につくのか?)
 今回の講義も似たような調子だった。閉め出される、という問題が提起された途端、煙と一緒にまとわりついていた不快感が豪快に吹き飛ばされた。急激な変化に粟立った皮膚がようやく落ち着いた頃には、教官の声がやけに遠くなっていた。
 言葉をかぎ取れなくなっても、伝えようとしていることはぼんやりと感じる。
 結界とは二つの世界の狭間であり、力場によって閉ざされた空間でもある。術者が望めば誰かをずっと閉じ込めておけるというなら、逆もまた然り。
(邪魔者を見つけたらいつでも追い出せる。俺ならすぐにでもそうする)
 白煙に包まれているのは今や、彼の前にある日記帳だけになっていた。
 かすかに嫌な匂いがする。その中から慎重にすくい上げた苦みは彼に、補習のきっかけとなった蒼い空間を思い出させた。
『離れた場所からでもそれと分かるような結界は多くありません。通常は目的を果たすに足る最低限の範囲に造りますし、侵入を阻むように組まれることもあります』
「わざわざ敵を誘い込むようなことは……あるとしたら、罠だと」
『そういう使い方もあります』
 ウィルが日記帳に手を伸ばすと、白煙はローテーブルの下に流れるようにして消えた。
 最後の一筋が何の形もなすことなくページの上で踊っている。
『ですが今の貴方にはもっと意識してほしいことがあります。たとえ振り払われても引き下がらないこと。わずかな痕跡を見つけ、結界を追ってください』
 見失わないように、と教官は説いた。
 敵を逃がしてはならない、と訓練生は解釈した。
 それから教官は結界の縮小や消滅といった、力場の外に出された場合の対応を簡単に説明した。それまでより幾分ざっくりした内容にウィルが疑問を抱いた頃、彼の心を察したように話の流れが変わった。
『さて、ここまでは「今の私に可能な限り」攻略の手がかりを教えてきました。じっと座って説明を浴びるのに疲れた頃でしょう? ご安心ください、講義は本日で終了です』
「何だって?」
『この分野は、はっきり言ってしまえば経験がすべて。概念や定石を知ったところですぐに勝てるようなものではない。そこは分かりますね?』
「……はい」
 これまでの小さな体験をただ積み重ねるだけでは到底勝てない。そればかりは素直に認めたウィルに、教官はこう続けた。
『次回からは実践として、演習形式で進めていきます。残念ながら私はそちらに行かれませんが、貴方をサポートしてくださる頼もしい仲間が来ることになっています』
 日記帳から立ち上っていた煙が完全に途絶えた。空中を漂っていた最後の一筋が消えゆく寸前、緩やかに微笑む口元を形作った。
『今日は珍しく時間いっぱいまで続けられましたね。ここまでお疲れ様でした。次の定期報告も楽しみにしていますよ』
 リビングがすっかり静まりかえってから、ウィルは時計を確かめ、立ち上がった。
 前回は隣家の住人がチャイムを鳴らして話に割り込んだ。その前は院長からの電話が講義を中断させていた。それらと比べれば恵まれた日だったと言えるが、つつがなく終わったことは彼に何の感情も起こさせなかった。