[ Chapter17「ゴールド・ケース」 - B ]

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 特別講義の最終日から一夜明け、新たな指示がウィルの元に届いた。
 それはとても簡素な内容だった。行くべき場所と日時、そして注意書きが一行あるだけ。
《貴方が演習のために外出することを誰にも悟らせないように》
 ウィルにはその意味も理由も分からなかった。もとより彼の正体は周囲の人間たちには伏せられているし、先輩である守護天使たちが知っても害はなさそうに思えた。
 しかし日記帳を通した説明要求に答えはなく、一週間がむなしく過ぎた。

 そうして迎えた、金曜日の早朝。
 ウィルは空の端が白くなる前に目を覚まし、手早く身支度を調えた。院長親子を物音で起こさないよう慎重に急いだつもりだった。
 ところが、借りている寝室を出た直後、彼は廊下で重孝と鉢合わせた。
「おはよう」
「……ああ。おはよう」
 心と両足に急ブレーキを掛け、なんとか挨拶を返したウィルを、寝間着姿の重孝が無言で見つめてきた。正確にはそのような動きをした。居候の行く手を阻むかのように立ち止まり、鼻先をまっすぐ向けてきたのだ。
 相変わらず両目は前髪の内側に隠れているのに、ウィルは突き刺さるような視線をはっきり感じた。
「……何?」
 消え入りそうな声が問いかけた。
「何も、ない。特には」
 慎重な返答を受け取った重孝は小首をかしげながら階段を降りていった。
 ウィルはしばらく足音に耳を傾け、重孝がすぐに引き返してこないことを確かめてから、静かに階段を降りた。誰かの家で起動したアラーム音がかすかに聞こえた。
 理由は別としても、外出しようとした事実は早速悟られたかもしれない。
 どこまで知られてしまったかなど確かめようもない。しかし。
(問題があるなら教官がそう言ってくるはずだ)
 心の引っかかりを脱ぎ捨て、運動靴を履いて外へ出た。
 東の空だけが白々しく明るい。冷たい曇り空が見下ろす住宅街には人の気配どころか野鳥の姿も見当たらなかった。
 既に演習が始まっているのか。
 既に余人を遠ざける結界の中なのか。
 早くも疑ってかかったウィルの心づもりは、ひとつ角を曲がった先で否定された。前かごに新聞を満載した自転車がアパートの敷地から現れ、こちらには目もくれず走り去ったのだった。
(予断は危険だ。この演習の全貌が見えていない以上、「何もない」もあり得る)
 そうして警戒心だけを保ちながら、彼は日記帳に記された場所に着いた。
 よく買い出しに行く店への道のりの中程、彼にとってはもはや見慣れた公園だった。ここで一度あの堕天使と会話したこともついでに思い出したが、今は関係ないと割り切った。
 葉を落として枝ばかりとなった木の陰に時計が掲げられている。針が指す位置はまさしく指定された時刻だった。
 条件は満たされた。
 ウィルがそう認識した瞬間、時計の背後に広がる空が、色を変えた。
(夜明け? いや、違う)
 雲の合間に見えていた白色がその輝きを増したかと思えば、すぐに鮮やかな橙色へと変わっていた。しかも光が差してくる方角もいつの間にかずれている。時計の針が少しも動かないうちに、あたりの様子は半日前か後のようになっていた。
 西日が差す公園にウィル以外の訪問者は見当たらない。昼間に時折動き出す噴水も沈黙を守っている。
 人を退けているか否かはともかく、今度こそ結界が作り出されたことは明らかだった。
(これが訓練か。実戦投入されるときはこんなにわかりやすい展開などあり得ない)
 ウィルは周囲を目で軽く確かめると、ショルダーバッグから日記帳を取り出して開いた。最新の日付のページは家を出る前に見たときと同じ状態だった。
 日記帳を持ったまま、今度は四方にあるものを一つずつ見ていった。誰かが姿を現す気配はない。耳を澄ませても風の音さえ拾えなかった。
 本当にこれは訓練のために用意されたものだろうか。
 疑いと別の仮説が頭に浮かんだとき、頭上からウィルを押さえつけるように声が響いた。
『未熟な羽よ。まずは困難に挑まんとする意気、しかと受け取った』
 それは人間で言うなら壮年の男の声だった。
 大仰な言い回しは初めて聞くものだったが、声そのものはウィルにとって触れた覚えのあるものだった。しかも心当たりがごく最近の記憶なので、場面も状況も悩むことなく思い出された。
 守護天使たちの新年会に列席していたうちのひとり。
 あの家を寝床とする同胞を紹介されたときにはいなかったから、恐らくリーダーに招かれた客だったのだろう。
『だが立ち止まる暇はない。要石を探し出し、この檻から逃れてみるがよい』
 ウィルがつかみ取れた声はそれだけだった。
 それだけで事足りた。
 訓練生は日記帳を閉じてバッグに戻し、両手と心を空っぽにした。それから改めて、黄昏色に染まった公園の中を調べ始めた。
(要石、と言っていた。確か、結界を構築した後、それを維持する仕掛けを組み込んで設置する物体、だったか)
 講義の内容を復習しながら、まずは敷地の外周を回ろうとした。ところが公園の入口に着く手前で急に足がもつれ、まっすぐ進めなくなった。
 何も知らない者ならまず派手に転び、起き上がる間に自分が外へ出ようとしていたことを忘れ、引き返していただろう。ウィルがそう考え、また自らがそうならずに済んだのは、罠を形作る力場の存在を五感の外で感じ取ったからだった。
 結界の内外では霊的素子(エーテル)の濃度や性質がまるで違う。それを今ここで近くとして得られるのもまた、教官の企みもとい指導の成果だ。
(要石は必須ではない。術者自身が制御し続けることもままある。しかし今回は言われた通りに探せばいいだろう、これは演習だ)
 ウィルは足下に点在する歪んだ空間を慎重に避けながら、力場を支える秘密を探した。
 “要石”と呼ばれているが石とは限らない。無生物とは限らない。物質界に存在するものであれば何でも利用されうると教官は言った。
 とはいえ、文字通り「何でも」疑っていてはきりがない。現実に気づいてしまった訓練生は、時折ふらつきながら公園を一周した後、遊具の周辺に的を絞って手がかりを探した。
(俺を閉じ込めた結界の浸食範囲は公園の面積の八割強といったところか。その中のどこかに要石がある。……本当に、嗅ぎ分けるしかないのか。より確実な探し方が必ずあるはずなのに)
 結界は作らせてもらえなくても、その前段階にある霊的素子の操り方を少しでも学べていたなら。境界線上の罠と同じような仕掛けをこちらも作れていたら。階級の差がそれらを許さなくても、せめて力場に触れる魂の感度がもう少し高ければ。
 探るほど、考えるほど、己の実力不足が傷口に触れた水のようにしみてくる。
 悔恨の霧を振り払いながら遊具を調べていたそのとき、講義では聴かされなかった異変が彼を襲った。何気なく触れた滑り台の手すりに指が吸いついたかと思うと、肉体の内に溜めていた力が手すりの方に流出を始めたのだ。
(これも、罠なのか)
 ウィルは力ずくで手を引き離してから、ふと、奪われた霊的素子の行方に疑問を抱いた。そして滑り台の頂点を見上げ、続いて傾斜の下を覗き込んだ。
 成人の視点では死角になる傾斜の根元に、黄金で飾られた箱が置かれていた。
 ありふれた忘れ物のように放置されているが、派手な意匠は一般市民の遊び場にどうもそぐわない。そんな箱を、長身のウィルは大きく背を丸めた姿勢で拾い上げた。
 彼が直立の姿勢に戻った瞬間、箱の天面が突然左右に開いた。
「お見事」
 明け方の色に戻った空の下、一人分の拍手が聞こえてきた。
 顔を上げたウィルの前にすまし顔の少年が立っていた。少女のようにも見える。結界越しに聞いた声の主どころか、訓練生が補習中に出会ったどの同胞とも違う声、そして顔をしていた。
(だがそんなことは些細な問題だ。姿形など後から作るもの、経歴も実力も関係ない)
「今日の演習はこれにて終了。それは返してね」
 少年は満足そうに宣言し、ウィルから箱を取り上げた。発せられた声は朝夕に路上を行き交う子供たちの声と似ていた。