[ Chapter17「ゴールド・ケース」 - D ]

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 指定された地点に現れる結界の要石を探し出す。
 余裕があれば結界空間の特徴と範囲を特定する。
 ウィルに出される課題は常にその二つだけ。単純で明快、この先に待ち受ける困難を思えば易しすぎるのではないかと、時に教官の意図を疑うほどだった。
「そりゃあ、経験積ませるのが目的やからねえ。明日も気張っていこか」
 一方でこの演習は、時間帯や場所だけでなく空間の異変や罠の内容、そして終了後に評価をくれる講師も毎回違うという特徴があった。
 共通するのは日記帳を通じて指示が来ることと、要石が必ず「金色の入れ物」であることくらい。後者についてウィルは探しやすくして難度を下げるためと推測しつつ、そのわかりやすさに頼りすぎないよう常に注意を払った。
「キミ、もうちょっと肩の力抜けない? 実戦でも事前情報掴んで探すことだってあるんだからそのつもりで、こう、パパッと! サクッと見っけちゃって!」
 訓練生は着実に学んでいた。
 結界内を荒れ狂う霊的素子の濁流をより精確に把握する技術を。
 この世界の足下に隠された脆さと、それを知らずにいられる人間の鈍さを。
 そして日替わりの指導役が残していく講評のほとんどに深い意味はないことを。
《次回の演習は明日の午後三時より以下の地点で実施します》
 日記帳のページに浮かび上がった次なる待ち合わせ場所は、ウィルが初めて訪れる地域にあった。普段の生活圏から少し遠ざかるだけで街の匂いはすっかり変わってしまう。新鮮な感触を味わいながら着いたその地点は橋の上だった。
 宅地の間を縫うように細い川が流れていた。ここでは両岸をコンクリートで固められた水路でも「川」とみなされるらしい。わずかな違和感にウィルが首をひねっていると、どこからか香辛料を煮詰めたような匂いが漂ってきた。
『演習を始めマース! 今日も気合い入れてクダサーイ!』
 風変わりな抑揚が混ざる少女のような声が今日のゴングだった。
 その瞬間にウィルが感じ取った異変は匂いだけではなかった。肌に触れる熱気、内臓の間を這うような振動が過ぎ去った後、川の両岸を歩いていたはずの人間たちが忽然と姿を消していた。
 短期間の訓練でここまで鋭く察知できるようになったのか。
 あるいはそう錯覚させることこそが罠なのか。
(今は些細な問題だ。結界を解いてから確かめればいい)
 ウィルは最後に見た人間の進路を目でなぞり、その方向が示す川の上流へ向かった。
 すると橋を離れてから五メートルほどで香辛料の匂いが薄れ、さらに進むと全身を駆け巡っていた霊的素子の乱れが嘘のように消えた。すぐに振り向いて目にした世界では人間も自動車も橋の上を行き交っていた。
『結界は閉鎖空間とは限りません。目的によっては内外を隔てない形で置かれますし、あえて敵方に探知や出入りを許すことさえあります』
 特別講義の中でセラフィエル教官はそう語っていた。前後の話題も含めて記憶を拾い直したウィルは、たった今たどった道を引き返し、自分が演習の舞台上から外れていたことを確信した。
 それから後は川の流れに沿って歩き、特徴的な匂いが立ちこめる範囲を開始地点から二つ先の橋までの間に絞り込んだ。そして目当ての要石が川の中かその周辺に隠されていると判断し、川と歩道を隔てる柵を乗り越えた。
 水量は少ない。水の他に見えるのはコンクリートのブロックを敷き詰めた壁と、その隙間から枯れた葉を覗かせる雑草ばかり。物を隠せる場所が見当たらなかった。
 しかも川面の高さまで降りてから、匂いの濃度も肉体を突き抜ける濁流の加速も勢いを増していた。
(近づいている。このまま進めば、恐らく)
 ウィルは一歩踏み出した。
 目鼻が刺激臭に覆われ、視界と思考を奪った。
 次の一歩を踏み出そうとした動きのまま、彼は片膝をついていた。

 目が覚めたとき、気絶していたと知った。
 天井を見たとき、家に帰されたと察した。
 よく知る部屋の馴染んだベッドの上で、ウィルは己の失敗を悟り、悔やんだ。
(箱を見つけるどころか、空間の変質を読み切れなかった。何のせいでもない。俺の感覚は鋭くなってなどいなかった)
 両手を片方ずつ動かし、肘を立て、上半身を起こす。それだけの動作なのに全身がやたらと重たく感じられた。起き上がって一息つけば、今度は鼻から喉の奥にかけて突き刺さっている香辛料の刺激にむせた。
「今までこうだった。だからダイジョーブ。それ、油断。キミの悪い癖デス」
 乱れた呼吸の間を縫うように入ってきた声があった。
 ウィルは顔を上げ、間借りした部屋に残されている重孝の学習机を見た。本人はここにいない。しかし付属の椅子が引かれ、くすんだ赤色の髪の女が座っていた。
 つい先ほど彼が耳にした、スタートを告げるあの声を、その人物が確かに発した。
「スパイスの香りは、フェイク。ワタシが仕掛けマシタ」
「フェイク? ……結界の影響ではないということか」
 正解、と手を叩く今回の講師は、ウィルに次の発言を期待するまなざしを投げかけていた。何か言いたいことがあるのか、それとも言わせたいのか。
 ウィルは視線を避けるように体をひねり、壁の方を向いて考えた。
(今回はいくつもの異変が同時に起きた。それぞれの性質や目的を調べ尽くしたと言えるか。俺は本当にあらゆる可能性を考えたと言えるか)
 否定しかできなかった。
 記憶の残滓を掘り返すほど、違う行動をとれていただろう場面に気づかされた。もちろん今それを知ったところで手遅れでしかない。
 まさしく指摘された通り、油断していたのだ。前回までの演習で一度も間違えなかったために。そもそも仕掛けの作り手が味方だと知っていたために。
 敵地に乗り込むための演習であることを、どこから、いつから忘れていたのか。
「同じミス、昔、ありマシタ」
 講師の女が寂しそうにつぶやいた。
「スパイスは、自然の恵み。文明を育てる糧。だから危険ない、ダイジョーブ。ワタシの仲間、言ったそうデス。……でも、それは毒だった。ワタシの仲間、そのまま還ったそうデス」
 かえった、という部分だけをウィルは復唱した。
 物質界の生物が毒に倒れたときの末路とは意味が違う。顕現させた肉体はもちろん、肉の鎧に守られた魂も壊れ、その存在を維持できなくなることだ。
 崩れ去った魂はあらゆるつながりを失う。どれほどの功績を残そうと、どんなに親しい者がいようと、たちまち誰からも思い出されなくなる。そんな話をどこかで聞いたことがあった。
 いつか一人前の戦力としてどこかに送り込まれたとき、現実となったそれに、直面するのだろうか。
「その“還った”人物を忘れても、言われたことは覚えていられるんですね」
「任務に当たっていて、記録係が書き留めていたら、発言は残る。でも、情報だけ。誰が言ったかは残ってないデス」
 ウィルは体をひねり、講師に正面を向く形で座り直した。
 名前も知らない女の顔から、認識も感情も消えそうになっていた。
 と思いきや、
「いっけなーい、おしゃべり過ぎマシタ!」
 訓練生がまばたきもしないうちに、講師は軽く舌を出して笑った。
「とにかく、今日のキミはとっても危なかった。同じミス続いたら、もっと危険。合格は無理デス。オーケイ?」
 たたみかけるような警告に気圧され、ウィルは何か引っかかるものを感じながらも、結局は黙ってうなずいた。そうしないと話が進まない気がしたからだった。
「今日の演習はここまでデス。次の連絡までしっかり休んでクダサーイ」
 言い切った次の瞬間、赤毛の女は姿を消していた。
 ウィルは一人きりになった部屋を見回し、大きく息を吸い込んだ。残っているはずもない香辛料の匂いを思い出してから、普段なら夕食の仕込みを始める時間帯であることに気づいた。
(俺は、何のために、ここにいる?)
 ベッドを降りてから椅子を元の位置に戻し、机の上の日記帳を開いた。
 教官の筆跡が一行増えていた。
《今日の課題に再挑戦したいですか?》
 否定などできるはずがなかった。