[ Chapter17「ゴールド・ケース」 - E ]

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 装着したマスクとゴーグルに緩みがないことを確かめてから、片手に小銃を握った。
 目標は一点。チャンスは一度。
 追い風が限りなくゼロに近づいたその瞬間、欄干を飛び越え浅い川の中央に着地する。息をつかず振り向きざまに構え、引き金を引いた。
 常人には見えない祈りの弾丸は、橋の真下に貼りついた金の箱、その中心を見事に撃ち抜いていた。
「アメイジング!」
 落ちてきた箱を赤毛の女が両手で受け止めた。
 ウィルは小銃を向けたまま固まった。
「キミ、やればできる! リベンジ大成功デス!」
 思考停止の原因は手放しの賞賛でも、誰もいなかった橋の下に講師が突然現れたからでもない。
 想像以上にあっけない決着だった。
 教官から知識と道具を借りるという、前回との大きな違いが見せつけた現実だった。

 数日後、日記帳に教官からのメッセージが浮かび上がった。
 主な内容はここまでの評価と次の指示だった。ウィルは流し読みしてから家事に取りかかるつもりでいたが、途中で文章をなぞる指が止まってしまった。
《これは推測ですが、貴方が罠につまずくまで自力での解決に拘っていたのは、結界の作用によって私との連絡が寸断される可能性を警戒したためでしょうか?》
 素でこんなことを書くはずはない。訓練生は即座に身構えた。
 通常カリキュラムの訓練中の様子から、先日の講師が指摘した「悪い癖」まで、教官はすべてを把握しているはずなのだ。
《何度もお伝えしている通り、これは訓練です。こちらが受け止めきれる範囲の失敗ならむしろ今のうちに経験してください。貴方が敵地で孤立することを恐れているなら、私たちが今ここで、そうなった時の対処法を指導します》
 一見優しい呼びかけを何度読み返しても、心の奥底で何かが煮えるような感覚が増しただけだった。しかしそれを行動の源にはしない。ウィルは感情を脇に置いて日記帳に簡素な返信を書き込み、翌日に行われるという次回の演習に備えた。
 今度の待ち合わせ場所は駅の近くにあるスーパーの正面入口だった。ウィルが柳医院に住み着いてから頻繁に利用する店のひとつだったので、当日は誰にも怪しまれずに外出できた。
 そして指定された時刻はまさに店が混雑する頃合い。平日夕方のタイムセールを店内放送が盛んにアピールする中、彼は買い物かごを持たず入口手前で足を止めた。
(恐らく土地勘の有無は関係ない。確実なのは、より見つけにくい位置に要石を仕掛けてくることだけだ)
 日記帳を入れたショルダーバッグを肩に掛けてたたずむ姿は、この街に来てから彼の「普段」になっていた。試練の始まりを待つ間、彼は店を訪れた何人かの顔見知りに挨拶され、また店内に入らないことを不思議がられた。
 やがて雨が降ってきた。こうなると傘も買い物かごも持たず軒先に立つだけのウィルは、どう見てもただの雨宿り客だった。
(今度はどこから現れるか。少なくとも前回と同じ内容にはならないはずだが)
 開始の合図を待つウィルの前を、雨に濡れた人間が何人か通り過ぎた。そういえば、と彼は昼食前に見た天気予報を思い出した。
 この地域の天気は終日晴れ、降水確率はゼロパーセント。
 傘を持っていない人ばかり見かけるのは当然と言って良かった。
(何も感じない。この天候は結界と無関係の可能性が高い……が、断定にはまだ早いか)
 店内放送がタイムセール開始を宣言した。それは教官に指定された時刻が来たことも意味していた。
 ウィルは入口に背を向け、軽く息を吸った。雨降りの空気の匂いにかすかな違和感が混ざる。演習を重ねていなければ気づかないか無視したかもしれない小さな変化を、今の彼は課題の準備が整った合図として認識した。
 ところが前回までのパターンに反し、約束の時間になっても講師の声が降ってこなかった。人の気配が消えるどころかスーパーの客足が途切れない。何も起きないという状況こそが不自然に思われた。
 そんな中、土木作業員の格好をした若い男が店先に駆け込んできた。男は店内に進まず軒下で立ち止まると、ウィルのすぐ隣に来て、はっきりした声で告げた。
「演習は中止だ」
 聞き返そうとしたウィルの手を男が掴んだ。
 静電気より強いしびれが訓練生の思考を一瞬せき止めた。
「もう感知できていたのか。確かに結界はこの近辺に展開されている、でもその制御は僕の手から離れてしまった。君の安全は保証できない。早く避難してくれ」
「避難?」
 ウィルがようやく一言発したときには既に手が離れ、男は雨に濡れた歩道へと駆けだしていた。
 その後ろ姿を追うべきか。
 その発言を疑うのが先か。
 反射的に踏み出した一歩を引っ込める動作の間にウィルは考えた。そしてショルダーバッグから日記帳を取り出し、羽根を挟んだページを開いた。
 短いやりとりのすべてを白いページに書き記すと、そのすぐ下に新たな文章が浮かび上がってきた。
《状況は把握しています。貴方が聞いた話は残念ながら事実のようです》
 ウィルは短い文字列を何度か読み返し、雨模様の空を仰いだ。
 肌に触れる空気も、体の芯を伝う震えも、天候の変化に気づいたときから変わっていない。雨脚は強くないが、辺り一帯が陰鬱な色に染まっている。
 彼が視線を手元に戻したとき、教官の手による文章は少しも足されていなかった。そのページにまだ残っている空白に、訓練生に握られた羽根が質問を綴った。
《結界の制御が手から離れたとは、“要石”を何者かに奪われた、という意味でしょうか》
 一文を書き記すのにかかった時間と同じくらいの間を置いてから、返信が現れた。
《その可能性はあります。しかしあの箱を手に入れたからといって結界の制御までできるようにはなりません。少なくとも、事情を知らない人間が偶然見つけて持ち去ったという話ではなさそうです》
 当然だろう、とウィルは思わず呟いた。
 これまでの演習で彼自身が何度か問題の箱に触れている。しかし先達の技術が都合良くその手に転がり込むようなことはなかったのだ。
《では、敵兵が持ち去った可能性はありますか》
《否定はできません。ですが先日の講義でもお話ししたように、“要石”には通常、敵の妨害を防ぐための細工や罠が施されています。地獄の軍団の手先が偶然この近くに潜んでいたとしても、並の悪魔は箱に触れることさえかなわないでしょう》
 結界の制御、つまり重なり合う世界の融合を維持し続ける技術は簡単には身につかない。それは天の軍勢だけでなく敵も同じ。教官はそんな話をしていた。
 だとしたら、現場には何がいたのか。
 ウィルが想像の中で問題を整理する間に、彼の日記帳には見えないペン先で新たな説明が書き足されていた。
《もしも細工を破った上で持ち去ったのであれば、それは同じく結界を扱えるような人物か、もともと霊的素子による干渉を受け付けない存在、いずれかの仕業でしょう。しかし後者に当てはまるような生物がいるとの記録はありません。前者の条件を満たすような軍団関係者がいたなら、私の元にも講師の耳にも情報が入っているはずです》
 雨はやまない。
 人の往来も止まらない。
 スーパーで買い物を満喫した老婆が、膨れたレジ袋を積み込んだカートを押して、雨に煙る街へと出て行く。
 ふらつく背中をぼんやりと見送ったウィルの目が、曲がり角の手前でとまった。先ほど講師が向かった方角でもあるそこには、スーパーの提携駐車場の看板がある。
《この街には少なくとも一人いるはずです》
 訓練生は記さずにいられなかった。
《結界を扱えて、軍勢と敵対していて、しかし事実上ほぼ野放しにされている者が》
 教官からの返信が途切れた。
 短い否定も、肯定も、綴られなかった。
《これから避難を試みます。しかし、もし経路を誤って敵兵に遭遇した場合、武器の使用は許可されますか》
 訓練生がページをめくってさらに書き足すと、その下に無数の線が現れた。
 形作られた小銃が紙の中から飛び出し、立体の造形物として物質界に現れる。そのグリップを握ったとき、訓練生の視線は色褪せた看板に向けられていた。