[ Chapter17「ゴールド・ケース」 - F ]

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「えっ、まりあちゃんってそっち方面の道じゃないよね?」
「今日は寄りたいところがありますので、お先に失礼します」
 異口同音の「珍しい」を背に、まりあは普段の通学路と九十度違う道へと進んだ。その先には私鉄の駅、そして駅の近辺に軒を連ねるたくさんの店がある。
 学校帰りの寄り道そのものはさほど珍しくないが、友達に誘われたのではなく一人きりでとなると話は別だった。今までにない行動、その理由、どちらも心の中で再確認するたびに頬が熱くなる。
(どうしましょう。こんなことになるなんて、まるで考えていませんでした)
 まりあはいつもの通学鞄に加え、麻で編まれたシンプルなトートバッグを持っていた。その中には体操着に隠れるようにして、優美なデザインが施された金色の箱が入っていた。
 先週末に友達と出かけた際、依子に勧められて購入した、チョコレートの詰め合わせだ。
『結局気にしてるんでしょ、ペンダントの彼。お坊さんだっけ? 牧師さん? 何でもいいけど、別にこっちから送っちゃうのは問題ないんじゃないの。出すだけ出したら?』
 口車に乗ってしまった後、抱いた感情は後悔ではなく迷いだった。
 彼への想いは引っ越す前と変わっていないのか。自分自身に問いかけるたびに自信がなくなっていった。それでも彼がくれたメダルは今も毎日身につけているし、気持ちが離れてしまった感覚もなかった。
 数日悩んだ末、まりあはチョコレートを贈ろうと決めた。それもそのまま送るのではなく、自分の手でラッピングしようと思いつき、材料を売る店を幹子に教えてもらった。
 ところが。
(郵便ポストが見つかりません……どこかで道を間違えたのでしょうか……)
 まりあは正しい道順の途中にあるという目印を見失い、歩き慣れない路地をうろうろしていた。街灯に取り付けられたプレートから駅前の商業地区にいることは分かっていたが、どの角をどう曲がっても、郵便ポストや他の目印が見つからなかったのだ。
 住宅と商店が混在する道の奥に、周囲のどの建物より高い駅ビルの威容がよく見える。駅からそれほど遠くないとの話も聞いていたので、目的地は近いはずと信じることにした。
(スーパーの看板。あっ、もしかして、あれでしょうか。その先を左へ曲がって……)
 手探りを繰り返すうち、迷った地点から数えて二つ先の目印が見つかった。まりあは雨の降り始めに気づいて折り畳み傘を広げつつ、四つ角を指示通り左に折れた。
 目的地まであと少し。
 建ち並ぶ建物を通り過ぎながら数える。しゃれた名前のアパート、表のシャッターを固く閉ざした雑居ビル、駐車場、看板のないビル、店を畳んでしまったらしい中華料理屋。その先に最後の目印となる案内板を見つけた。
 まりあは迷子でなくなったことにほっとしてから、通り過ぎる間に見かけたもののひとつがふと心に引っかかり、少しだけ引き返した。
 白線を引いただけのシンプルな駐車場に車は一台も止まっていない。
 しかし、人がいた。
 白いコートを着た人物が、道路に背を向け、ビルの外壁に切り取られた狭い空を見上げていた。
(ああ、やはり幽霊ではなく人でした。見間違いでなくてよかったです)
 まりあが胸をなで下ろしたそのとき。
 向かい風が吹いた。
 白いコートの裾が揺れた。
 何もないはずの土地に建物の骨組みが現れた。
「えっ……?」
 あり得ない光景はまばたき一つの間に消え失せた。
 次に彼女が見たものは、駐車場を占拠する人物が振り向く姿だった。左腕に小さな箱のようなものを抱えている。顔は判らない――白い仮面に覆われている。
(……怪人、ルシファー……?)
 まりあはとっさに目をそらしてから一歩下がり、ゆっくりとその場を離れた。今し方見たものこそが錯覚だったなら、何事もなく先に進めるはずだった。
 そうであってほしいとの願いは数メートル先で雨に溶けた。
『何故、逃げた?』
 斜め後ろに傾けていた傘の向こうから声がした。名指しでも対面でもないのに、まりあは自分に向けて言ったものと直感した。
 廃業した店のガラス扉には彼女の他に誰も映っていない。
 それなのに、歩く速度に合わせて後をつけてくる気配は、はっきりと感じる。
「ええっと……何かをされているようでしたので、お邪魔しないほうが良いかな、と」
 思ったままを素直に述べた言葉に返答はなかった。
 その代わり、足音も立てず現れた仮面の男が、まりあの正面に立ちはだかった。
「ひっ!?」
『動くな』
 身じろぎしたまりあの手からトートバッグが滑り落ちた。
 足下の状態や中身の無事を気に掛ける余裕はなかった。
『この区画には人間が近づかぬよう壁を築いておいたはずだ。如何なる方法で侵入した?』
「し、侵入だなんて。私は道に迷って、ここを通っただけで……壁なんて、見かけませんでしたし」
『見かけなかった、だと』
「そうです。本当です」
 まりあは地響きのように胸の奥を揺さぶる声に押され、通学鞄だけ肩で守りながら、両手で傘を握り直した。
「それに私、先日のこと、あなたのことは、まだ誰にも話していません。ですから」
『解っている』
 怪人が一歩進み出て距離を詰めてきた。
 合わせてまりあが下がろうとする動作は、仮面の奥の眼差しが許さなかった。
『道に迷ったと云ったな。哀れな小娘よ、隠し持っている道具をここに置いていけ。そうしたなら目的の場所まで導いてやってもよい』
 具体的に何を指すかは言われなかった。
 しかしこの場で求められる取引材料を、まりあはたったひとつしか思いつかなかった。
 今もセーラー服の内側に隠れている、大切なメダルだ。
 一連の不思議な事件と彼女を引き合わせたかもしれないものだ。
(以前この人と出会ったときも、これを狙われました。……でも、渡せません。渡してはいけない気がします)
 まりあは宝物に触れる代わりに、傘を持つ手を強く握った。
『以前と同じように縋(すが)るつもりか。幾度(いくたび)も同じ手が通用すると思うな』
 少しも飾り立てない純白の仮面が、手を伸ばせば届く位置にある。
 怪人は飾りが目立つ金色の箱を左腕から落とすようにコートの内側へと放った。
 その肩の動きが視界に入ると、まりあは反射的に怪人の手元へ目をやった。そして見てしまった。
 白い手袋をはめた左手にしっかりと握られた短剣を。
 彼女の首に向けられた鋭い切っ先を。
『渡す気がないなら、答えてもらう。誰が貴様をここへ遣わした』
 雨雲を映した刃が少しずつ近づいてくる。
 まりあはゆっくりと顔を上げた。恐ろしい声と恐ろしい行動でこちらを追い詰める人物の目は、全く笑っていない。
(どうしたら、どう答えたら、この人は止まってくださるでしょうか)
 満月を思い起こさせる瞳は確かにまりあへ狙いを定めていた。しかしそこへわずかな陰りが指したかと思うと、怪人の頭が突然動き、まりあの後方へと向けられた。
 それとほとんど同時に、まりあは声を聞いた。
「動くな」
 先に彼女へ突きつけられたのと同じ言葉を、別の誰かが、そっくり引き継ぐように言った。
 凶器を前に身動きのとれない彼女には声の調子と聞こえてくる方向でしか状況を判断できない。迷いを振り切る発声。位置は怪人のはるか後方。きっと曲がり角から現れ、こちらの窮地を救いに来たのだと、信じるしかない。
『誰かと思えば、まだ踊らされていたのか』
 怪人は新たな登場人物にそんな言葉を掛けると、まりあの首に短剣の先端を向けたまま、彼女の左側へ回り込む形で横並びにたった。
 まりあは初めて怪人の横顔をはっきりと見た。といっても仮面が顔の曲面に合わせて耳の手前までを覆っていて、隙間から素顔を垣間見る余地などなかった。耳の形と髪型はどこかで見たような気がしたが、薄墨を染み込ませたような髪色には覚えがなかった。
「それがどうした。あんたこそ自分の置かれた状況を解っていると言えるのか」
 怪人とにらみ合いになったらしい人物の声もまた、まりあには聞き覚えがあった。
 少なくとも文化祭の前と当日に一度ずつ。彼女が仮面の人物を最初に目撃した日、まさしくその刃に立ち向かっていた、あのプラチナブロンドの人に違いない。
 ではその刃がこちらへ向けられた今、彼はそこで何をしているのか。
『虚仮威しに屈するとでも? その弾が人間に当たるとどうなるか、知らないはずが――』
 破裂音、あるいは雷鳴に似た音が空気を叩いた。
 ほとんど同時に、怪人の左手が爆ぜた。
 木の葉のように落ちる短剣を、黒い砂煙が広がる様を、彼女は幻としか思えなかった。