[ Chapter17「ゴールド・ケース」 - G ]

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 小銃の引き金を引いたことをウィルは後悔しなかった。
 狙った通りに命中したと判った瞬間には高揚感さえ得ていた。
 それゆえに、油断した。
『一撃を当てて満足したか?』
 ウィルが敵の声を聞いたとき、無機質な仮面は既に至近距離まで迫っていた。
 黄金色の瞳に何かの影を見る暇もなく、
 腹に膝蹴りが入って身体が浮いた。
 同じ位置に今度は靴底を叩き込まれて吹っ飛んだ。
 訓練生は受け身の姿勢が追いつかないまま、舗装された道路に後頭部と背中を打ちつけていた。続けざまの衝撃によって視界も思考もぐちゃぐちゃにかき回され、それらが落ち着くまでに彼の体感ではかなりの時間を要した。手放した小銃の行方は分からない。
 ようやく視点が定まり、歯を食いしばって首から上だけ起こしたとき、仮面をつけた男は少しだけ離れた位置でウィルを見下ろしていた。その左手は元の形に戻っていた。
『充分とは言えぬが、欲しい情報は手に入れた。今日は見逃してやろう』
 そんな言葉と共に白いコートが翻された。
 ウィルが片腕を立てて起き上がろうとする間に、敵の姿は跡形もなく消えていた。
「大丈夫ですかっ!?」
 小刻みな足音が聞こえてきた。
 先ほどまで敵の刃の前にさらされていたセーラー服姿の少女が、一直線にウィルの元へ駆け寄ってきたのだった。しかも迷わず彼の背中に手を添え、衣服に貼りついた砂だか砂利だかをはたき落とし、彼が立ち上がろうとすればその肩を支えようとしてきた。
「無理だけはなさらないでください。あっ、痛かったらおっしゃってください、頭も打っていますし」
「騒ぎすぎだ。そこまで大げさなダメージじゃない」
 ウィルは少女の手首を掴んで肩の傷口から遠ざけた。
 中腰の姿勢で見上げてくる顔が少しだけ曇ったが、それは残念がると言うよりひたすら心配する表情だった。
(また、同じことをしようというのか)
 この街へ来て間もない頃、同じ敵と戦い負傷したウィルを助けようとした少女のことは、もちろん今も忘れていない。しかしその際に彼が「邪魔をするな」と警告したことを、少女の方は忘れているのだろうか。
 それともすべてを知っていて、もっと単純な動機を優先させようとしたのか。
 天使でもないのに。
(そんな話より今ここで起きたことが問題だ。奴はこの人間を脅していた、その理由は?)
 二本足で立つバランスを取り戻した訓練生は、先ほど銃口を向けた先に視線を移した。路上にトートバッグが落ちている。今まさにそれを拾っている人物に気づくと、彼は思わず声を漏らした。
「要石を追っていたんじゃなかったのか……?」
 スーパーの前でウィルに情報を伝えた土木作業員風の男がそこにいた。しかも慌てた様子は一切なく、バッグについた汚れを丁寧に払い落としている。
 一方ここで慌てたのは、こぼれた一言につられて振り向いた少女の方だった。
「えっ、あの、それは私の……!」
 少女は先ほどウィルの元に駆けつけたときより少しだけ速く、それも何故か片手を前に伸ばしたポーズで、バッグを持つ作業員目掛けて突っ込んでいった。そして片手で軽々と受け止められた。
 バッグは彼女の持ち物だったらしい。ウィルが痛めつけられた腹部をさすりながら二人に近づく間に、少女は作業員からバッグを受け取り、何度も頭を下げていた。
 距離があったために、訓練生は男の手がバッグから金色の箱を取り出す瞬間を見た。
 近くまで来て、その箱が探していた要石そのものだと理解した。
「待ってください、私の……ではないですね。いつの間に……」
「用済みになったから捨てたといったところかな。よかった、あっさり返してもらえて」
「では、その箱はあなたのもの……?」
「そうだよ。大事な商売道具」
 少女は両手で口元を押さえた。手指の間を流れ落ちる吐息の音が、ウィルには本当に何も知らなかったゆえの驚きだと感じられた。
 念のため口頭でも情報を求めようと彼は口を開きかけた。しかしそれは少女がトートバッグを探り始めたので中止になった。
 彼女は二人が見ている前で、バッグの底から金色の箱を引っ張り出した。要石に比べて装飾は少なく、一目で印刷と分かる安っぽい色合いをしている。そんなイマイチな箱には天面の中心に大きな陥没があった。
「もしかして、これのせいかな」
 男が手に持った要石を示すと、少女は困った顔で首を横に振った。
 持ち主でないウィルから見ても、紙の箱に開いた穴と要石の角は似た大きさをしていた。先ほどバッグの中で起きた事故の内容はおよそ想像できる。他の人間なら要石の持ち主を責めたり、盗んだ品をバッグの上に捨てていった犯人に怒りを燃やしたりするところだ。
 しかし彼女はしばらく箱を見つめてから、頬に現れていた緊張をほぐし、微笑んだ。
「……贈るものがこれでなければいけないなんて、誰も決めていません」
「は?」
「これを返してくださってありがとうございます。おかげで自分の気持ちがわかりました」
 怒りも悲しみも抱かなかった少女は「そういえば」と続けて、ウィルの顔を見上げた。先のような掛け値なしの心配から、次第に何かを疑う目つきに変わり始めたところで、要石を脇に抱えた男が割り込んだ。
「さっきの怪しい男がまだ近くにいるかもしれない。見たところ学校帰りだろう、安全そうな場所まで送っていくよ」
「それなら大丈夫です。お気持ちだけいただきます」
 あっさりしたやりとりを少しだけ続けた後、少女は二人の前から去って行った。
 親切を断られた作業員に戸惑いや落胆の色はなく、目標を達成した満足げな顔でしばらく手を振っていた。
 いつしか雨は上がっていた。
「さて、これで本来の仕事に戻れる」
 少女の姿が十字路の角に消えた後、講師はウィルに向き直った。
「結果的に、君は敵を退け、要石を守った。予定とは違う形になってしまったけど目的は達せられたと言っていい。演習の評価は合格だ。おめでとう」
「それは今日の課題に対して、ですか」
「いいや、全体の話だよ。予定ではもう何回か来てもらう予定だった。でも君は打ち勝つべき相手と直接戦い、こうして生き残った。これを超える試練なんてそう簡単には考えつかないだろうね」
 誰を指して言っているのかは言うまでもない。
 しかしウィルは今度の評価も簡単には受け入れられなかった。その敵が仕掛けた罠をかいくぐったわけではないし、こちらが一撃を当てた後の反撃は明らかに手を抜いていた。殺す労力も惜しいと思われたのかもしれない。
「最終的な判断は君の担当教官が下すけど、きっと前向きな評価をしてくれるはずだ。あ、でも一つ言うなら、やっぱり君はまだまだ脇が甘いかな」
「脇が甘い?」
「演習初日に君の教官が出してきた課題を覚えているかな。『演習に行くことを誰にも悟らせないように』、これは残念ながら失敗しているんだ」
 日記帳にそんな記述があったことをウィルは忘れていなかった。しかしその課題がどこでつまずいたのか、見当もつかなかった。
 すると講師がいたずらを仕掛けた子供のような顔で、訓練生の背後に向けて手を振った。
「そこにいるんだろう。もう出てきていいよ」
 ウィルが振り返ったとき、十字路にも周辺の建物にも、動くものの気配はなかった。
 ひと呼吸ほどの間を置いて、雑居ビルの陰から黒いバイクがゆっくりと出てきた。それを手押しで運び出す長身の人間が誰なのか。答えを得た瞬間、ウィルはめまいに襲われた。
「重孝……」
「いつ気づいたかは聞いていないけど、ずっと君を心配していたようだよ。罠に掛かって倒れた日のことは覚えてる?」
「覚えています。あれは……そういうことか」
 川の近くで気を失った後、目覚めたときには居候している部屋に戻っていた。
 もちろん自分の足で歩いた覚えはない。空白の時間に講師か教官が何かしたのだろうと考えていたが、知らない間に迎えが来ていたというのが真相だったようだ。
 自分の行動を悟らせないこと。課題の手本を人間に見せつけられたように感じてしまい、ウィルは小さく首を振った。
「確かに見落としがあったようです。以後気をつけます。ところで一ついいですか」
「うん? 何か気になることでも?」
「毎回違う姿で俺の前に現れていたのには理由があるんですか」
 講師が笑顔を引きつらせ、それから肩をすくめた。
「参ったな、そこは見抜かれていたのか。職務上の理由というのかな。今回は君がこの街で見かけた人たちの姿を拝借していたんだけど、こんな形で裏目に出てしまうとはね」
「なるほど……」
 本当は自分への接し方や罠の仕掛け方などの言動が気づくきっかけだった。
 ウィルが勘違いから目を背けると、すぐに重孝と目が合った。蹴られた腹が妙に痛んだ。