[ Chapter18「デッサン」 - B ]

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「あんたはどこまで知っている?」
 特別と称された補習プログラムが終わってから半月。ニュータウンを取り巻く空気が春へと移りゆく中、ウィルだけが時の流れから取り残されていた。
 新たな課題が来ない。
 一日のサイクルに変化がない。
 補習の最終日に現れた謎が解けそうにない。
『いつ気づいたかは聞いていないけど、ずっと君を心配していたようだよ』
 期間中ウィルは最大限の注意を払い秘密裏に行動していたはずだった。しかし柳重孝はどういうわけかそれを見抜き、何度もウィルの後をつけていたらしい。
 推理の材料を求めて日記帳の記述と自身の記憶をひもとけば、彼の不可解な行動には特別講義が組まれる前からたびたび出くわしていたことを思い出した。すると解きたい謎の形が変わっていった。
「いつから……いや、どうやって、俺の行く先を知った?」
 ウィルが問いかける相手は生身の人間ではない。
 間借りしている部屋で見つけた一枚の写真には、若き日の院長とその腕に抱えられた幼児が写っていた。屋外で撮影されたこと以外の情報は表にも裏にも載っていないが、幼児の正体は類推できる。目元が院長によく似ていた。
 現在の重孝に声をかけること自体はさほど難しくない。今日は既に学校から帰っていて、今このときは隣の部屋で試験前の復習に励んでいるようだが、そうしている時間は有限だからいずれ機会は訪れる。しかし。
「ウィル? ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、時間ある?」
 廊下からの呼びかけとノックが同時に聞き取れた。ウィルは写真をベッドの上に置き、この家の主へドア越しに応答した。
 この家の一人息子を探っていることを、院長や他の人間に悟られてはならない。当然のように付随する条件こそウィルが謎の解明に手こずる理由の一つだった。特に最近は思い悩む同居人を心配してか、院長が前にも増して声をかけてくるようになっていたのだ。
「一ヶ月ぐらい前にもやってもらったけど、封筒の宛名貼り。必要なものは全部下に用意してあるから。いいかしら」
「……分かった」
 先月末に頼まれた内容ならはっきりと覚えている。用意された書類を分けて封筒に入れ、それぞれを指定の場所へ郵送できる状態にするだけ。医療に関する資格がない者にもできる単純な作業だった。
 リビングがある一階に降りる前、ウィルは階段の脇から隣室のドアを見た。その動作もまた院長に見られていた。
「重ちゃんのことが心配?」
 どうやら事実と異なる解釈をされたようだった。
「大丈夫よ。頑張ればちゃんとできる子だから。今年は出席日数も足りているし、ひどい点数を取らなければ今度は進級できますよって、担任の先生も言ってくださったし」
 その話もまたウィルにとっては専門外の領域になる。口を閉ざすしかなかった。

 ようやく彼に行動するチャンスが訪れたのはその週の土曜日だった。
 母子と居候の三人で買い物から帰った後、院長が夕食の献立について何かを思い立ち、突然「今夜は手伝わなくていい」と二人に申し渡したのだ。
 まず重孝がうなずいて上階へ行き、ウィルは普段と違う要求を不審に思いながら後に続く形となった。しかし細い背中を追ううちに大事な問題の存在を思い出し、階段を三階まで上りきったときには必要な行動を具体的に掴んでいた。
「待ってくれ」
 部屋に入りかけた重孝を呼び止めると、彼は振り向いてからほんの少し首をかしげた。
「訊きたいことがある」
 時間をくれ、という言葉が続く前に、ドアが大きく開け放たれた。
 無言で手招きされた訓練生は重孝が寝起きする部屋、つまり彼の父親の書斎へ足を踏み入れた。
 そこに入ること自体は初めてどころか既に日常の一部となっている。しかし掃除機を持たずに訪れることは少なく、そういうときは決まって重孝の看病が目的だった。こういった事情まで踏まえて言うなら、今起きているのは間違いなく初めての出来事だ。
 重孝は抱えてきた上着を壁に掛けると、大きなベッドの縁に腰掛け、書き物机の前に置かれた革張りの椅子を指し示した。説明の言葉はなかったが、着座を勧められたと解したウィルがその通りにすると、重孝の口元は満足そうに緩んだ。
 向き合う二人の姿勢は同じになった。
 座面の高さも、ついでに座高も、重孝の方が少し上だった。
 顔の角度はウィルを見下ろすものだが、視線は相変わらず前髪に隠されている。
(さて、どこから探ろうか)
 ウィルは唇を引き結び、表情の読みにくい顔を見据えた。
 知りたいことは明確に定まっているが、それを単純に問いかけたところで素直に答えてはくれないだろう。何しろ相手は出会ってからの半年、常に必要最低限の、しかも短い一言でまとまる範囲でしか言葉を発しなかった人物なのだ。
 その相手は微動だにしない。話を切り出す役は当然ウィルが担うしかなかった。
「半年前、俺を最初に見つけて救助を依頼したのはあんただと聞いた。それからも何かと助けられている。その手がなければ今頃俺は無事でいたかも分からない。……だが」
 一呼吸を挟む。方針は固まった。
「その助けはあまりにも手際が良すぎる。半月前、俺の外出中に後をつけてきたあのときだけではない。俺の本当の行き先、必要とするもの、すべてを俺より先に把握して先回りしていた日もあった」
 重孝の頬がほんの少し震えた。
 口を開こうとしたのか、何かをこらえたのか。その瞬間を見ただけでは判らない。
「半月前の件から聞く。あのとき俺が争っているところを隠れて見ていた。それは間違いないか」
 ウィルは問いかけながら無意識に背筋を前傾させていた。
 少しだけ間を置いて、素直な首肯だけが返ってきた。
「見ていたのは、俺が奴の凶行を止めに入る前からか」
 無言でうなずかれた。
「俺がいつもの店に立ち寄っていたときからか」
 無言で首を横に振られた。
 普段から重孝が院長と会話するときはこんな調子だった。これまでウィルが耳にしてきた限り、慣れている話し手は言葉と要求を極力絞り、仕草だけで反応できるような質問に落とし込んでいる。
 その方法をなぞれば最低限の情報は得られる、とウィルは見込んでいた。
「店を出た後か。確か、そう、あのときはバイクを手で押していた。俺の行き先と目的を知っていて、学校から家に帰らずわざわざ見に来たのか」
 音を立てない返答は、ゆっくりと首を傾けてから戻し、横に振るというものだった。
 一連の首振りの意図をウィルは全くくみ取れなかった。
 それでも次を訊くしかない。
「その前から俺が、院長たちからの頼まれごと以外のために出かけていたことは、知っていたか」
 話を進めると、今度は素直にうなずいてくれた。
「一度は倒れた俺を拾ってここに連れ戻したとも聞いた。間違いないか」
 うなずかれた。
「そのとき俺と一緒にいた者とは何か話したのか」
 首ではなく右手が動いて、親指と人差し指で何かを挟むような仕草をウィルに見せた。少しだけ、と言いたいらしい。
「俺がそこで何をしていたか、そいつは話していたか」
 これは首の動きだけで否定された。
「そうなのか。……あんたは、何が起きていたか、解ったのか。その目で何かは見ただろう?」
 首の動きが完全に止まった。
 重孝は口を閉ざしたまま、他の意思表示の一切もやめてしまった。屋内に持ち込んだ鉢植えのようになってしまった彼を前に、ウィルは仕方なく作戦の練り直しを始めた。
 最後の質問のどこに答えにくい要素があったのか。
 本当に自発的な意思でもって口を閉ざしたのか。
 椅子の端に手を掛けて座り直すと、外出先から戻った流れでここまで持ち込んでいたショルダーバッグが手の甲に触れた。中の日記帳を使えば先日の女刑事のように情報を引き出せるだろう。しかしそれはきっと最後の手段だ。
 ウィルはバッグを椅子の下に置こうとした。
 すると、重孝が長い腕を伸ばしてバッグをさらい、中から日記帳を取り出した。そして中をぱらぱらとめくり、白紙のページに挟まった羽根を手に取った。最初からそれを目当てにしていたとしか思えない動作だった。
「……筆談なら答えてもいい、と?」
 敗北感のようなものがウィルの心をゆっくりと撫で回した。