[ Chapter18「デッサン」 - C ]

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 サイガにとって少しも待ち遠しくない日曜日がやってきた。
 前日には少しでも姉の心証を良くしようと率先して家事を手伝ってみたものの、それで急にお役御免となるはずもない。朝から一番重い荷物を持たされ、家の外に停まった車へ運び込むよう言いつけられた。
「なんでこんなもん持ってく必要あるんだ、つーか中身何だこれ」
「それは着いてからのお楽しみ」
 菜摘が指定した時刻より少し遅れて、西原家の塀のそばに二台の乗用車が連なった。門の手前にぴたりと止めた紺色の普通車は柏木の愛車だ。しかしその後ろ、ポップな黄色の軽自動車は、サイガが初めて目にする男のものだった。
 四人乗りの車が二台、運転手が二人、自家用車を持たない一家が六人。
 過不足なく人と荷物を載せた車列は予定の三十分遅れで出発した。
「菜摘のやつ、あんなのと付き合ってたのかよ……」
「本人たちが楽しそうならいいんじゃあないかな。それに悪い人ではなさそうだ」
 ハンドルを握る柏木が笑うと、その隣に座るサイガはため息をついた。
 誕生日パーティーと聞いて手伝いを申し出たという「彼氏」は菜摘のバイト先の同僚らしい。しかし姉が心を許す相手を、弟は一目見たときから警戒せずにいられなかった。根拠はないが関わると面倒ごとが起きそうな気がする。
 その謎は程なく、後部座席に並んだ祖父母が解いてくれた。
「あなた、菜摘が連れてきた子、ちょっと陽介に似ていません?」
「言われてみれば確かに」
 納得を皮切りに、二人は自分たちの息子の思い出話を語り出した。
 車がK大付属病院に着く頃、サイガの気力は早くも底をつきかけていた。聞きたくない話をスルーし続けただけでそうなるのが自分でも情けない。しかし同行者は誰も待ってくれないので、仕方なく車を降り、さっきまで耳を塞いでいた手で例の重い荷物を再び抱えた。
 病院の正面玄関は半年前に来たときと何も変わっていない。前回は患者と対面しなくて済んだ代わりに、サイガ自身が命の危機にさらされた。
(アッシュは今頃どこで何してんだろうな……)
 面会者用の受付から、今度は集中治療室のフロアではなくエレベーターホールへ向かった。途中で一度荷物を置いて休める時間が短くともありがたかった。
 目的地は一番大きな病棟の最上階にあった。サイガは一行の最後尾につき、他の家族はもう慣れているのだろう廊下を初めて歩いた。壁もドアもしゃれたデザインで、庶民の一団の後ろ姿とはどうにも不釣り合いだった。
(嘘だろおい、どんな手使ったらこんな個室入れるんだよ)
 最後尾で冷たい感情が渦巻いていることに気づいた家族は恐らくいない。
 行列の先頭が廊下の曲がり角で足を止め、後続もそれにならった。正面の大きなドアの横に部屋番号だけが掲げられている。サイガの視線が数字をなぞる間に、菜摘がドアをノックして開け放った。
「お父さん、みんな連れてきたよ……って、どうしたの、その顔!?」
 中へ駆け込んだ娘に母親と祖父母が続いた。娘のボーイフレンドは入口手前から顔だけ傾け、何故か手を叩いた。
 小さな手に後ろから押し出されたサイガも、おそるおそる室内を覗き込んだ。
 大きなベッドの上に人が座っていた。
 タヌキを模したキャラクターのお面と目が合った。
「くっ……てめえ……」
 状況を把握したサイガは崩れ落ちるようにしゃがんだ。
 不覚にも吹き出してしまったことが悔しい。ゲラゲラと笑う声が腹立たしい。直前まで抱いていた不満や抵抗感を一瞬でも忘れてしまった自分が憎たらしい。
 そして何より、本当に忘れかけていたのだと、実感した。
 西原陽介はこういう男だということを。
「サイガくん、手を出して。荷物は中に運んでおくから」
「いや、俺、別に無理とか言ってねえし」
 柏木が差し出した手をはねのけ、サイガは一息に立ち上がった。そして持ってきた荷物を部屋の中心に打ちつけるように置いた。
 そこは菜摘が言っていたとおり特別な病室だった。面積は年明けにサイガが入院したときの四人部屋より広く、しかし奥には天然木で縁取られたロングサイズの介護用ベッドが一つきり。傍らの椅子やサイドテーブルも、患者の着座位置から見渡せるように並ぶソファやローテーブルも、見ただけで高級品と分かるものばかりだった。
 とりあえず今日の計画がどうやって発案されたかはサイガにも想像できた。ここが病院でなければ確かにパーティー向きの空間だろう。
「で、お父さん、そのお面はどこから?」
「いやあ、ついに彩芽(サイガ)が来るって聞いたけど、どうせ本当は顔も見たくないんだろ。だから、買ってきてもらった」
「そこまで分かってんのかよ……!」
 父と娘、そして他の家族の笑い声が、四方から押し寄せてくる。
 反発する気が失せたサイガは、未だ自分の手元にある謎の荷物を開封した。そして中身が箱形に折り畳まれた椅子だと確認すると、姉の横で笑い転げるボーイフレンドに全部まとめて押しつけた。
 今は誰の顔も見たくなかった。
 ベッドの周りに集まった皆から背を向けても、逃げることを許さない視線だけは何故かはっきりと感じられた。

 西原美由樹の誕生日パーティーはささやかに、しかしにぎやかに始まった。途中で看護師が入ってきて、いつもと違いすぎる様子に驚いていたが、口頭での注意止まりで叱ってくることはなかった。
 ろうそくに見立てたペンライトを「吹き消す」セレモニー。子供たちからのプレゼント贈呈。全員で記念撮影。菜摘のプランはありふれたものばかりだが、場所をわきまえた配慮や工夫を加えつつ、想定通りに母親の笑顔を引き出していた。
 そして陽介は妻の姿を楽しそうに見守っていた。しかし宴の途中でお面を外すことはなく、水分を取る際に口元のあたりを少し浮かせた程度だった。
「ああ、楽しかった。みんな、わざわざここまで準備してくれて、本当にありがとう」
「いいのよ、お母さん。……あ、ブラウスに何かついてる。見せて」
「あらやだ、早く落とさないとシミになっちゃう」
 何かを見つけた美由樹がそそくさと立ち上がり、菜摘を伴って病室を出た。桂も養母を心配そうに見上げながら後をついて行った。
 主役が席を外したことでイベント自体も終わったような空気が漂いだした。すると祖父母が相次いで「お手洗いに行く」と言って廊下へ出て行った。続いて菜摘の彼氏がたばこを取り出し、それを見た柏木が「喫煙所は遠いから」と案内を申し出た。
 そして広い部屋にサイガと陽介だけが残された。
 突然訪れた沈黙の時間はしばらく破られなかった。サイガは間近に迫る期末試験の存在を思い出し、帰り支度を始めたが、ふと目についたものに計画を洗い流された。
 特別待遇の部屋には洗面台もトイレも備え付けられていた。
 喫煙はともかくそれ以外の理由では、わざわざ外へ行く必要はなかった。つまり。
 事実の一歩先に気づいたとき、彼は握り拳を壁に叩きつけていた。
「クソッ、はめられた! 絶対これ全員グルだろ!?」
 半年前に、そして今日まで、対面しなかった二人を引き合わせる。
 二人だけの時間を作る。
 恐らく菜摘が考えたのだろう、父親譲りの余計なお世話だった。
「まあまあ、落ち着け。きっとみんな善意でやったことだよ。さっきのパーティーと同じ」
「同じにすんな。善意って言えば何でも許されると……」
 サイガは脳天気な発言の主を睨みつけ、呼吸ごと言葉を止めた。
 家族の笑いを誘ったあのお面が消えていた。
 ベッドの上に座る男の顔は、赤黒いケロイドと白すぎる皮膚のモザイクに覆われていた。笑い声と話し方は記憶と一致するのに、人相だけは別人にさえ見えてしまう。
「今、びっくりしただろ。これでも、事故の後よりは良くなった方だよ」
 陽介は自分の頬を指さした。その動作だけでも体のどこかが痛むのか、朗らかに笑おうとする目や口元は不自然に引きつっていた。
「でも、せっかくの祝いの席でこんな顔見ちゃったら、萎えるなんてもんじゃない。美由樹のそういう顔は見たくなかったんで、こうしてた。お前のことダシにしてごめんな」
 安っぽいお面が陽介の手元で翻った。
 サイガは拳を作ったままの手でもう一度壁を殴った。
「彩芽。俺に言いたいこと、聞きたいこと、いっぱいあるんじゃないか?」
「ああそうだな、腐るほどある」
「じゃあ、ここでゆっくり話そう。何でも訊いてくれ。あ、殴るのはナシで」
 お面の耳を息子の握り拳に向けた、その手は間違いなく震えていた。
 サイガはきつく閉じていた指をゆっくりと半分広げた。そしてベッドの足下を囲うフットボードの手前まで、促されることなく自分の足で近づいた。
「何でもいいんだな。だったら教えてくれ。俺は、お前は、どうしてこうなった?」
 ただれた唇がタヌキの絵のように笑った。