[ Chapter18「デッサン」 - E ]

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「動くな!!」
 それは背後から聞こえた。
 間違いなく陽介の声だった。
 しかしサイガは自分の耳が下した判断を信じられなかった。
「待ってくれ。そこから動くな」
 一言目にはなんとも思わなかった。
 重ねられた言葉に違和感を覚えた。
 従っても良いことなどないと分かっているのに、立ち止まり振り向いてしまった。
(何なんだ急に)
 目が合った。
 あらゆる光を逃すまいと限界まで見開かれた目だった。
 愉悦も悪ふざけも打算も作戦も洗い流された眼だった。
 強烈な寒気がサイガの背筋を伝い、たちまち全身に広がって彼の動きを凍らせた。病室のドアに手を掛けたまま、口からはうめき声も漏れず、目は少しもそらせなくなっていた。
 陽介はベッドに座った姿勢から身を乗り出し、呼び止めた相手を見つめていた。首から上は一切動かさず、片腕だけ後ろにやったかと思うと、枕の周辺から何かを取り出した。
「そのまま。じっとしててくれよ」
 たぐり寄せたものが膝の上に広げられ、小さく音を立て始めたとき、サイガはベッドの上で起きていることを大雑把に認識した。
 鉛筆の先端が紙の上を走っている。
 スケッチブックのページに何かを書いている。いや、描いている。
 見られている側も相手から目を離せなくなったのは、これまでの記憶にも想像にもない、未知の光景だったからなのか。
「そう、そのまま。それでいい」
 紙と鉛筆がこすれる音に時折ささやき声が混ざる。
 陽介は一度背筋を伸ばして座り直したが、すぐに少しずつ前のめりの姿勢に戻り始めた。右手は絶えず動き、両目は開かれ続けている。まばたきをする時間と手元に視線を落とす時間が同じぐらい短かった。
 いつもはうっとうしいほどまき散らしている感情が消えている。
 何かを企むどころか考える様子も失せている。
 引き戸とベッドは充分に離れているはずなのに、静かな興奮の息づかいがサイガの耳にねっとりと絡みついてくる。
「いいね……それだよ、それ……」
 足は半歩も動かず、両腕は鳥肌が収まらず、この状況には終わりが見えない。
 そんな状況からサイガを救ったのは廊下を進む足音だった。引き戸を開けたところで呼び止められたので、個室の外の様子も聞けるようになっていたのだ。
 誰かが遠ざかっていった後、その方向から今度は集団の足音が近づいてきた。会話のリズムと低いヒールの音は彼にとって聞き覚えのあるものだった。
 そして。
「何やってるの」
「俺にも分からん」
 とっさの返答に鼻息一つで落胆を表したのは菜摘だった。
 サイガは廊下の方に目を向け、視界の端に姉の肩と母親の不思議そうな顔を捉えた。足音の主は他にもいるはずだが確かめることはできなかった。
「動くな!!」
 戻ってきた家族に向けようとしていた首が、怒声に引っ張られて元に戻った。
 すると菜摘がそっとサイガの隣に立ち、引き戸を押さえている腕の下をくぐって病室の中をのぞいた。そして少しも悲しくないため息を残して廊下に引っ込んだ。
「あー、なるほどー。お父さん、スイッチ入っちゃってる」
「は?」
 異様な空気を菜摘は珍しがらなかった。その後ろにいるらしい祖父母も同様だったようで、孫娘の説明に対し「あらまあ」の一言だけが返されていた。
 しかし一人だけリアクションが全く違った。美由樹が急に息を詰まらせたかと思えば、呼吸のリズムを戻すことなく泣き崩れたのだ。
 すぐにでも確かめたい母の表情がサイガには見えない。姿勢を直前の形に戻したら、どんなに眼球を動かしても視界に入らなくなっていった。
「そうそう、そんな感じで」
 ベッドの上から飛んでくる声の調子は、怒鳴る前のものに戻っていた。
 それなのにサイガは一段と困っていた。自分の身体が引き戸の代わりに入口をふさいでしまい、このままでは誰も中へ入れない。それなのに注文や不平が一切来ないことが逆に不気味で仕方なかった。
 誰でもいいから口を挟んでくれ、と思ってから、サイガは自分自身の異変にも気づいた。
 ただ一方的な命令を受けただけなのに、体がそれに縛られたように動かない。
 あの男の戯言なんて息継ぎよりも楽に振り切れたはずなのに。
 今は腕も足も震えるばかりだった。
 疑問を声に出すのが精一杯だった。
「スイッチ、って」
「え、覚えてない? ……しょうがないか、サイガだもんね」
 小さく鼻をかむ音に菜摘の声が被さった。
「お父さんは昔からたまにああなるの。描きたい構図を見つけるとそれを描くのに夢中になって、どんな場所でも誰が相手でも、何を言われても絶対止まらない。どこだったっけ、お母さんと私たち入れた四人で出かけたときにスイッチ入って、大変なことになったんだけど」
 手がかりが少なすぎて、サイガには具体的な話を思い出せなかった。
 当時の自分の心情だけはなんとなく想像がつく。そいつが道中で何を始めようが、巻き添えにならない限りどうでもよかったし、母親や姉が何を言っても聞き流しただろう。騒ぎの現場もろくに見ようとしなかったに違いない。
 少なくともそいつの顔を見てはいないはずだ。
 今そこにいる男の異常な表情を、もし一度でも見たことがあるなら、それをきれいさっぱり忘れてしまうとはどうしても思えない。
「でもね、そういうときの絵は絶対に、後でものすごい作品に仕上がるの。なんだかんだ言っても、やっぱり本物の芸術家なんだよね」
「はは……」
 彼は姉に返す言葉も問う言葉も口にできなかった。
 こわばった笑い声は何の感情も伝えない。
(なんで菜摘はそんな嬉しそうなんだ。なんで母さんはまだ泣いてんだ)
 人がこぞって褒め称えた傑作のことはタイトルを聞いても思い出せなかった。
 ハンカチで目頭を押さえる母親の姿は、視界の外なのに想像できてしまった。
(こんなに苦しい俺の方が、頭おかしい奴みたいじゃねえかよ)
 それもまた声に出せなかった。
 息を溜めて力を振り絞る猶予もなかった。
「……よし!」
 鉛筆が床に落ちて転がる音がした。
 さっきまで息子を凝視していた陽介が、スケッチブックを両手でしっかりと握りしめ、自らの絵をあやすような姿勢で掲げていた。
 その姿を見た瞬間、サイガの全身を押さえつけていた圧迫感が跡形もなく消え去った。彼自身がそれを自覚する前に、解き放たれた手足が同時に動き、すぐ後ろにとどまっていた家族の間をすり抜けて廊下へと出て行った。
 一人きりで急ぐ廊下は時間も距離も短かった。
 エレベーターの呼び出しボタンを連打する時間は長かった。
 かごの到着を待ちきれず、隣のドアを開けて階段を駆け下りる間も、手すりを掴む腕は鳥肌に覆われたままだった。
 段差から足を踏み外しかけて立ち止まり、顔を上げた先に「1」のプレートを見つけた。冷たいドアの向こうには入院患者や医療スタッフの往来、そして見知った人物の立ち姿があった。
「あれ、サイガくん?」
 本当に外へ出かけていたらしい柏木が、一階のエントランス近くでエレベーターの到着を待っていたところだった。もう一人の運転手も隣にいて、最初は変な動物でも見つけたような顔をしたが、ガールフレンドの弟だと気づくと一転して愉快そうに笑った。
「え、もしかして、弟くんも吸いたかった?」
「んなわけねえだろ……」
 サイガの中で何かが途切れた。
 閉まったドアに背を預けて座り込む姿を前に、大人たちは顔を見合わせた。