[ Chapter18「デッサン」 - G ]

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 サイガは畳の上に仰向けで寝転がっていた。
 天井の蛍光灯が不規則に点滅している。
 晩ご飯がどうとかいう会話がかすかに聞こえてくる。
 己の全身を巡り脈打つものだけをはっきりと感じる。
 病院から帰宅して早数時間、彼の呼吸は続いているが、心の時間は止まっていた。
「何なんだよ……」
 エレベーターホールで柏木に出くわしたことは覚えているが、そこから帰り着くまでの流れを思い出せない。そんなことに気づいてもすぐにどうでもよくなって頭から消えていった。
 時間を忘れ、空腹を忘れ、感情を忘れた。
 蛍光灯の点滅が不意に途切れた。
 目の奥をちらつく光の残像が少しずつ薄れていく。
「どうしたの? 寿命を根こそぎ吸い取られたみたいな顔になっているけど」
 宵闇に沈みゆく部屋の片隅から声がした。
 サイガの視界にブレザー制服を着た死神が現れた。投げ出した足の傍らにいるらしい彼女の姿が、照らすものがないのに何故かはっきりと見えた。
「……あ」
「しっかりしてちょうだい。まだ死にたくないでしょう?」
 声に引っ張り上げられるように、体を動かそうとする力が戻ってきた。
 サイガは頭を持ち上げ、自分の足下へと視線を向けた。少女の姿をした死神と、その手元で広げた手帳の他には何も見えなかった。
 美しい形をした脚が白く輝いているように思えた。
 その脚がキックの予備動作のように半歩下がったので、全力で目をそらした。
「大丈夫そうね。で、何があったの」
「それは……その……」
「考えがまとまらないなら、思いついた順でいいから声に出しなさい。聞くだけ聞いてあげるから」
 死神に促されたサイガは、まだ少しぼんやりした頭で返す言葉を探した。そして一番はっきりと分かることを口にした。
「……さっき、あのクズに、会ってきた」
 アッシュの眉が大きく跳ねた。
 何かを叫びかけたようだったが、すぐに手帳の表紙が彼女の口元を隠してしまった。
「そう。……それで?」
 サイガは頭を浮かせるのをやめると、今日の訪問とそれにまつわる出来事の記憶を少しずつ言葉にしていった。
 アッシュは言いたいことがあるようだったがそれをこらえ、時折手帳の中を睨みながら、目配せだけで続きを促した。
 話が進むにつれて二人のアイコンタクトは減っていった。生者は天井を仰ぎ、死神は手帳を握りしめた。
 そうして覚えていることすべてを話し終えると、サイガは一呼吸置いて聞き手の反応を待った。アッシュは語り手と商売道具を交互に見てから、両膝をついて目線の高さをサイガに近づけてきた。
「西原陽介の未練は本当にそれだけなのね?」
「ああ、そんな風に言ってた」
「内容は、行方不明のお友達と再会の約束を果たすこと。間違いない?」
「間違いない」
「なるほどね……」
 手帳の中身をつつくアッシュの姿がサイガにはどこか悔しそうに見えた。
「なんで負けたときみたいな顔してんだよ」
「実際負けたようなものよ」
 死神は手帳を閉じ、それをブレザーの胸ポケットの中へ落とした。
「この案件に関わって丸六ヶ月、その間に私が西原陽介と接触できたのはたったの一度。それも事故当時の状況を聞き出すのが精一杯でそれ以上の情報は引き出せなかった。今あなたが教えてくれたことも本当は本人の口から白状させるべきものだったのに」
「半年で一回って。そんなに面倒な相手なのかよ、桂って……あのサリエルって奴は」
 それは事実関係をつなぎ合わせた単純な発想だ。陽介を死神の手から逃れさせることが契約の内容なら、死神の接近を許すはずがない。
 しかしアッシュは首を縦に振らず、代わりに肩をすくめた。
「面倒なのはむしろ陽介の方だった。逝きたくない離れたくないってごねる人間は数えたくないほど見てきたけど、まさか職務中に口説かれるなんて」
「はあ?」
「こっちが一つ訊いたら答えるついでのように私のことを訊いてくる、好奇心旺盛な死者もたくさん見てきた。未知の存在を警戒されることも珍しくないしむしろ当然だと思う。でもあれは全然そういう目じゃなかった。直接的な表現は口にしなかったけど、裏では私の腰に手を回す隙を、連れ出すときをうかがっていた。あれは絶対にそう」
「どこまでクソ野郎なんだよあいつは……」
 死を前にしてもなお貫こうとする趣味など知りたくもなかった。
 表情を曇らせるサイガに、アッシュは正直な心境を明かした。
「そんな調子で全然話が進まないから、途中から交渉の相手を変えたわ。そっちもそっちで大変だったけど、最近ようやく身柄引き渡しの話がまとまったところ。肝心の未練だけ謎のままだったけど、それも今日ここで聞けた。あなたがまともな人間で良かった」
 サイガは言葉を返せなかった。
 最後に自分が褒められたように聞こえたが、喜んでいい場面なのか、少し疑わしくもあった。
「ここまで見えてきたならやることは一つだけ。そのお友達を連れて行けばすべては丸く収まる。私は陽介を連れて行くし、あなたはこんなばかげた取引から解放される」
「でもそいつが誰なのか、そういえば名前聞いてねえわ俺」
「そこはご心配なく。さっきの話から見当はついたから」
「何だって!?」
 あっさり飛び出した解決宣言にサイガは思わず跳ね起きた。
 勢い余って前へ転がりそうになる体をアッシュはさりげなくかわした。
「草薙一真(クサナギ・カズマ)という名前に覚えはある?」
 再び起立した死神は周囲を少しも照らさない。
 少しも目が慣れてくれない暗闇の中で、サイガはついさっき整頓したばかりの記憶をもう一度たどり始めた。
 あの男の友人。それだけでは絞りきれない。
 二十年前の約束。彼自身はもちろんその姉も生まれていないときの話だ。
 それから。
『そいつは、「二十年後にまた来る」と約束して、俺と亮ちゃんの前から姿を消した』
 そういえば。
「……柏木さん」
 今日合わせた顔ではない、普段の姿を思い浮かべて、はたと気づく。
 アッシュが口にしたその名前の響きは。
「聞いたことは、ある。何だったっけ。友達、多分そうだ友達、高校の頃あいつと一緒にバカやってたっていう奴が確か」
「そう。西原陽介と柏木亮、この両名と二十年前に深く関わりを持った人物がいるならそれは二人があなたのいる高校に在籍していた頃のご学友。その中で行方知れずとなっている人物は」
「一人いるってことか」
「いないの。高校に残っている記録の上では」
 今度は聞き返す声も出なかった。
「現世の外から入り込んだ者がかりそめの肉体をまとって人間のコミュニティに加わるのは珍しいことじゃない。でも彼らはあくまで客人(まれびと)。肉体を捨てて現世を去ればその痕跡は異物としてこの世界から排除されるから記録媒体にも残らない。要するに最初からいなかったことにされてしまう、ここまでは分かる?」
「えーと……」
「やっぱり無理か。今はそれでいいわ、多分そのうちよくわかると思うから。とにかく柏木亮があなたに語り聞かせた思い出の『友達』は、私やサリエルのように違うところから来た存在だった。彼ら二人だけが名前も含めて明瞭に記憶していることこそが深く関わっていた何よりの証拠なの」
 アッシュはブレザーの腰についたポケットから小型の道具を取り出し、持ち方を確かめるように手の中でくるくると回した。
「その人物が現世に再び降り立ったら、そのときはあなたにもすぐにわかるはずだから。楽しみに待っていなさい」
 その道具が死神の手の中で火花を放った。
 すると力尽きたはずの蛍光灯が突然息を吹き返し、新品以上の輝きで部屋中を照らした。見慣れた色の中でサイガが辺りを見回したとき、既にアッシュの姿はどこにもなかった。