[ Chapter19「硝子の銃を持つ男」 - A ]

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 春の足音が丘陵地帯のニュータウンを縦断していった。
 朝夕に感じる風の温度が変わり、街路樹や庭の木を見上げればみずみずしい若葉が目に入る。日当たりの良い場所、たとえば季花高校の校庭では、既に鮮やかな花の競演が始まっているところもあった。
 しかしその学校に通う生徒のほとんどは、周囲の小さな変化に全く気づかないか、それらを見る余裕がなかった。
「終わったー!」
「明日を乗り切れば春休み……」
「時間足りない〜、あと三十分ぐらい欲しかった〜」
 年間カリキュラム最後の関門、三学期期末試験の三日目。
 普段の時間割で言えば一日の半分も過ぎていない頃だが、厳粛な空気の中で立て続けの筆記試験を受けていただけに、一度途切れた緊張感はまたたく間に生徒たちを緩ませていった。
 だが一人が口にしたように考査そのものは終わっていない。早々に気持ちを切り替え、翌日に迫った最終日の試験対策を始める者もいた。まりあもその一人になろうとしていたが、教科書を開いた直後に前方から声をかけられた。
「どうだった? 今日の英語」
「なんとか最後まで書けました。皆さんと一緒に勉強した甲斐がありました」
「本当にそう。最後の問題見たときびっくりしちゃった」
 幹子が微笑む理由は試験への手応えだけではない。
 まりあの提案で始まった自主勉強会は先週にも開催されたのだが、そこで実隆が解説した内容とそっくりの設問が本番の最終問題に含まれていたのだ。今回の勉強会は二学期と違い男女を分けずに行われたため、彼女たちも予想的中の恩恵を受けられた。
 特にもともと実隆と親密な仲にある幹子にとっては、自分の成果だけでなく彼が友達の成績アップに貢献できたことも心から喜ばしいようだった。
「山口さん、この後のご予定は?」
「塾の自習室で勉強」
 まりあが根本先生の登場を見ながらささやくと、幹子は少しはにかんで答えた。一人きりの自習ではないことを想像させるには充分だった。
「皆さ〜ん、まだ帰らないでくださいね〜。ホームルームやりますよ〜」
「早く帰りたいんで用件だけ言ってくださーい」
 先生の呼びかけに誰かが茶々を入れ、笑いが起きた。それをきっかけに教室のざわめきが弱まったので、まりあは座り直して教壇の方に目を向けた。
 こうして教室の様子を最後列の席から眺める日々はあと少しで終わってしまう。何事もなければ四月から二年生になるが、クラス替えがあると聞いている。「あ」で始まる苗字はよほどの偶然がない限り出席番号順の先頭、そして最前列の座席に配置されるだろう。
 そして、自分の担当教科の出題ミスを指摘され、舌を出す先生も。
 許すそぶりを見せつつボーナス点を要求する級友たちの笑顔も。
 隣で一人だけ放心状態になっている依子の横顔も。
(もうすぐ見納めです。……あら?)
 過ぎゆく時間を噛みしめていたら異物に当たった。
 まりあは改めて依子の様子を頭から足下まで観察した。昨日のこの時間にはいつでも教室を飛び出せるよう構えていたのに、今日は既にエネルギーを使い果たしたのかまるで動かない。
 そういえば最後の科目を終了させるチャイムの後、幹子と話していたときに、依子の声を聞かなかった気がする。
「堀内さん?」
 根本先生が明日の日程を読み上げる間に、まりあは隣席へ小さく呼びかけた。
 反応は全くない。耳まで届いたかも疑わしい。
 他の席をもう一度見渡すと、明らかにこちらを気にして振り返る女子生徒を何人か見かけた。やはり異変はホームルームの前から起きていたようだ。
「あの、堀内さん。終わりましたよ」
 先生が教壇から離れると、まりあはすぐに依子の正面へ回って呼びかけた。するとようやく依子の目が動き、少し間を置いて、か細い声がした。
「どうしよう……全然追いつけない……」
「えっ?」
 思わず聞き返したら、全く同じ発言をもう一回返された。
 まりあは教室を出る級友に通路を譲りながら考えた。その言葉は誰を思い、どんなことを考えながら発せられたのか。心当たりは依子を心配して教室に戻ってきた友人たちを見たときに思い出した。
 先月に彼女らとバレンタインデーの買い物をした折、他ならぬ依子が語っていた。正確には白状させられていた。
『出会っちゃったの。塾で。最初に見た瞬間から、もう目が離せなくなってた』
 模試の会場に来ていた他校の男子生徒に、言葉では説明しきれない感情を抱いたらしい。いわゆる一目惚れだった。
 いつも思い立ったら即座に行動へ移す依子は、その日から一週間足らずで相手の情報をある程度集めてしまった。彼も同じ一年生らしいが、所属する高校の偏差値は季花高校よりもずっと上。受講クラスから分かる志望校のレベルもずっと上。まるで違う世界の住人だった。
 しかし彼女の熱情は現実を知った程度では冷めなかった。チョコレートを受け取ってもらえなくてもくじけなかった。ついには彼に釣り合う女になろうと一念発起、同じ大学への進学を目指して真剣に勉強を始めたという。
 だからこそ絶対に失敗できない期末試験、その途中経過は。
「依子、今日は最悪だったって顔に書いてあるけど、ここで落ち込んでる場合?」
「うるさい!」
 友達の一言で火がついたかのように依子は立ち上がり、シックな色で飾り立てた学生鞄を抱えて教室を出て行った。
 半分あきれ、半分冷やかすような声が後を追った。
 まりあは声をかけそびれてしまった。
(確かに、今日の問題の中には少し難しいところもありましたが……)
 学校の授業と塾の講義、そして両方の予習復習。すべてまじめに取り組んでいたら相当な時間を勉強に費やしたはずだ。それでもうまくいかなかったらしい。
 手応えがあったと喜びあう隣席の声を、彼女はどんな気持ちで聞いていただろう。
 先ほど幹子と交わした会話を思い出すと、心のどこかがちくりと痛んだ。
(……今朝までは、こんな調子ではなかったですし。まだ最終日もありますし)
 悲観的な見方を脇に置き、祈る気持ちを抱えて、まりあは教室を後にした。
 昇降口で靴を履き替え、上履きを靴箱にしまう間に、男子生徒のグループが来た。こちらも明日の科目に気持ちを切り替えた頃かと思いきや、全く違う話題を連れていた。
「なあ池幡、話ぐらい聞いてくれたっていいだろ、お前とオレの仲なんだし」
「聞いた上で断ったんだ。こっちの春休みは沼田が思ってるほど暇じゃない」
「えぇー!? こうやって同じクラスなのもあとちょっとかもしれないのにー!?」
「もっと関係ないだろ、バカか」
 試験期間中とは思えないリラックスした会話が、まりあのすぐ横に着地して、すぐ外へ飛び出していった。彼女が二人を目で追う間に、別の足音がすぐ隣で止まった。
「あとちょっと、か……」
 サイガは誰のことも見ていなかった。まりあが靴箱を離れようとしたときに鞄をぶつけてしまっても、その位置を見下ろさなかった。謝ろうと向き直った彼女にももちろん反応しない。
 ひどく思い詰めた顔は自分の成果と向き合っているところだからなのか。
 声をかけることもはばかられ、まりあはとりあえず小声の「ごめんなさい」だけ残して校庭へ移動した。池幡に何かを頼み込む沼田の声が再び聞こえてくる。足早に追い抜いた誰かがため息を捨てていく。正門の先へ目をやっても依子らしき後ろ姿はなかった。
 まりあは誰とも会わず、呼びかけられることもなく、一人で校庭を横切った。
 正門を抜け、家路につくいつもの道へ折れようとしたとき、道ばたにたたずむ人が目に入った。
(この季節に、もう半袖……アロハ?)
 鮮やかな色彩と、季節にも背景にも合っていないスタイル。大きなサングラスで隠された表情。塀にもたれかかる姿勢。すべてが周囲から明らかに浮いていた。
 そのレンズに何を映しているのか。ふと気になって振り向いてみても、そこには変わったものなど何もなかった。
 再び前を向くと、違和感の塊だった人物がいつの間にか消えていた。
「……あら?」
 見間違いにしては独特すぎる。
 移動したとしても隠れ場所は見当たらない。
 歩道の中央で何度も目をこするまりあを、幾人もの生徒が不思議そうに見ながら追い抜いていった。