[ Chapter19「硝子の銃を持つ男」 - B ]

back  next  home


 なんともいえない居心地の悪さがウィルの集中力をむしばんでいた。
 目の前には整然と並ぶ先輩たちの背中と、彼らに語りかけるリーダーの姿がある。完璧な沈黙を前にした一言一句が部屋中によく響き渡った。
 普段なら掃除と洗濯を終え、院長らの昼食の用意を始める頃か。そんなことを思っても時計を確かめる隙はなかった。
(いや、確かめる必要もない。これが終われば、俺は……)
 重孝による告白の全文を読んだ夜、ウィルはもう一つのメッセージを受け取った。木の葉に似せた形の手紙は重要な作戦の予告とそこへの参加を求める内容、しかも地域の守護天使のリーダーが発した正式なものだった。
 賜物を奪った落伍者の討伐。
 敵に捕らわれた人間の救出。
 いつか来るとは知っていた、決戦のとき。彼自身にとっては補習の総仕上げとなるはずの戦いだ。参加を逃せばこれまで重ねてきた訓練すべてが無駄になりかねない。しかし訓練生はこの知らせを少しも歓迎できなかった。
 作戦への加入は以前に誘われ、確かに辞退したはずなのに、どうして呼ばれたのか。
 教官を通さず直々に連絡してきたのは何故なのか。
 差出人に直接尋ねる機会も方法もなく、同じ地域の守護天使であるひなぎくに聞いても「何かを言える立場にない」と困り顔をされただけ。当日に彼らの拠点へ行って門前払いを受けなかったことで、ようやく招集が本物だったと分かった程度だ。何も掴めてはいない。
「皆の中に異論があることは知っている。方法、メンバー構成、他にもそれぞれあるだろう。しかしこれは上から承認された正式なものだ。その意味を心得てほしい」
 誰のどんな感情も音を立てなかった。
 テーブルが片付けられたダイニングはただの広い部屋で、そこに真剣な目をした男女が並んでいる。彼らは皆同じ服装、ビジネスライクな無地のスーツ姿で、集う様子は典型的な日本人の群像を表現しているようでもある。
 壁際に発つウィルだけが平服だった。空気を読まなかったわけでも、用意を忘れたわけでもない。手紙の中にドレスコードへの言及が一切なかったのだ。
 たとえ指示を受け、同じような服を手に入れていたとしても、容姿の違いすぎる彼が先輩たちの中に溶け込めはしないのだが。
「皆の役割は今日までに説明した通り。個別に話をした際にも伝えたが、今回はそれぞれに少しずつ異なる指示を与えている。どれも君たちの個性や経験を考慮したものだ。味方の動きに惑わされず、自分が行うべきことに集中してほしい」
 長い話を聞きながら、ここまでの道のりを思い返す。

 木の葉が運んだ伝言は正式かつ重要なものだったが、予告だけで作戦の詳細は記録されていなかった。具体的な話を聞かされたのはこの場所へ来てから。全員に集合がかかる前、ウィルだけが別室に呼び出される一幕があった。
 リーダーはウィルに改めて作戦の全体像を説明してから、訓練生に託す任務についてその具体的な内容を明かした。
『もちろん計画通りにことが進まない可能性もある。今ここで話したことは、その前の段階で皆がうまくやってくれた場合の話だ』
 そう言ったときの目には後輩を案じる心と責任者の矜持が表れていた。
 しかし次の言葉には全く違う色が染みついていた。
『場合によっては君がつらい役目を負うことにもなるだろう。……君を送り出したのがあのセラフィエル教官でなければ、こんなことにはならなかったろうに』
 悲観的な想定が万一の備えとして出てきたのか、もっと大きな可能性として言っているのか、ウィルには分からなかった。
 教官が重孝に託した言葉を知らないままなら、成績不振の訓練生を押しつけられた現場担当者の嘆きと解釈したかもしれない。伝言を既に受け取っている今、彼が一番に思い浮かべたのは全く違う「役目」と、ただの足手まといよりも厄介な「立場」だった。
 どのみちリーダーにとってはウィルを頭数に入れたこと自体が苦渋の決断だったらしい。
 作戦の先に何を見た上での選択なのかは、やはり分からない。

「今回の作戦は一度きりのものになる。誰がどんな失敗をしようと、許しがたい結果になったとしても、出直しや再挑戦は一切できない」
 ウィルは息を呑む音を聞きながらそっと真横を見た。
 隊列に入れられず後ろの壁まで追いやられた同胞が、訓練生の他にもう一人いる。その人物は顔の特徴や服装こそ他の守護天使たちの姿と似通っていたが、表情や壁にもたれる姿勢からは他と全く違う思いや祈りを感じられた。
 敵意ではなく憂い。
 不満ではなく物思い。
 リーダーによればその同胞は外部からの応援だという。とはいえただの数合わせでないことはウィルでさえ察したし、この家の住人たちは露骨な態度で警戒の意志を示していたが、それ以上は誰も語らなかった。説明を求めることも問うこともなく、また本人も何一つ語らなかった。
「これより作戦を開始する」
 話の結びは堂々と発せられた宣言だった。気だるさも不信も打ち消し、自然と背筋を伸ばしたくなる、そんな印象を聞き手に与える声だった。
 合図を受けた守護天使たちが一斉に移動を始めた。何人もの同胞が同時に動いたのに互いの袖さえぶつからず、決められた道筋をたどるように迷いなく、ダイニングの東西の端に二つの集団が形成された。ウィルと応援要員はそれぞれ別の集団についた。
 ウィルは見知った顔のいくつかに気づいたが、ひなぎくのことは最後まで見つけられなかった。どうやら彼女はこの場に招かれなかったらしい。何一つ事情を知らなかったからこそ言葉を濁されたのかもしれないが、今頃それを知ったところで何の意味もなかった。
 そんなことを考えているうちに、集団の片方から手招きをされた。先輩たちの輪に加わった訓練生はまず小さなブローチ――霊的素子で駆動する通信機らしい――を渡され、それから尋ねられた。
「もちろん今日のことは誰にも漏らしていないな?」
「……いいえ」
 正直に答えると、全方位から浴びせられる視線の温度が一気に変わった。
 どう思われようとウィルは正直に答えるしかなかった。作戦の存在を話した相手は一人、しかもこの拠点に所属する守護天使であること。相談する際には厳重に人払いをしたこと。そもそもリーダーからの通達に他言無用との指示がなかったこと。説明に証拠物品を加えて突きつけると、ようやく炎がくすぶるような匂いが消えた。
「知らなかった、が通用するのは一回だけだ。よく聞け。我々は全員が全員の行動を把握しているわけではない。彼女には彼女の役目があり、今回はそれが優先された。お前はお前が言われたことを忠実に果たせ。何もしないうちからよそ見をするな」
 そう言った人物の顔に反論を受け入れる余裕はなさそうだった。
「足手まといなら置いていく」
 別の誰かが言った。
 ウィルが声の出所を掴めないうちに先輩たちは移動を始めていた。列をなして拠点の外に出て行く彼らを追いかけると、思いもよらない光景が待っていた。
 同胞が玄関のアプローチを軽く蹴って飛んだ。
 広げた翼を見せることなく姿を消していた。
 続けて一人、また一人、突風に乗った木の葉のように飛んでいった。
 一部始終をただ見ていたウィルだけが玄関先に残された。家屋に面した道路上はもちろん、雲に覆われた空を見上げてみても、その場にとどまっている者はいなかった。
(消えた? 違う、移動に適した姿に変わっただけだろう)
 背後から視線を感じる中、ウィルも拠点を後にした。しかし当然ながら飛べない彼は、ガレージの隅に置いていた自転車を引き出し、地面の上を走り出した。
 これはあらかじめ指示されていたことだった。院長宅の自転車を借りてここまで来て、作戦の舞台へもそれに乗っていく。先ほど詳細を聞いたときには同胞と合流する前に駐輪する場所まで細かく指定された。
 今は全力でペダルをこぐしかない。
 道中、歩道に沿って並ぶ電柱の側面に見覚えある名を見つけた。柳医院が近隣の道路沿いに出している広告だった。
 院長たちは午前の診察を進めている頃だ。
 重孝は学校にいるだろう。確か試験の最終日と聞いた。
 彼らは己のなすべきことと真剣に向き合い、関わるものすべてを愛している。
 そういった人間がこの世界にいる限り、天使はそれを全力で守らなければならない。訓練生になったばかりの頃から繰り返し教えられてきた理念を胸に、ウィルは自転車を加速させた。
 一区画も行かないうちに、カーブミラーの端に映る車を見つけて急ブレーキをかけた。
 まず自分を守れてこそ。教官の声が聞こえなくなっても、さんざん言われてきたことは忘れていなかった。