[ Chapter19「硝子の銃を持つ男」 - D ]

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(お前らが本当に俺の味方なら、もうちょっと、あるだろ。声のかけ方とか)
 走るしかなかった。
 下り坂で急加速した。
 その終点でこわごわ減速した。
 赤信号を待つ時間を惜しんで迂回した。
(しかも茶番みたいなケンカまで始めやがって。どいつもこいつも俺のこと何だと思ってんだよ)
 いつも通る歩行者専用道を見上げながら走った。
 車道を挟んだ反対側の歩道からこちらを指さす人がいた。
 振り向いて一秒で数十メートル後ろを走ってくる誰かを見つけた。
 曲がり角の先でアパートを見つけると塀の裏に隠れて後続をやり過ごした。
(同じ正体不明の奴でも、まだ最初に名乗ってきたアッシュの方が断然マシだった)
 カーブミラーに何も映らなかったのに、車が目の前に現れて止まった。
 大型犬の吠え声を背中に浴びながら塀を登った。
 自分がどこにいるのか分からなくなってきた。
(……そういや、「最後の取引」って何だったんだ?)
 サイガは直感と運に頼って走り回った末、古い雑居ビルに囲まれた駐車場に逃げ込み、出番を待つ配送車の間に隠れた。
 息を潜めること数分、あるいはその数十倍。探し回る声も足音も車の走行音も聞こえてこない。ようやく少しだけ緊張を緩める余裕が生まれ、いつでも走れる姿勢をやめて片膝をついた。
 得意なことが水泳ではなく武道なら、それかケンカが強ければ、もうちょっと楽に突破できたのか。一瞬そんな「もしも」を想像して、すぐに自信が半減した。当初の相手は五人組で、すぐにその二倍になった。もっといるのだろうか。さばききれる気がしない。
(最初から逃げる、それでよかった。俺は間違ってない。なんかやばいことして追われてるみたいな感じだけど、あいつら別に警察じゃねえし。俺は悪くない)
 結論づけたところで、ずっと右手に握ったままだった携帯電話の存在を思い出した。体の一部になったかのようにほとんど知覚しないまま、ここまで落とすことも潰すこともしなかったらしい。無意識の行動にちょっとした感動を覚えながら端末を開いた。
 実隆からメールが届いていた。つまり逃走のまっただ中で着信があったわけで、その際には端末が振動していたはずだ。それにも全く気づかなかったことを知ったサイガはなんともいえない顔になった。
《急に教室を出て行ったからみんな驚いていたよ。
 最近は試験勉強以外のことでずっと悩んでたみたいだから、それのことだよね。
 無理だけはするなよ》
 親友の気遣いがサイガの口元に大きな弧線を作った。
(サンキュー実隆。この問題にケリがついたら真っ先に知らせなきゃな)
 メール画面を終了してから、サイガは普段の習慣として携帯電話を鞄に戻そうとした。しかしすぐに自分がそれを持っていた理由を思い出し、もう一度端末を開いた。
 暗記している十桁の番号を一気に入力すると、今度は割り込まれることなく《発信中》の表示が出たので、ほっとした顔で画面を耳に当てた。ところが呼び出し音に続いて聞こえてきたのは、留守番電話の自動音声だった。
 本当に忙しくて手が離せないのか。それとも。
 もう一度だけかけてみようと発信履歴を表示させたそのとき、画面が突然切り替わった。驚いたサイガは携帯電話を落としそうになったが、振動のリズムから聞き慣れた着信メロディを思い出し、持ち直した端末を再び頬の横に添えた。
『もしもし? サイガくん?』
 求めていた柏木の声がした。電話の発信元は彼の携帯電話だった。
「あ、はい、俺です。今そっちに向かってました」
『店に来てくれるつもりだったのか。でも、ごめんね。今は出かけていて、まだしばらく戻れそうにない』
「マジか」
 事前に連絡して予定を確認すべきだったと気づいたが、もちろん後の祭りだ。ついさっきまでは試験で赤点を取らないことが最優先で、息抜き中に試験後の行動を考えた日はあっても、予約を取るという発想は頭をかすめもしなかった。
「どうすんだこの状況……」
『えっ?』
「何でもない。そうだ、柏木さん今どこに!?」
『それが……実は、陽介のところにいるんだ。急に呼び出されて……』
 電話越しに説明されたいきさつが、途中からサイガの耳に届かなくなった。
 通話の音を押しのけたのは無遠慮な足音だった。誰か来る。気づいてその場を離れようとしたときには既に、車の後ろから出てきた靴が視界に入ってしまった。
 そしてサイガは現れた人物を直視した。
 後光が差していた。
 薄暗い隠れ場所を外から覗き込む姿には影がかかっているのに、何故か快晴の空の下にいるようにはっきりと見えていた。上下がバランス良く鍛えられた男らしい体格、彫りの深い顔立ちに、派手な黄色のアロハがよく似合う。しかし遠い国の人間には見えない。
 顔見知りではない、と頭では判断した。
 正反対の直感を、魂が叫んでいる。
「見ぃつけた」
 白い歯を見せて笑う男を前に、サイガは警戒を忘れた。
 身を隠している理由を忘れた。
 呼吸を整えることを忘れた。
『サイガくん? どうしたんだ、何かあったのかい? もしもし?』
 柏木の声がサイガの耳から遠のいていく。
 すると、アロハの男が軽く身をよじり、配送車に挟まれた隙間へ踏み込んできた。そしてサイガとの間に一歩分だけの距離を残して身をかがめ、こう呼びかけた。
「電話の相手は亮ちゃんか。心配ない、俺が追いついた」
『か、一真くん!?』
 携帯電話が悲鳴を上げて地面に転がった。
 サイガの頭に上から大きな右手が被さった。地毛の色が徐々に現れてきた髪をかき回すように撫でられたとき、毛根から皮膚を伝って全身へ、激しく揺さぶられたような衝撃が走った。
 この人を知っている。
 片耳で拾った名前がかすむほど強く、心の奥底から何かが訴える。
「無事で良かった。逃げたって聞いてちょっと心配してたんだ」
 一真と呼ばれた男の言葉は、声なき叫びに引き寄せられるように、サイガの中へと入ってきた。
「はじめまして。いや違うな。……ただいま、サイガ」
 何かのスイッチがはじけ飛ぶ音がした。
 全身の震えが嘘のように静まった後、両足の筋肉が勝手に動いていた。両膝をつき、頭上から離れた指先を追うように見上げた彼を、今度は男の太い両腕が包んだ。
 強く抱きしめられた。
 完全に身動きがとれなくなった。
 あの陽介でさえ行わなかったことを、一真は平然とやってみせた。しかしサイガの心から染み出すのは恐怖でも嫌悪でもなかった。
 この人を待っていた。
 耳の奥で、手足の関節で、心臓の内側で、誰かが快哉を叫ぶ。
「ずっと待たせてごめんな。まさか陽介があんなことになってるなんて思わなかった」
 何も答えられず、何も示せず、ただ背中を撫でられ続けた。
 発言の意味はよく分からない。
 その言葉に嘘はない、と感じた理由も分からない。
 自分の両目から涙があふれ出した理由も――
『其奴から離れろ』
 濡れた頬を冷たい風が鞭打った。
 サイガはようやく自分がしていること、置かれた状況を認識した。
 今になって恥ずかしさと気まずさがわいてきても、困ったことに両腕の拘束が解けずにいる。しかもそれとは恐らく別の理由で、手足が動かなくなっていた。
 自分の身体が、意識が、自分を離れていく。
 気づくのが遅すぎた。