[ Chapter19「硝子の銃を持つ男」 - E ]

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 あれは何だ、と誰かが言った。
 声を拾ったウィルはすぐ顔を向けたが発言者は特定できなかった。目にしたのは出番を待つ同胞たちが何かに気づいて慌てる、あるいは困惑する姿だった。
 彼は次に、保護対象と接触する班が向かった方角を援護組の頭越しに見た。おかしなざわめきの理由は、経験不足以前の身である訓練生でも一目で理解できるものだった。
 計画の倍の人数が十字路の上にいる。
 想定にない戦闘が始まっている。
「我々の偽者……?」
「まずい、あんなタイミングで割り込まれたら、こっちが偽者だって思われかねません!」
「敵の急襲を防げないっててめーら何やって……は? そっちにも偽者?」
 ウィルが現れた敵を数えている間に、味方の一人が別の地点に配置された班と連絡を取っていた。結果はその場で全員に知れ渡り、具体的に何が起きたかもまた、すぐに全員が目にすることとなった。
「見よ、ここにも我々の偽者がいた」
「感心している暇はありません。早く制圧してしまいましょう」
「あちらさんと合流しようったって、そうはいかないぜ?」
 姿形はもちろん声の抑揚や細かな仕草まで、どこまでも似通った二組が向かい合う。そんな構図がここにも生まれてしまった。
 これから何が起きるかなど素人にも分かる話だ。
 ウィルはその回答例ともいえる先発隊へもう一度目を向けた。拮抗した組み合いや派手な投げ合いに発展している中、一人だけが全く違う行動を選んでいた。
 戦いの場から逃亡した者がいる。
 保護すべき対象が、最も無防備な人間が、混乱に乗じて逃げている。
 こんなところで見失うわけにはいかない。
 ウィルの足は迷いなく動いた。構える味方の後ろを離れ、誰の指図も待たず、逃げた少年と同じ方角へと走り出していた。
 引き留めるような声は聞こえてこなかった。
(しかと見た。これが現実だ)
 自転車で拠点を発ったウィルが集合場所に着いたとき、既に同胞は五つの班に分かれて作戦を始めていた。一つが空から、残りは地上で、邪魔者を端から排除しつつキーパーソンを保護する準備を整えていたはずだった。
 しかしその布陣は結局うまく機能しなかったことになる。散っていた仲間はそれぞれ配置についたその場所で襲われ、保護対象である少年の逃走を許してしまった。出発前、リーダーは全員に異なる指示を与えたと言ったが、その中のどれかが失敗したことは明白だ。
(守護天使。第九の階級。この狭い世界に放り込まれ、わずかな武装を頼りに箱庭を整備する仕事)
 天の軍勢を支える武具の製造開発はもっと上の階級、選ばれた精鋭たちの手で行われると聞く。ここにいるのは技術も細工も知らない駒ばかりというわけだ。
 階級の壁を越え高度な知識の一部を得たウィルは、今や一緒にいた同胞とは全く違う世界を見ていた。たとえば彼らの拠点を訪れたとき、家を包む結界の弱点が一目で分かってしまった。何も知らなかった数ヶ月前の彼自身に同じ物を見た感想を問うだけで、浮かび上がる影がある。
 完全な知識を持つ階級(エリート)にこの世界はどう見えているだろうか。
 あっけなく壊れた作戦は、身内の失態は、どう聞こえるだろうか。
(これが現実だ。行き場のない俺の現実だ)
 細い道路が住宅地を覆う網のように広がっている。ウィルは何度か角を折れ、屋根の間に見えるビルを手がかりに位置を掴み、下り坂の始点で例の少年を見つけた。既に坂を駆け下りる後ろ姿が小さくなっている。同じ道を直進するしかなかった。
 この追いかけっこは本当に敵襲があったせいなのか。それがなかったとしたら、誰かがうまいこと信頼と安堵を引き出し、拠点に連れ帰っていたのだろうか。
 あるいはこんな状況も想定済みで、少年が向かう先には別の班が待ち構えているのか。
(味方であっても当てにはできない。俺は、託されたとおりに、やるしかない)
 教官がウィルのために用意した肉体は運動能力にも回復力にも優れ、これまで彼の補習や窮地を切り抜ける大きな武器となってきた。悪魔や落伍者と戦うには不足も多いが、ごく普通の人間ひとりを捕らえるには十分なはずだった。
 しかし今ここで追う相手は、普通の人間の中ではそれなりに優れた脚力の持ち主だったらしい。逃げる足が速すぎる。恐らく持久力もある。さらに走り続けるさなかとは思えない身軽な動作で、すれ違う人間や自転車をかわしていた。
 それは身体能力だけの問題ではない。
 広い車道に沿った歩道を走っていたとき、少年が一度だけ振り向いた。ウィルとの距離は互いの顔を判別できるほど近くはなかったが、追ってくる者がいるという事実が少年の警戒心を刺激したらしい。爆発的な加速で距離を広げられた上、駆け込んだ曲がり角の先で姿を消してしまった。
 彼が最後に背中を見せた地点で、ウィルは足を止めて考えた。
 当人は何から逃げているつもりなのか。全力の動きを維持する集中力はどこから来るのか。まさかこちらが悪魔の手先だと思われていないだろうか。
『見つけた、塀の向こうだ』
『裏から回り込む、援護を!』
 耳では拾えない声が胸元につけていた通信機から届いた。住所や道路名を知らせて互いの位置を確認し合っている。同胞が敵を倒したか振り切ったか、待機組として近くにいたのか、とにかく手が空いてここまで追いついたらしい。
 味方を装った何者かという仮説も頭をよぎったが、ウィルは懸念を脇に置くことにした。動いたのが味方なら話に乗る。敵だとしても利用すればいい。目的の達成を優先すると再確認し、走り出した。
 訓練生が声の発信源に行き着く直前、少年は隠れ場所から脱出したらしい。アパートの門を乗り越えた勢いで目の前の車道を横断し、住宅の間に入っていったという。
 ウィルは自分の聴覚と他者の情報を頼りに少年を追った。当人の考えは少しも手に取れないが、見失った後ろ姿を再度見つけてからは、とにかく同じ道順をたどることにした。
 防火壁が作る死角で時間を稼ぐ。
 塀を登って猫のように宅地の隙間を駆けていく。
 時には屋根やひさしを伝い、近道のない区間を強引に通り抜ける。
 一見なりふり構わない逃亡は方法もルートもめちゃくちゃだったが、少年の真後ろを見続けたウィルはひとつの建物を目印にすると話が変わることに気づいた。それは当初の作戦に組み込まれた情報と一致していた。
『対象は通常このルートで通学しているが、作戦当日は事情が異なる。恐らく九割以上の確率でこのルート、街の中心部へと直行するはずだ』
 確か少年の自宅近辺で待ち伏せをしない理由がそんな話だった。説明は一部分に過ぎず詳細まで聞かされなかったが、根拠のある情報なのだろう。
 街の中心部は周辺地域よりも高い建物の割合が少し多い。とりわけ駅の高架に被さるように建つビルは、近づけば近づくほど建物や道路の背景として目立つようになっていた。
 そして少年は道を外れて逃げ隠れするたび、同じ方角へ向かう軌道修正を繰り返していた。もしかするとその近辺に、彼が安全地帯だと信じている場所があるのかもしれない。
 落伍者の息がかかった者がいるのかもしれない。
 冬の夜の事件、見ているだけだった保護失敗の一部始終が、訓練生の頭をよぎった。
(作戦の舞台はここだけではない。予定通りであれば今頃奴は仕留められているはずだが)
 横からクラクションの音が飛び込んできた。
 とっさに足を止めたウィルの前を一台のマイクロバスが横切った。
 舞い上がる排ガスを吸ってむせた彼が再び前方を見たとき、少年の姿はなかった。
(せいぜい数秒。人間がその間に動ける距離などたかがしれている)
 ウィルは後続の車が来ないことを確かめてから追跡を再開した。しかし目星をつけた曲がり角の先に少年の姿はなく、立ち止まっても足音は聞こえなかった。
 味方の声もいつしか途絶えていた。やはり見失ったのだろうか。
 手がかりのない路上で、己の感覚器官と記憶に任せて調べ回るうち、肉体に備わっていない感覚が意識の内側で騒ぎ始めた。ウィル自身は最初にわずかな違和感として認識し、それから辺りを包む空気そのものへの既視感と判断した。
 つい先日通りかかった道だった。
 小雨が降る中での出来事が頭をよぎった。
 宿敵に蹴り飛ばされた腹が昨夜の傷のようにうずいた。
 今ここに結界が現れていると分かる兆候はない。とはいえ油断はできないので、ウィルは敵襲を想定して身構えながら捜索を続けた。
 住宅と企業と空き物件が混在する地域を歩くこと数分。訓練生は意識していなかったはずなのに、あの一方的敗北を味わった場所にたどり着いていた。
 そこには敵ではなく先客がいた。
『へえ。まさか新米くんが一番乗りとは』
 守護天使の拠点で見かけた、あの応援要員の天使が、街灯の柱にもたれて手を振っていた。スーツから黄色のシャツにハーフパンツという服装に替わっていたが、顔だけは間違えようがなかった。