[ Chapter19「硝子の銃を持つ男」 - F ]

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 別の場所での作戦に従事しているはずの人物が、こんなところに、しかもどうやら一人で来ている。それだけでもウィルには呑み込みがたい状況だった。加えてそいつはいつの間にか、この地域であまり見かけない服装に着替えている。
 作戦を放り出して勝手に別行動を始めていた、というのが最も腑に落ちる解釈だった。
『落伍者の討伐はどうなった?』
 通信機を使って問いかけながら前に出たウィルに、不審な天使は――草薙一真は右の手のひらを突き出すポーズだけで答えた。
 止まれ。近づくな。
 意をくんだウィルが前に出した足を引っ込めると、一真はハーフパンツの背面のポケットから何かを取り出し、ウィルに投げてよこした。
『俺が行く。援護を頼む』
 ウィルが両手で受け止めたものを見る間に、同胞は街灯のはす向かいにある駐車場へ入っていった。少しだけ間を置いて、今度は空気を介して声を聞いた。
「見ぃつけた」
 何を、と問う前に答えを察した。ウィルが見失った少年はそこに隠れていたらしい。
 耳だけで会話の断片を拾いながら、渡されたものを改めて観察した。形状は細身の拳銃にも、それによく似せた水鉄砲にも見える。グリップを始め要所にクリアカラーの部品が使われていて、実弾が一発も入っていないと一目で分かる構造になっていた。
 もちろんそれをただの玩具と信じることはない。これまで扱っていた小銃との違いに気をつけながら両手で握り、いつでも狙いを定められる姿勢を取った。
 視界の真ん中で何かが跳ねた。
 金属板を蹴りつける音がした。
 配送車の屋根に誰かが着地していた。隣の車を足場に駆け上がったらしいその人物は、見覚えある黒の制服の上に白のダスターコートを羽織っている。コートの裾が翻る間に別の車の上へ飛び移る、その動作の機敏さはあの少年の足運びのレベルを超えていた。
 何が起きたのか。ウィルに思い当たる節は一つしかない。
(サリエルを仕留め損ねた。向こうの作戦も失敗していたのか)
 車のボディを幾度か叩く音と共に、一真も敵と同じ高さまで上がってきた。その手や背中に武器は見当たらない。
 先に屋根へ乗った方は左手の短剣を相手に向けた。前を開けたコートの内側に、刃と同じ色をした柄の端が何個か顔を出していた。
 もちろん見た目だけで優劣の判断は下せない。
 ウィルは深く息を吸い姿勢を整えると、銃口を配送車の上に向けた。少年の顔を覆った白い仮面に照準を合わせる。弾は見当たらなくても撃鉄は動かせた。
 引き金に指を掛けた、その瞬間に仮面が照準器の正面へと向けられた。
 敵がこちらに気づいたと悟ったときには、銃身に突き刺さった衝撃がウィルの両手をも揺さぶっていた。
 押さえようとしても耐えきれず、拳銃を手放すまでに数秒もかからなかっただろう。しかし指の間から逃げていく銃を見つめる間、弾け飛ぶ破片を全身に浴びる間、どうしてか時間が止まったようにさえ感じていた。
 知覚と理解が現実に追いついたのは、銃だったものがすべて道路上に散らばった後だった。最も大きな破片には一本の短剣が、弾倉の中身をえぐり出そうとするかのように挟まっていた。
(威嚇もさせてもらえないとは)
 ウィルは使い物にならなくなった武器を拾おうとしたが、思い直して視線を元に戻した。
 仮面の男は既にこちらを向いていなかった。コートから取り出したのだろう別の刃物を手に、今度は一真へ斬りかかっている。対する一真は軽快なフットワークで攻撃をかわし、敵の動きに応じて少しずつ距離を作っていた。
 両者の姿が、背景となった街が、少しずつ色褪せていく。
「お前さんが求めているものは何なんだ?」
 問いかけたのは一真の方だった。その手にやはり武器はなく、素早い刺突がアロハの短い袖をかすめても、動揺が少しも見られない。
 仮面の内側から声は聞こえてこなかった。反撃が来ないこともあって攻撃の手数が多い。左手の刃物だけでなく、時には軸にしていない足をも振り回していた。
 そのすべてを受け流しながら、天使は言葉を続ける。
「俺を退けたいだけなら人間の肉体を借りて行動する必要はない。わざとそうしてるんだろ。サイガを他の奴に渡したくないから、肉体を支配して奪われないようにする。顔を覆い隠すことで周りの情報を遮断して精神を封じ込める。こっちが人間を極力傷つけたくないと分かってるから、自分に攻撃を向けさせないための盾にする。違うか?」
 息継ぎのたびに距離が広がる。
 一突きのたびに距離が縮まる。
「しかもお前さん、その格好であちこち出没して暴れ回ってたんだってな。それだってもちろん意味あってのこと。じゃなきゃ昔の、それも世間じゃほとんど知られてない微妙な事件をわざわざ掘り返すもんか」
 先ほどから一真は後ずさりと横移動を繰り返しているだけなのに、その姿が何故か、堂々と敵陣に突っ込む戦士のように見えた。
 ウィルは目をこすりながら前へ踏み出すと、拳銃の部品だった破片の一つを手探りで拾った。駐車場の向かいに建つ家屋の前まで移動し、対峙する二人に近づいても、今度は短剣が飛んでくる気配はなかった。
 仮面と白いコートはただの変装に見えて、実は攻撃を弾く堅固な鎧であることを訓練生は知っている。教官にも報告しているから、上を通して地域の拠点に、そして同胞に共有されていてもおかしくはない。
 だから一真は拙速に攻撃を仕掛けないのか。
 状況を面白がるような表情にそぐわない気がして、ウィルは思いついた仮説を捨てた。
「前にも同じような格好をした奴と、こうしてやりあったことがある。でもそれの中身はずっと単純だった。恐怖を求め、不安を誘い、人間の本能が煮えたぎる瞬間のエネルギーを欲していた。まさにそれの源であり動力であったから当然だ」
 配送車の屋根を蹴った足で天使は高く跳ぶ。
 身にまとうアロハの色はもう判らなくなっている。
「しかしお前さんは違う。それの真似をしなくても人質は守れるし、あいつとはもっと高尚な取引だってできただろうに。なんでまた、わざわざ俺の過去を利用した?」
『とんだ思い違いだ。貴様には初めから何も求めていない』
 低く重たい声が辺りに反響した。
 直後に銀の刃が空を裂いた。投げられた一本が喉を貫くコースをぎりぎりでかわした一真は、守った首を大げさにすくめて見せた。
「用があるのは陽介だけってか。参ったな。俺としてはアレの代わりに出せるもんだってあるだろうと言いたいとこだったけど……堕ちるっていうのも大変なんだな」
 堕天使は再び黙した。
 すると一真は語りかけるのをやめ、両腕を曲げて何かの構えを取った。この場では素手で立ち向かう方針は変えないらしい。
 ウィルは会話と攻撃が同時に止まったことに不穏を感じながら、拾った残骸の表面を両手で探った。もはやグリップと一体化している短剣は刃が薄く、飛び道具にするだけあってとても軽い。そして柄には細かな図形を組み合わせた複雑な文様が刻まれている。
 手元に視線を落とし、全体のデザインを間近に見て、訓練生は愕然とした。
 視覚を通した瞬間、単なる意匠が意味ある線の集合体に変わった。それは文字だった。細かな文字が緻密な配列として連なり、交わり、柄を包み込んでいた。
(これは……聖句?)
 天の軍勢の一員なら知らぬ者などいない、誓いのことば。祈りの場で、奮起すべき場で、感謝をかみしめる場で、自然に思い起こされる感情を表す定式のひとつ。
 元は同胞であったサリエルがそれを知っていることに疑問の余地はなかった。しかし軍勢に背いた身分でありながらこれを懐に入れ、しかも同じく内容を知る者に武器として向ける、などという行動はとても理解できそうになかった。
 色褪せた世界の中心で、ウィルは聖なる柄を逆手に握って、考える。
(ここは奴自身の結界内だ、霊的素子を集めてこういったものを形作ることはたやすい。だが、どうしてこの意匠を使う? 古い記憶に頼っているのか、複製元が存在するのか)
 字句をなす線は手のひらで包んでいる限りはただの凹凸でしかない。聖句自体も所詮は仲間内で重んじているものでしかなく、たとえば地獄の軍団から見たなら唾棄するものかもしれないが、忌避や畏怖をもたらすとの話は聞いたことがなかった。
 教官に訊けば何か分かるかもしれない。そう思ってから、実行不可能だと気づいた。
(情報が少なすぎる)
 ウィルはガラスの拳銃の破片を足下に落とした。
 敵が短剣を投げた際の挙動、振りかぶる腕の動きを意識の片隅に再現しながら、目の前の攻防を再び見上げた。
 両者の立ち位置が入れ替わっていた。しかし優劣は変わっていないようだった。
(旧知の仲なら、救ってほしいとの願いが本音だったなら、まず守り方を教えてくれれば良かっただろう。何故そうしなかった、セラフィエル教官)