[ Chapter20「気になる少年たちの事件簿」 - C ]

back  next  home


 ウィルは雨垂れの音で目を覚ました。
 視界に入ったのは馴染んだ部屋の天井でも、以前入れられた病室の壁でもない。板で覆われた窓から差し込むわずかな光が、構造も高さも異なる薄汚れた空間を辛うじて可視化させていた。
 どれほど長く気を失っていたのか。呼吸の仕方は思い出したが、手足に力が入らない。
(ああ、また、眠っていたのか)
 己の身に起きたことならはっきりと思い出せる。
 撃たれたのだ。より正確に言えば、何者かが狙いを定めた位置にわざと飛び出し、敵が受けるはずだった弾を背中に浴びた。腹の皮まで貫くほどの衝撃は一瞬のことだったが、霊的素子も肉体の構成も大きく乱れ、すぐに立てなくなった。
 それでも、薄れゆく意識は最後に確信していた。
 あの少年には傷を負わせずに済んだということを。
(充分な隙があったはずだ。その間に逃げ切れていたら……だが、敵も逃がすことになる)
 目を閉じて息を吐き、五感を忘れた。
 通信機の気配がない。所持していないばかりか、近くに置かれている様子もない。代わりに別の気配がひとつ。同胞がそばにいるというのに、少しも安心できなかった。
 警戒心と同時に疑問も芽生えた。
 意識を手放すほどの深手を負ったはずなのに、その傷らしき痛みを今は感じない。治療が行われたのならどれほどの時間を要したのか。そもそも戦力外となった時点で訓練学校に呼び戻されてもおかしくないのに、どうしてまだ物質界に残れているのか。
(しかも、こんな……檻のような場所に)
 目を開けたウィルの前に光が現れた。
 電気仕掛けの小さなランタンに照らされたのは彼だけではない。その身体が横たえられたマットレス、古い毛布、ひび割れた壁を視界の端に確かめた。そしてランタンを持つ手の主と視線が合った。
「なんだ、もう起きたのか」
 一真が少し残念そうに言った。
 いまだ所属も素性も分からない同胞は目立った怪我こそしていないようだが、ひどくくたびれた顔をしていた。地味な衣服の袖口から見える腕も、敵と戦っていたときよりいくらかやせたように見えた。
 変わっていないものも一応ある。例えばウィルを見る目つきがそうだった。
「まだしばらく寝てていい、というか今はそうしてほしい。前みたく動けるようになるにはもう少し時間がかかりそうなんでね」
 どうしてなのか。
 ウィルは尋ねようとしたが、喉の奥から発した息をうまく声に変えられなかった。
「訳を知りたそうな顔だな。当然か」
 幸い言いたかったことは伝わったらしい。
「お前さんは背後から攻撃を受けて肉体を損傷した。放っておけば魂まで還ってしまう致命傷だった。が、助けようにも周りは敵しかいなかったんで、ひとまず退却ってことでお前さんをここまで連れてきた。……理解できてるか?」
 返事を発せない口を閉ざし、目を伏せることで答えた。
 頬を撫でたのは隙間風か。それともため息の端だったのか。
「もちろんあの場で顕現を解いて向こうへ送還する手もあっただろうよ。目の前にいるのが邪視の使い手じゃなけりゃな。鎧を脱ぎ捨てて無防備な姿で逃げることを見逃してくれる保証なんかない。救援を待つのも同じことだった」
 教わった、あるいは見聞きした話が、ウィルの心を流れ落ちていく。
 あのときは一真がいたからか、仮面の男は援護射撃の機会を潰した場面の他は、ほとんどこちらに関心を向けなかったように見える。しかし結界を展開し、自分に有利な環境を作ってもいた。弱い獲物を屠る機会ならいくらでもあっただろう。
 だからこそ疑問が際立つ。
 魅入られた者を捕らえるとも言われる魔眼に正面から挑んだこの同胞は、どうやってその視線と結界を振り切り逃げたのか。それも戦えない後輩を連れて。
「とりあえず、撃ってきた奴にはお前さんが持たされてた通信機を投げつけておいた。多分命中はしたと思うから、今頃地元の守護勢が追っかけてるか、始末されてるか。どっちにしてもそいつはほっといていい」
 光が少しだけ弱くなった。
 ランタンを床に置く音がした。
「で、味方が来る見込みがないから、傷は俺がふさいだ。顕現の応用なんだけど、ここに隠れた時点でいろいろ流れ出てたし、他の奴が作った肉体を直すなんて初めてだから完璧には程遠いかもな。もうちょっと調整してみるから、それまでは我慢しててほしい」
 ウィルは返事をやめ、ぼんやり照らされた壁を見つめた。
 以前は壁紙が貼られていたのか、ところどころにはがされた跡がついている。そのひとつに重なる人型の影は縦に長く、頭部は天井に達していた。
(隠れた、と言った。しかし本当にここは安全なのか)
 もし言葉通りに逃げたのだとして、その後ならそれこそ傷ついた肉体を元の塵に帰して送還することもできたはずだ。わざわざ修復を試みるよりずっと負担は少ないだろうし、何より隠れたままでいる必要がなくなる。
 そんな手を思いつかなかっただけなら、足手まといの同胞に気を取られた愚かな選択としか呼べない。
 知っていて選ばなかったのであれば、当然そこには何らかの思惑があるはずだ。
(事情か、企みか。指令か。他にも隠されたことがあるに違いない)
 壁に重なる影の面積が広がった。
 マットレスのそばに腰を下ろした一真が、その手を毛布の下に潜り込ませてきた。何かを呟きながらウィルの脇腹を優しく撫でると、暗がりにたまった空気のような冷たい感触が皮膚を通り抜けてその内側に広がった。
 文字通り、腹の中に触れられている。そんな気がする。
 何かを握られている。痛みを感じる。
『この辺は大丈夫そうだな。後は……』
 耳を通さずに一真の声を拾った。ウィルは最初の一瞬こそ驚いたが、すぐに相手が同胞であることを思い出した。
 魂から魂へ直接流れてくる声に嘘はない。
『俺のこと疑ってるんだろ。ああ、今はそれでいい。じきに分かる』
 体の芯をかき回すようにうごめく冷たいものは、次第に腹から胸へと移動していた。鼓動をなぞり、震えをつつき、そして熱気を掴んで止めた。
 どんな手を使って何をしているのか。肉体を作る技術の応用だけでなせるものなのか。
 直接触れているそれを知ろうとしても全く読み解けない。
『そうか、ここを直すときに詰まらせてたんだな。……よし、これでいい。苦しかったろう』
 冷たい異物がそっと浮き上がり、毛布の下から出ていった。
 ウィルは目を覚ましたときより呼吸が楽になっていることに気づいた。吐き出せたのは息だけではなかった。
「……何をした?」
 鼻息の音を聞いた。あっさり声が戻ったことか、内容の方か、とにかくどこかが相手の笑いを誘ったらしい。
「調整。さっきも言ったけど肉体の傷は深かったから、ふさぐのも直すのも大量の元素と霊的素子が必要だった。でも顕現するときみたいに地表から不足分を集める余裕はなかったんで、お前さんの全身から少しずつ集めて補う方法を採らせてもらった」
 一真が身を乗り出し、片手をウィルの背中の下に入れてきた。今度は体温の差が伝わっただけで体内には何も入ってこなかった。
 糸が切れたように動かない肉体がゆっくりと起こされた。
 視界が回り、揺れた。
 のどを通る空気の味が少しだけ変わった。
「本来は応急処置、しかも自分で自分に対してやるものだから、仲間に使うときの加減やら何やらは普通教わらない。でもお前さんはそもそも顕現の訓練自体まだだろう、だから不具合は自力でなんとかしろなんて言わない。おかしなところがあれば遠慮なく教えてくれ」
 両足を伸ばして座った姿勢が作られたところで一真の手が離れ、箱状の物体が置かれてウィルの背中を支えた。
 怪我人が見上げた天井は思いの外高かった。
 隣に座り直した同胞の姿にも違和感があった。
「……視覚がおかしい。物が大きく見える」
「それは慣れてくれ」
 一真はウィルの頭を押さえつけるように撫でてから立ち上がった。
「全身から少しずつ取ってきたって今さっき言ったよな、新米くん。限られた材料で身体機能を保つには他を削るしかない。体のサイズが縮んでも死ぬよりはマシだろ?」