雨脚が弱まってきた。
ウィルは窓越しに聞こえてくるリズムの変化でそれを知った。毛布を広げ直していた手を止め、外の様子を見ようとして、その行為が禁じられていることを思い出した。
ここは慣れ親しんだあの家ではない。
今はただの待機時間ではない。
「お前さん、半年の間にいったい何を学んでたんだ?」
部屋に足を踏み入れた一真があきれ顔で言った。
問われたウィルは率直に答えるしかできなかった。
「この国の一般家庭における家事の基礎と応用を一通り」
話は数時間前にさかのぼる。
味方の合流を諦めてから一晩の後、ウィルは不自由なく動くようになった体で、部屋の掃除を始めた。今の自分にこの状況そのものを変える力はない、だが「何もしない」もしゃくだからと選んだ行動だった。
作業は一真が出かけていった後、まず使えそうな道具を探すところから始めた。前日にフラフラ歩き回ったときはただ暗く狭い空間としか思っていなかったが、はっきりした意識とランタンを持って調べてみると、様々な発見を得られた。
ここが長年にわたって誰かの生活の場であったことを、床の変色や柱の傷が伝えている。
最低限の水回りと照明器具は備え付けてあるが、電気や水などの供給は止まっている。
引き戸の立て付けが悪く開かない棚がある。
換気扇は窓と同様に板で塞がれている。
小さな獣や虫が住み着いていた形跡もあったが、それさえもある程度の年月が経ったものばかりだった。
(人間が放棄した住宅に細工を施し占拠している、といったところか)
その部屋には掃除用具どころか使えそうな道具がほとんどなく、棚の上から古びた布きれが一枚出てきただけだった。
ウィルは布きれを使って埃やゴミをかき集め、ついでに室内の「細工」を見て回った。内側の霊的素子を外へ出さない作用はまさしく外から逃げ込んだ者を守る盾となって働いているようだった。
誰が作ったかまでは分からない。
手を加えるなどできるはずもない。
(少なくとも天の軍勢の所有ではない。もしそうなら既に、救援か監査が来ている)
つい先ほどまで自分が横たわっていたマットレスを動かし、その下を覗いてみたが、道具も情報もゴミも挟まっていなかった。
そうして手が届く限りの場所は調べ、背が縮んだ影響について考えながら寝床を直していたところへ、一真が帰ってきたのだった。
「こういう状況じゃなきゃ、どんな家にでも潜り込める家政夫になれたかもな」
額に手を当てる一真に、今度はウィルが尋ねた。
「今までどこで何を?」
「何って、偵察だよ。いろんなところを回ってた。疑っているなら記憶を見せてもいい」
「偵察の目的くらいは口頭で説明できるはずだが」
「ごもっとも」一真は両手を小さく挙げた。「俺たちが戦う相手の様子を見に行ってたんだよ。もちろん裏切り者の方な」
ウィルは両手を空けて立ち上がった。それでも目線の高さが同胞のそれに届かないことが不思議で、どうにも落ち着かない。
「……自分は何も裏切っていない、と?」
返した疑問は不自然に強調されたフレーズへ向けたものだった。
子犬の吠え声に驚くような顔が答えだった。
「まだ終わってないって言っただろ」
それは一真自身が昨日語ったことと確かに一致する。
ウィルが哀れな少年を保護するよう命じられたように、拠点の外から招かれたこの天使には落伍者の討伐が課されていた。そして実際にウィルの前で標的と戦っていた。結局そのウィルが割り込んだために一真は撤退を余儀なくされたことも忘れてはいけない。
「お前さんはケリをつけたい。俺は奴から取り返したいブツがある。そしてお互い、手ぶらで帰れないワケがある」
一真が再び手を差し出してきた。
ウィルは手を出さなかった。
「話すこともまだ終わっていない」
「おっ?」
「事情も知らないまま話を鵜呑みにして協力すると思っているなら考えが甘すぎる」
「そう来たか!」
今度は驚く口ぶりに表情が伴わなかった。
握手が空振りに終わった手でマットレスを指したのは着席を勧める合図か。一真はチリ一つ落ちていない床に小さく膨らんだビニール袋を放り出すと、毛布の中央に全身を投げ出すように飛び込んだ。
ウィルは座らずに振り返り、寝転がった先輩を見下ろした。ノリの悪さを残念がる目で見上げられた。
「まあ話してもいいんだけど、その前に確認したい。お前さんはサリエルがこの街に居座る理由、ちゃんと知ってるか?」
「契約を交わした人間のためだと」
「その経緯は?」
「……そこまでは」
人間に紛れて生活する日々を始めた頃、堕天使にすがった人間のことは教官から教えてもらった。ただしそれが記された日記帳は今ウィルの手元にない。
運命の時を拒んだ男に堕天使が手を貸した。
男は引き換えに我が子を差し出した。
話の途中で唐突に連れてこられる子供こそウィルが最初に救い損ねた少年であり、何度も救いに行こうとした相手だった。ゆえにある程度の情報はもらっていたが、そもそも彼がどうして巻き込まれたのか、という話に触れた記憶はなかった。
「補習に必要な情報ではないと判断されたのかもしれない」
「新米くんだもんな」
起き上がった一真がウィルの手を掴み、軽くひねった。
前より軽くなった身体はあっさりとマットレスの上に転がされた。
「よーし、ケリをつける前にとことん話そう。お前さんが知らされてないことも、俺が教わってないことも」
「対等に?」
「対等に。上から指示するだけの相手と組むのは嫌なんだろ?」
一真は離した手をすぐに下げ、足を組んで座り直した。ウィルも上半身を起こし、先輩と向かい合って座った。
視線の高さがいくらか近づいた。
「話がまとまったところで、先に俺から言った方がいいかな。……さっき言った契約のことだけど、あれは一人の人間の身勝手で片付く話じゃない」
「契約を持ちかける方にも問題がある」
「おっしゃる通り。サリエルの方は単なる気まぐれとか、ましてや親切心からとかでは陽介に近づいたわけじゃない。奴は自分の敵に勝つための手駒を探していただけだ。だから陽介が殺されても自分は逃げられるような構図が作ってあったし、用済みになったら冥府に引き渡す用意までしてたし」
そこまで分かっていた情報はどこでせき止められていたのか。
ウィルが思い描いた伝達ルートは、背中を叩く手の衝撃でもろくも崩れた。
「今の話は俺独自の情報。迎えに来てた死神から直接聞いた話だ」
「そのために外へ?」
「いいや、あの作戦のときに」
拠点に招集されていた守護天使のうち半数の行き先はウィルも知っている。しかし残りの半数のことは作戦の概要しか知らず、共に高校近辺で待機していた同胞もあまり把握していないようだった。
その「残り」に加わっていた一真は語った。
契約に応じた人間を入院先にて確保し、それを妨げるだろう堕天使を制圧する作戦が立てられていたことを。
同様の計画が冥府側でも進められていたらしく、決行直前に鉢合わせとなった天使たちと死神たちの間で戦闘になりかけたことを。
途中から一真だけが別行動を取り、病室に集まっていた当事者たちと対面したことを。
「……何故、一人で?」
「最初からそうするために俺は招集された。何しろ陽介をあんな行動に走らせた『未練』っていうのが、俺から借りたものを直接返すこと、だからな。門前払いは絶対にないだろ?」
そう言ってかざした手のひらがウィルの視界を奪った。