[ Chapter21「そして契約は始まった」 - B ]

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 エレベーターを降り、廊下を進む。行き交う人間は誰も振り向かない。正面にあるもの以外はぼんやりとしか見えず、正体を掴む前に流れ去っていく。
 やがて廊下の曲がり角に設けられた引き戸の前に着いた。鍵はかかっていないらしく、横から割り込んだ人間が引き戸を開けて中へ入った。しかし部屋の中には白いモヤのようなものが立ちこめて何も見えなかった。
「ちぇっ、やっぱりうまくいかないな」
 ウィルのまぶたに触れていた手が離れた途端、それまで見えていた光景が消えた。
 目を開ければそこには一真の顔がある。白いばかりで何も見えない状態は意図したものでなかったようだが、残念がる口ぶりに表情を伴っていない。
「直接見に行ったときもこうだったのか?」
「いいや、中の様子は確かにこの目で見た。陽介もちゃんといたし。まあ包帯まみれでベッドに釘付けだったから、影武者だったかもしれないけど」
 ふざけた表現でごまかされた。
 再びマットレスに寝転がった一真を横目に、ウィルは腕組みをした。
 今の今まで見せられていたものは間違いなく同胞の記憶であり記録なのだろう。それを共有してもらう感触は、結界についての特別講義を受けたときのそれにどこか似ていた。同じ原理を元にしているのだろうか。
「今なんにも見えなかったのが、陽介のいる個室。堕天使サリエルの本陣だ。ずいぶん贅沢な部屋で、だだっ広くて……」
(本陣。ならば結界を仕掛けてあってもおかしくはないか)
 ウィルが情報を整理している間、一真は記憶が塗り潰された現象に若干納得がいかないのか、右手を開いたり閉じたりしながら首をかしげていた。しかし思案は一分ともたずに放り出されたようで、その手もマットレスの上に倒れた。
「陽介って奴は、別に根っからの悪人っていうわけじゃない。ただただ自分の欲望に素直なだけの、ただの大馬鹿野郎だった」
「それは……サリエルと手を組んだことか?」
「一応それもある。でもあいつの場合はそれ以前の問題があった」
 壁を照らすランタンの明かりが小刻みに揺れる。
「二十年前、俺とあいつともう一人の友達で、約束を交わした。ちょっとでかい失敗をして二人に正体がバレたんで、その口封じも兼ねてな」
 ウィルは口をつぐんだ。
 明らかに説明が足りない。しかし問うべきはそこではない気もする。
「二人に課したのは、悪事から足を洗うこと。殺すな盗むなっていう基本はもちろん、特にあいつらが過去にやってきたこと、日頃の小さな行いや言葉にも気をつけろときつく言っておいた」
 一真の拳がマットレスを弱く殴りつけた。
「まあ間違いを一つも犯さない人間なんてそうそういるもんじゃない。だからその辺は一応織り込み済みではあったけど……その程度に見ていた俺の判断が甘かった。あの野郎、清廉潔白どころか何も変わりやしない、自分本位で欲にまみれた生活を続けてやがった」
「それほど罪深い男だったのか」
「人死にを出すほどではなかっただけで、傷つけてきた心は数多い。目先の快楽に溺れ、なすべきことを怠り、いろんな嘘をついてきた。もともと俺があいつに近づいたのも、その悪い癖をやめさせて周囲への悪影響を食い止めるためだったぐらいだ」
 訓練生は意識の内で講義のテキストをたぐる。
 ここで言う罪の重さは人間が刑罰を量るときの基準とは違う。小さな言動であっても意図的なそれが人間同士の交わり、また物質界全体の関わりに悪影響を及ぼすなら、看過してはいけない。ましてや手を貸すなど悪魔の手助けと同義だ。
 天の軍勢としての心構えと照らし合わせて、一真の言い分に問題はないように思える。
 しかし。
「つまり、そいつに直接働きかけても、言動が改まることはなかった」
「そういうこと。本当に馬鹿な奴だった。きっと俺が“約束”を残して帰った後も、やるなと言ったことを片っ端から実行したんだろうよ。じゃなきゃ何年も悪魔たちに追い回されるなんて状況になるわけがない」
「何年も……?」
 一人の人間を執拗に狙う悪魔と聞いて、ウィルには思い浮かぶ光景がある。
 照準器の内に捉えた敵の姿。
 街中を駆ける悪霊の姿。
 追いつけなかった少年の背中。
 この街で見てきた攻防は振り返れば半年あまりの出来事だったが、狙われる方には軽くない負担がかかっているはずだ。その何倍もの時間を、人間の短い命は耐えられるのか。
「あのときのことは不幸な事故だった。あいつらは物質界の外側を視て、矢を浴びてしまった。これが刺さるとなかなか抜けない。放っておけばろくでもない奴らが寄ってきて、あっという間に仲間入りだ。そうならないための“約束”だったのに、陽介の奴、自分から隠れ蓑に大穴開けやがったんだ!」
 物質界の外を知った人間と聞いて、思い浮かぶ光景がある。
 夜道を走るバイクの後部座席からの眺め。
 他愛もない話を黙って聞く横顔。
 秘密の手紙を託してきた、少年と呼ぶには大きすぎる手。
 この街で出会った物静かな同居人から学んだのは人間の生活様式だけではない。最初のように独りで戦っていたら断片にも触れなかっただろう話だ。
「……その約束というのは、不干渉の“誓い”のことなのか?」
「えっ何だ知ってたの」
 一真が目を丸くしてウィルを見上げた。
「概要だけだが」
「最近の訓練生はその辺も習うのか。軍勢にも時代の変化ってあるんだな」
「いや、補習の中で教わったことだ」
 ウィルが見てきた重孝は常に口数が少なかった。それは彼が幼い頃に出会った怪異から身を隠すための儀式、自分が関わってはいけない領域に触れたことを忘れないため課される制約だという。正月の奇妙な出会いの後に聞いた話だった。
 重孝に沈黙を誓わせたのは近辺を根城とする土着の神霊だったらしい。しかし、一度世界の外側に接したことを隠せるのは彼らだけではない。
「守護天使の階級では拠点のリーダーのみが習得を許されると聞いた」
「その通り。そこまできっちり覚えていられるってことは、真っ正面から向き合って学んできたんだな。感心、感心」
 マットレスの上に投げ出された手が、肘から先の力だけでウィルの背中を何度も叩いた。
「で、お前さんはその先の話も予想できてるんだろ。だから言われる前に言っておく。俺は人間の魂に覆いをかける方法を元から知っていた。二人と“"誓い”を立てた二十年前、あの日まで、俺はこの地域の同胞を仕切っていたからな」
「二十年前……」
「信じられないって目だな。いいよ、慣れてる。無事戻れたら今のリーダーに聞いてみろ」
 まだ不規則に背中を叩こうとする手を、ウィルは振り向く動作で払った。
 一真は少々寂しそうに笑った。
「でもあの日、俺は大きな過ちをやらかした。おかげで即解任プラス強制送還、その後は物質界との接触を禁じられた。お前さんも知ってるだろ、特に最近は人間絡みでトラブル起こす奴には厳しいんだ、上が。良くて謹慎、だいたいは幽閉生活ってな」
「……では、今ここにいるのは」
「それなんだよ」
 こぼれ落ちた一言は嘆きのようにも、自らをあざけるようにも見えた。
「あいつらに清廉を求めたとき、俺も『二十年後に戻る』と約束してしまった。人間の心は弱いから、いきなり一生の制約を背負わせるよりは具体的な目標を持たせた方がいいって、後から思い直したんだ。もちろん上がそれを許さないことも分かってたけど」
「分かっていて嘘を選んだ」
「嘘じゃない。手立てがあるなら何だってやるつもりだった。二人が今度こそまともな人間になってくれたか確かめたかったし」
 直接関わった者としての責任を語った後、続く一言は声に出されなかった。
 ウィルが唇の動きを目で追って顔をしかめると、一真は勢いよく跳ね起きた。
「俺は処分を受け入れた。その間に陽介は自覚ゼロのまま約束を破った。そのくせ二十年後って俺が言ったことだけは本気で信じてやがった。……そこに目をつけたのが、あのサリエルだった」
 因縁のある名前を耳にしたウィルが真顔に戻った。
「いくら俺が訴えたって上層部は動かない。じゃあ外から働きかけたらどうか。それで人質を取った。俺を再びここへ寄越せ、さもなくば人質は生きたまま地獄へ道連れだ。……お前さんの敵がやってきた一連の騒ぎ、どうやらそういうことだったらしい」