[ Chapter21「そして契約は始まった」 - C ]

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 カーテンの隙間から見えたのは、サイガが全く知らない世界だった。
 真っ黒な空には月も星もない。雲が出ているようでもない。
 地上には石造りの建物が弧を描くように並んでいる。その外観はどれも全く同じで、いくらか高い位置から見下ろした屋根の行列は、巨大なタイルを敷き詰めたようだった。
「広い……どんだけ広いんだよ……」
「強いて言うなら、君が見ようとする範囲はすべて、かな」
 なんとなく口にした感想に、背後から低い声が答えた。
 サイガはとっさにカーテンから顔を離して振り向いた。誰かが訪ねてきた様子はない。室内に起きた変化と言えば、さっきまで彼が座っていたソファの中央に一匹の黒猫がいることくらいだった。
「……は? 猫?」
 まばたきをしても、そこには確かに猫がいた。しゃれたマントで着飾り、顔にも何かが掛かっている。笑いかけているように見えるのは気のせいか。
「ああ、警戒しなくても大丈夫だ。窓の外を見るなと言われてはいないだろう?」
 同じ声がまた聞こえた。重厚かつ優雅、どこか安心感を与える響きは、サイガの見知った人物の誰にも当てはまらなかった。
 問題はその声を目の前の猫が発したようにしか見えなかったことだ。
(嘘だろ、猫がしゃべっ……あー、なんか突っ込むだけ無駄な気がしてきた)
 見た目のイメージと全く違う声が吹き替えのように被さってくる錯覚は、残念ながら経験済みだった。サイガは記憶の中から浮上しかけた幼児の姿を丁寧に沈めてから、改めて黒猫に向き直った。
「……で、どちら様?」
「私はシャロット・モリアーティ。君をここへ連れてきたアッシュの上司だ」
「上司!?」
 死神にもそういうのあるんだ、と言いかけて直前に飲み込んだ。長い名前は聞き慣れない印象だけを残してすぐに忘れてしまった。
 口を必死に閉じたサイガに、黒猫は笑いかけたようだった。それも錯覚かもしれなかった。
「こちらへ来なさい。せっかくこうして会えたことだ、どうせならゆっくり座って話そう」
 抵抗する理由を特に思いつかない。サイガは言われるままソファに戻り、黒猫が居座る位置の正面に座った。
 近い距離で見たその猫は左右で目の色が違っていた。しかも片目にはレンズが一枚しかない眼鏡のようなものを掛けている。銀縁に囲われた青色の目は底の知れない海を連想させた。
「ひとつ確認させてもらえるかな。君は今置かれている状況について、アッシュから何と聞いている?」
 黄色の目はこちらに照射されたサーチライトのように見える。
 正直に答えた方が良さそうな雰囲気はサイガにも感じられたが、いざ答えようとして、非常に気まずい事実を認識してしまった。
「えーと、あのクソ野郎がまたやってくれたっていうのと……ここで待ってろ、危ないから絶対外に出るなっていうのと……」
「ふむ。それと?」
「……めちゃくちゃ怒られた。こんなことになったのは俺のせいだって」
 詰め寄るアッシュの剣幕を思い出しただけで、サイガの視線は横にそれた。
 首の動きに連動して太い鎖がさらさらと鳴った。
「なるほど。他には?」
「他には……」
 何も思い浮かばない。アッシュは外出禁止を申し渡すと、すぐにこの部屋を出て行ったはずだった。
「そうだったか。部下が失礼な振る舞いをしたようで、申し訳なかった」
 黒猫が尻尾をゆっくりと揺らした。
「では彼女が飛ばしてしまった話を私から伝えよう。心して聞いてくれ。……ここは冥府。現世において死を迎えた者が集められ、来世、つまり次に生きていく場所を決定する場所だ」
「死を、迎え……え?」
「我々は『死神』と呼ばれるとおり、肉体が滅びたのちに残る魂をここへ招き、死者を生者から引き離すことを生業としている。しかし、君の場合は少し事情が異なる。胸元を見てごらん」
 丸みを帯びた前肢がサイガへ向けられた。
 言われるまま視線を落とせば、そこには首に巻かれた鎖の余りが垂れ下がっている。
「それは今ここに在る君の魂と、現世に残された君の肉体を結んでいる。我々の定義で言えば、まだ死んではいない」
「マジかよ」
 サイガは鎖の端を掴んだ。
 連なる輪が擦れ合っては心地よい音を立てる鎖は、触れると意外に温かかった。しかも一見途切れている先端にも何かがつながっている感触があった。見えない鎖がどこまでも続いているのだろうか。
「結びつきが切れない限り、君には現世に戻って生き続けられる可能性がある。しかし『それを伝って現世に戻れる』という状況は同時に危険をはらんでもいる。何故ならそれには君を導く力はあっても、君の占有を保証する仕組みがないからだ」
「それは……何かヤバいってこと? なのか……?」
「ふむ、少々分かりにくかったかな。では具体的な話をしようか」
 黒猫の尻尾が怪しく揺れている。
「例えばその鎖を何者かに奪われたとしよう。君が見ていた窓の外には審査を待つ死者が大勢いる。その内の誰かが君の鎖を手に入れ、その連なりをたどって現世まで戻っていったとしたら……」
「……そしたら?」
「現世にある君の肉体が見ず知らずの他人に乗っ取られることになる」
「冗談じゃねえ!」
 サイガは鎖を隠すように両腕で覆った。
 黒猫の耳が一瞬だけぴんと立ち、それから少しずつ下がった。
「恐らく彼女はそれを案じて外へ出ることを禁じたのだろう。この部屋は冥府に所属する者の身分証がなければ入れない。他よりはいくらか安全な場所だ」
「そういう意味の『危ない』だったのか……」
「あの子が心配しそうな危険なら他にもある。死を受け入れられず現世へ戻りたい者にとって君は羨望や恨みの対象になり得る。生前の悪行をなんとも思わない者はここでも同じように振る舞う。中には戦争を続けたがる者までいると聞く」
「どんだけ物騒なんだよ!?」
 窓から顔をのぞかせたところをそんな奴に見られていたら。
 サイガは自分が取った行動の危うさに気づき、そっとカーテンがある方へ視線を向けかけた。しかしその直後に別の恐ろしい問題を思い出してしまった。
「そうだ、それより、アッシュは」
 再会した彼女は傷を負っていた。少なくともサイガにはそう見えた。
 死神が自分たち人間とどう違うかなど彼は全く知らないし、あれこれ想像を巡らせる余裕もなかった。しかし「分からない」まま放置する気にもなれなかった。
「あいつ大丈夫なのか。今どこに」
「おっと。落ち着きたまえ」
 急に前のめりになったサイガに驚いたのか、黒猫が目を見開いた。白いヒゲが顔を守るように広がった。
「今は別室で休ませている。確かに消耗はしていたが、しばらく待てば癒える」
「じゃあ……ケガは、たいしたことなかったんだな」
「我々が負うダメージは君が思い浮かべる肉体の損傷とは少し性質が異なるのだよ。ああ、深く考えなくていい。つまり相応の治療はしたということだ」
 黒猫の顔はやはり笑っているように見える。
 瞳孔を細めた目が不気味な炎に見える。
「報告によれば、君を連れ出そうとした連中を追い返してここに戻るまでの間に、何度か戦闘があったようだ。彼女は自分の職務に忠実で責任感が強い。君が受けたという叱責も君を案じてのことと思うがね」
 行く手を遮る敵に立ち向かう少女の姿を思う。
 正面切ってにらみつけられた場面を思う。
「落ち着いたらもう一度ここに顔を出すよう伝えておこう。無事であると直接確かめられた方が君にとっても良いだろうから」
「いや、そこまでは……」
 サイガはとっさに断ってしまった。
 それは儀礼的な遠慮ではなく、得体の知れない不安から出た言葉だった。