[ Chapter21「そして契約は始まった」 - E ]

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 体感で数十分後。
 一真は横たわるウィルの腹から両手を離し、そっと床に置いた。
「異常なし」
 口にした内容の割に表情は暗い。後輩が上半身を起こそうとすると、全く喜んでいない目で付け足した。
「ここもお前さんも、そろそろ潮時なんだろうな」
 聞き返す言葉は届いてくれなかった。
 マットレスに背を向けた一真は部屋の隅までのそのそと移動し、暗がりの内から何かを投げた。それはウィルの手元に落とそうとしていたようだがそこまでは届かず、ウィルが身を乗り出してようやく掴むことができた。
 黒のフード付きコートだった。
 空気も陽気も冬を脱ぎ捨てようという時期なのに、それは素材も構造も明らかに冬物だった。
「何これって顔だな。いいから着ろ。この時間は結構肌寒いんだ」
 言いながら一真が袖を通した上着は、言葉通りの寒さに耐えられそうにない薄手のものだった。
 本人にとってはそれで充分なのか、他に持ち合わせがないのか、あるいは。ウィルはいくつか仮説を立ててみたが、答えを知る意味はないと気づき、黙ってコートを着込んだ。
「俺がいいって言うまで勝手な行動はするなよ。お前さんは自分の直感に頼り過ぎるところがあるし。言われたことない?」
 ランタンが玄関を照らした。土間には履き古されたスニーカーが二足並んでいた。
 背中にバッグを担いだ一真が一回り大きい方の靴に片足を突っ込み、それから振り向いてウィルに手招きした。
「ホストファミリーに買ってもらった靴よりは小さく見えるんだろうな。でも大丈夫、今のお前さんにはこれがベストなはずだから」
 言われるまま履いた靴は確かに両足が過不足なく収まるものだった。ウィルが靴紐を結ぶ姿勢から顔を上げると、一真が手に持っている板状の物体が目にとまった。
「それは?」
「今からお前さんに装着してもらうアイテムだ」
 ウィルが足下を整えて立ち上がった直後、その「アイテム」が視界を奪った。
 何が起きたかを理解するまでの間に扉が開き、手を引かれた。「行こうか」の一言と背中を押す手にも促され、ウィルは数日ぶりに部屋の外へ連れ出された。
 首筋に触れる空気が肌寒い。
 一歩一歩に硬い感触がついてくる。
 しばらく歩いた頃に一時停止を指示された。従うと、床から機械の振動音が聞こえてきた。次の言葉を待たなくても、そこにエレベーターがあると察した。
「悪いな。さっきの部屋は借り物で、誰にも場所をバラさないのが使わせてもらう条件の一つだったんだ」
 老朽化しているらしいエレベーターで下の階へ移動し、さらに短い階段を降りたところで、頬に浴びる風が強まった。建物の外へ出たらしい。
 ウィルは頭にフードをかぶせられ、周囲の音が聞き取りづらくなった状態で歩かされた。それでも前方から誰かが近づいてきたことは気配で分かった。
 誰かが声を発しようとした息づかいを、薄い紙の擦れる音が遮った。
「今は何も言うな。後で必ず返す」
 手を引く力が強まった。ウィルはよろけそうになり、踏み出す一歩を広げて体勢を立て直した。すると隣を歩く一真がどんどん早足になった。より強くウィルの手を握ってくる手を通し、すぐにでも走り出したいという本音が伝わってきた。
 できるだけ速く、しかも目隠しをした後輩が転ばないように。葛藤を共有した二人は歩調を合わせ、緩やかなカーブを描く下り坂を駆け下りた。
「止まれ。車道に出る」
 傾斜が緩やかになった頃、前方に引かれ続けていた手がいきなり後方へ引っ張り戻された。直後にウィルは車の急ブレーキの音を至近距離で聞いた。
 車のドアが開く音もまた、彼らのすぐ目の前から聞こえた。
 次の行動について指示はなかった。その代わり一真の両腕がウィルの脇下を支え、布張りのシートに座らせた。
 二人を乗せた車が急発進した。
 ウィルには自分の正面はもちろん、置かれた状況も分からない。
「まだ顔のそれは取るなよ」
 一真の声はなんとか聞き取れたが、聞こえなくても同じことだった。
 発車して数秒でシートから滑り落ちたウィルは、その場で両手足が届く範囲を探り、ドア内側の手すりを掴んだ。体を起こしてシートに座り直しても一息つけない。縮んだ肉体は急ブレーキと急加速の繰り返しで何度も揺さぶられ、勢いのある旋回に振り回された。
 そして前のシートの背もたれに顔がぶつかった瞬間、まぶたを覆っていたものが弾かれて床に落ちた。
 反動でのけぞると、上を向いた目に光が殺到した。
「おい、今結構痛そうな音したけど大丈夫か?」
 車が一時停止した。ウィルは明るさを頼りに窓の後ろへ手を伸ばし、半分隠れていたシートベルトを引っ張り出して、ようやく安全を確保した。
 座り直すとき手を貸してくれた一真の顔がよく見えない。オレンジ色の光線が割り込んで邪魔をしてくる。
 歩行者用の信号が赤に変わった。
 窓の外から呼びかけてくる誰かの姿が一瞬で消えた。
 並走する車が次々と後れを取り、追い抜かれていった。
「……今、そこにいたのは」
「確かに天使だった。あれは本物だ。だから事情伝えて通報は待ってもらった」
 車は幅の広い道路を直進している。運転席を占める人物の姿は背もたれを囲うパネルに遮られてよく見えない。その隣は空席で、ダッシュボード上の機械がよく見えた。
 一真はしきりに後方を気にしている。その手には折り畳まれた紙の束が握られていた。表面に記された蛍光色の文字をウィルが読み取れたのは、車がホームセンターの建物の影に入ったときだった。
「誓約……?」
「俺がこれから何するつもりかを中に書いた。上が理解しなくても、現場の奴らに伝わってくれれば、必要な時間は稼げる。……あ、その先の角で止めてくれ」
 運転席から返事はなかった。代わりにすぐ減速が始まり、ちょうど一真が指し示した曲がり角の手前で、大きな揺れを起こすことなく停車した。
 車のドアが開き、まずウィルが促されて外へ出た。一真は運転手に小さな袋を手渡してから降車し、同胞の方を押して歩道に進ませた。再び目隠しを求めることはなかった。
 ありふれた塗装のタクシーが走り去った。
 街並みの先に浮かぶ雲は赤色に彩られていた。
(日が……沈んでいる?)
『そういやあそこを出るときは朝だったな』
 先ほどのように手を引かれたウィルは、そのつながりを通して一真の心を直接聴いた。顔は深刻なのに語りはどこか楽しげだった。
『あれはそういう場所なんだ。外とは違う時間が流れている。傷の修復とは相性がいい』
(そんなものをどうやって見つけた? 結界は扱えないはずでは)
『借りたんだよ。……おっと、今度はどこの連中だ?』
 二人が曲がり角に入る直前、ウィルは対面方向を歩いてくる男女の二人組に気づいた。互いに相手の顔を認識した瞬間、女の方が目を見開いた。
 駆け寄ってくる女に一真は動じなかった。
 ウィルは同胞の手を引っ張り返した。
(あれは警察の人間だ。その嘆願書は通用しない)
『貴重な情報をどうも』
 一真がウィルの手を強く握り、数秒してから放り出すように離した。
 短髪の女――稲瀬には明確な用事があるようだった。若干前のめりの姿勢で突っ込んできたかと思えば、迷わず一真の前をふさいだ。
「あなた、草薙一真ね。ちょっとお話聞かせてもらえる?」
「その名前はどなたからうかがったのかな?」
 静かな言葉の鍔迫り合いが始まった。
 ウィルは足音を立てずに後ずさりをして、先輩の背中と距離を置いてから、曲がり角の先へとつま先を向けた。託された情報を握りしめて一人走り出したとき、背後で誰かが叫んだような気がしたが、聞き返そうとも振り向こうとも思わなかった。