[ Chapter21「そして契約は始まった」 - G ]

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 学年のカリキュラムの締めくくりは修了式と呼ばれる。
 まりあはその日を冴えない顔で迎えた。授業がない分だけ時間数の増える部活に加え、調べ物と人捜しも連日進めていたため、余計に疲労と寝不足を抱えていた。
 重孝の同居人は未だ見つかっていない。
 怪人にまつわる謎は解けていない。
 新入生歓迎会の練習に集中できず、部活の仲間からは心配の声がやまない。
(今日の聞き込みで、せめて何かの糸口を掴めたらよいのですが)
 朝の教室はいつも通りに騒がしかった。
 しかし始業のチャイムが鳴ろうかという頃に、いつもとは違うざわめきを耳にして、まりあは顔を上げた。そして眠気を忘れた。
 黒板の前にサイガがいた。
 大丈夫か、というような声を聞いた。数名の男子生徒に囲まれる姿をよく見ると、学ランの黒の上に白い何かが重なっていた。
「えっ何あれ、骨折?」
「自転車に乗ってて転んだんだって」
 彼と一緒に登校してきたらしい幹子が友達に説明していた。そこから話が広がることはなく、会話の続きはすぐ雑談の中に溶けた。
 程なく根本先生が教室に現れ、教卓周辺をうろついていた生徒たちは席に着いた。まりあは右腕を三角巾で吊ったサイガを直視し、また彼の顔もはっきり見た。
 寒気がするほど冷たい目で見られた気がした。
「それでは〜、ホームルーム始めますね〜」
 間延びした声が最後列の席まで届いた頃には、既にその視線はそれていた。
 教卓前に見慣れた背中が並ぶさまをぼんやり眺めながら、まりあは恐怖を感じた理由を考えた。単に機嫌が悪かったのか。直接関わったときは誠実に接してくれたが、実は今見た方が素の彼なのか。他にも仮定が浮かんでは消え、結局「気のせい」に落ち着いた。
 しかし結論はホームルームの後に覆った。修了式が行われる体育館へ皆で移動する途中、下り階段の踊り場を見て、埋もれていた記憶が意識の表に転がり出てきたのだ。
『ちょっと、これ、やばくない!?』
『どうしよう、せ、先生! 大変です! 西原くんが……!』
 それは、まりあがこの学校に転入した直後、ちょうどその場所で遭遇した騒ぎだった。廊下を走っていたサイガが階段から転落した事故。誰かに助け起こされた後、階段手前で目撃していたまりあたちを見上げた、そのときの顔がまさに先ほどと同じだった。
 しかし、半年以上前のことをどうして今更連想したのか。
 不機嫌な顔なら他の場面でも見かけていそうなのに。
(そういえば、あの事故の後に、初めて西原くんと話したはず……そのときは、あんな顔はしていませんでした)
 体育館へ入っていく集団の中に目立つ赤銅色の頭は見当たらない。
 気がかりは脇に置いてこの後の部活を心配しよう。そう考え直して前を向いた直後、前を歩く生徒の足につまずき、体が前に傾いた。
 転んでしまう。
 思ったときにはとっさに手が動き、隣にいた生徒の腕を掴んでしまった。
「あっ、ごめんなさい!」
 体勢を立て直す間に、耳の熱さと頭の冷たさを同時に感じた。
 慌てて手を離したまりあは、一瞬だけ支えにしてしまった生徒に改めて謝った。しかし怒りや抗議を受けるどころか、その相手にも周囲の友達にも、体調を心配されるばかりだった。

 修了式の後に卒業式の準備と予行演習があり、昼過ぎからは部活が入った。まりあはいつもより忙しく動き回り、下校時刻を迎える頃にはさらに重い疲れを背負っていた。
 正門をくぐるときには思考さえ止まっていた。
 学校の敷地を囲む歩道を歩く間に、目も頭も揺れ動いて止まらなくなった。
 前方に近づいてきたバス停の表記を読み取った瞬間、頭が真っ白になった。
(そうでした、忘れていました、今日の聞き込み!)
 はっとした頭で改めて前を見ると、重孝がバス停横のベンチを堂々と占拠していた。白い装丁の本を不動の姿勢で読み続ける姿は青銅の彫刻のようで、何度見てもどこから見ても背景に溶け込んでいた。
「申し訳ありません、柳さん。お待たせしました」
 まりあが声をかけると、重孝はすぐに顔を上げ、本を閉じて立ち上がった。その背後に滑り込むようにしてバスが止まった。
 彼は制服姿だった。帰宅部なので私服に着替え直す時間はたっぷりあったはずだが、そうしなかったらしい。家に帰らず学校のどこかで暇を潰していたのかもしれない。
「このバス、駅前まで行くようです。乗りましょう」
 二人は他の乗客に続いてバスに乗車した。後方の座席にいくつか空きがあり、横に並んで座ることができた。
 目的地は駅前広場の近くにある。それは二人が遠い過去と最近の情報を読み込むうちに掴んだ、貴重な手がかりだった。
『実は私、怪人ルシファーに、会いました。先月の半ば頃に』
 まりあが贈り物を抱えて道に迷った日、突然姿を見せた仮面の男は、古い建物に囲まれた駐車場にたたずんでいた。
 どうしてそんなところにいたのか。ふと湧いた疑問のために地図を広げ、記憶の断片を頼りにその場所を探してみると、行き着いた番地には既に書き込みがあった。
 それは、ちょうど二十年前の三月、ある不可解な事故が起きた現場だった。
 解体予定の古いビルが突然崩れ、中にいた大学生二名が重傷を負った。公の記録では原因不明のまま、報道では建物の老朽化を理由に単なる事故と結論づけていた。
 一方、当時のミステリー研究会は「浮遊する光を見た」などのおかしな証言を得たとして独自に取材を進めていた。名前非公表の被害者が季花高校の卒業生であることを突き止めた彼らは直接連絡を試みたが、本人たちは事故について語りたがらなかったという。
 結局その事故と怪奇現象との関連性は解明できなかった。それでも資料を捨てなかったのは、大きな未練と後輩たちへの希望があったからだろうか。
「あ、次、降ります」
 鉄道の駅に面したロータリーで二人はバスを降りた。
 まりあが書き込みだらけの地図を手に歩き出し、すぐ後ろを重孝がついてくる。落ち合ってから一切会話をしていないが、寂しさも気まずさもない。
 同じ場所に沼田と来たときは終始相手のペースだった。サイガと待ち合わせたときには変な緊張感があった。今度はどちらでもないし、そういえば誰からも冷やかされていない気がする。
 不思議な気分を胸に歩くこと数分。二人は飲食店やオフィスが入る建物の前で足を止めた。事前に調べた情報と一致する名前は、テナント名が並ぶ看板の一番下に記されていた。
《B1 BAR UNDERWORLD》
 同じロゴが建物の入口脇の階段にも掲げられていた。営業時間まではまだ間があった。
 二人は顔を見合わせてから、やや傾斜のきつい階段を慎重に降りた。その先に現れた扉には《CLOSE》と刻まれた札がかかっていたが、まりあがノックした後にドアノブを引いてみると、鍵に阻まれることなく開いた。
「いらっしゃい。……おや、珍しいお客さんだ」
 静かな店内の中央にはシックなカウンターと無数のボトル。その奥で何かの作業をしていた面長の男が二人を見て微笑んだ。まりあが冬休みにスキー場で知り合ったサイガの知人、柏木だった。
「もしかしてサイガくんをお探しかな。残念ながら今日はまだ来てないよ」
「え……」
 まりあは「ここに来るのですか」と言いかけて、急いで舌を引っ込めた。級友の知られざる一面も気になるが、今はそれどころではない。
「……えっと、今日は、柏木さんにうかがいたいことがあって、ここに来ました」
「うん?」
「この近くで二十年前に起きたビルの崩落事故についてです」
 柏木の手が止まった。
 まりあは重孝と共に店内へ入り、後ろ手でそっと扉を閉めてから、続きを切り出した。
「あなたと、あなたの同級生の西原陽介さんが、その事故に巻き込まれて大けがをされたとうかがいました。当時のことについて詳しく教えていただけませんか」
「これはまた唐突な。いったいどうして?」
「私は先月、その事故が起きた場所で、怪人ルシファーに会いました」
 柏木の眉が大きく上下に動いた。
 まりあは半歩前に踏み出していた。
「私たちはあのひとの行方を本気で捜しています。聞きたいことがあるからです。どうしてあの場所にいて、何をしようとしたのかがわかれば、手がかりになるかもしれません。そのために、事故のことをきちんと知りたいのです」
 あまり広くはないバーの店内に沈黙が満ちた。
 しばらくして、柏木が手にしていた道具を置き、片手でカウンターを示した。
「立ち話も何だし、どうぞ、ここに座って。今なら他には誰も来ないだろうから」
 後輩への呼びかけは優しかったが、その顔に笑みはなかった。