[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - A ]

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 壁が跡形もなく崩れ去っている。
 それなのに部屋の外の様子は何も分からない。
 色も質感も全く異なる新たな壁が、サイガの前に現れていた。
「見とれてないで早く!!」
 金の鎖を引っ張られた。全身に静電気を浴びたような痛みがサイガを我に返らせ、同時に立ち上がらせた。
 鎖の先端を力ずくで奪い返してから振り向くと、アッシュが扉を開けて手招きしていた。また引っ張るわよ、と予告するジェスチャーにも見えた。
(なんか今日のアッシュ怖くねえ? っていうかそこにドアあったか? いつの間に!?)
 次々とわく疑問を整理する暇もない。求められるままサイガは扉をくぐって部屋を飛び出した。
 開けた空間が下の方へ続いていた。階段を駆け下りたのか転げ落ちたのか、一気に飛び降りてしまったのか、とにかく急激に周囲の様子が変わった。
 まず、騒がしい。
 石を敷き詰めた平面が広がっている。
 その上を無数の足が行き交っている。
(……人?)
 サイガは顔を上げた。自分がいつの間にかうつぶせで倒れていたことに気づくと、跳ねるように起きてから四方を見た。
 そこは幅の広い道路の真ん中で、大勢の人間が両側を往来していた。その密度とざわめきはニュースで見る神社仏閣の初詣を思わせるが、個々の服装や背格好はそれと比較にならないほど多様だったし、聞こえてくるのも日本語だけではなかった。
 彼らに共通点があるとすれば、その顔に生気を感じられないことくらいだろうか。
(みんな目が死んでる……あ、そうか、死んでるのか)
 ここは冥府、と言われたことを遅れて思い出した。
 彼が状況を呑み込む間に、数名の死者たちが立ち止まり、しばし振り向いてから歩き去った。道ばたで野良犬を見かけたときのような反応だった。
 ところが。
「捕まえろ! そいつは×××だ!!」
 どこからか聞こえた声が、より多くの死者たちの足を止めた。言葉の後半の単語はサイガの耳に馴染まない響きだったが、聞き取れた者にとっては魅力的な誘いだったらしい。今度は珍獣を見つけたような視線が集まってきた。
 とりあえず良い話ではない気がする。
 直感に従ってサイガは駆け出した。土地勘も行く当ても全くない場面でできる行動といえば、叫んだ誰かから遠ざかることくらいだった。
 一歩ごとに金色の鎖がガチャガチャと鳴った。
 うっとうしく思ったサイガがそれを学ランの内側に押し込めても、変わらずざわざわと騒がしいままだった。
「おい小僧、どこ見て走ってる!」
「すいません! ……ちょっ、危ねえ! 通してくれ!」
 行き交う人々の間をすり抜け、横から割り込む足をかわし、時にはぶつかった。怒号や悲鳴の種類も様々だった。
"Что случилось? "
"Er hat einen riesigen Schatz. "
"Rigardu! Balenoj flugas en la ĉielo!"
 目の前を通り過ぎる色も様々だ。舞台衣装のような装束を見せつけるように歩く者もいれば、ボロ布同然の服の裾を引きずる者もいる。作業着の集団にぶかぶかのリクルートスーツ、スポーツウェアや軍服のようなもの、どこかの宗教の祭服もいれば重そうな鎧も全裸も。統一感がまるでない。
「見ろ、行ったぞ、神の鎖だ! 蜘蛛の糸だ! 生き返りたい奴はぐばあ」
「悪質なデマ流すのやめてくれる!?」
 怒りに震える死神の声が上から降ってきた。
 道の両側には全く同じ外観の建物ばかりが並んでいる。先ほどまでいた部屋から見下ろした屋根だろうか。走りつつその一つを見上げたサイガは、アッシュが長い棒状の武器を振るって誰かを叩き落とす瞬間を目撃した。
 落下した人物がどうなったかは人混みに阻まれて確認できなかったが、直前の一言の影響は嫌になるほどよく分かった。気づけば道の上にいる死者たちの多くがサイガに顔を向けている。通行人が次々と傍観者に、野次馬に、そして追跡者に変わろうとしていた。
 加速がついた足は急に止まれない。
「どけえええ!!」
 サイガは視線を蹴散らすように叫び、同時に姿勢を低くした。両足を揃えて滑りながら、大柄な誰かの脇をくぐり、包囲網が完成する前に突破した。
 だが一安心とはならない。まだまだ道は続いているし、騒ぎを知った大勢の死者たちが待ち構えていた。
「あなた、自分がどこに向かおうとしているか分かってないでしょう」
 屋根から飛び降りてきたアッシュがサイガの正面に着地した。翻るスカートを押さえつけた片手が軽く揺れると、遅れて降りてきた長いリボンが大きくしなり、群がる死者を四方へ散らした。
 驚きが薄れる前にサイガは手を握られていた。アッシュが駆け出したのに合わせて腕を強く引っ張られると、経験したことのないペースで走らされた。
 周りを囲んでいたものすべてが急速に遠ざかっていく。
「じゃあどこに向かえばいいんだよ!?」
「どこにも」
「はあ?」
 アッシュが跳んだ。
 サイガも釣り上げられる形で飛んだ。
 よく見ると、彼の手を掴んでいたのは死神の手ではなく、彼女が背負うバックパックから生えたロボットハンドだった。玩具のような見た目に反して握力は異様に強かった。
「今のあなたに必要なのは時間稼ぎ。下手に動いたらかえって危ないの」
 二人は直列に並ぶ屋根の一つに着地した。高さのある場所から見渡せる景色もまた、同じものが延々と連なるばかりの地表と暗いばかりの空だった。
 空と建物群の狭間に一頭のクジラがいた。
 他より一段高い建造物にその頭を突っ込んでいた。
「なあ、あれってまさか」
「気にするだけ無駄。それより見なさい、そこに群がる人たちを」
 サイガが問いかけたとき、アッシュは全く違う方向を見ていた。
「私が所属する渡航管理局は、未練を抱えた死者を期限付きで現世へ連れて行って心の整理を促す部署なの。でも希望者に対して引率役の死神が足りないからいつも満員御礼。さっきの場所に集まっていたのはだいたい順番待ちかキャンセル待ちね」
「そんなことやってんのか……」
「審判の前に未練がなくなれば後が楽だし、とりあえず一度こっちへ来ていれば現世で何かやらかしても対処しやすいから、そういうプロセスがあるの。たまに冥府で未練を晴らす人もいるけど。ここに並ぶ家を見なさい、死んでも仕事を手放せなかった人間たちが集まって作った暇潰しの成果よ」
 死神は屋根を伝って端まで進み、隣の屋根へ飛び移った。
 サイガも跳ばされて頭から落ちそうになった。
「こういうのはまだいいけど、もっと厄介なのは死という現実そのものを拒否して逃げ回る人間ね。誰かさんみたいな。その手のわがままを潰すのが私の仕事」
「マジで大変な仕事だな……」
 屋根伝いの移動を続けるうち、サイガの足が徐々にアッシュの動きに追いついていった。建物に挟まれた隙間から下を見る余裕も生まれたが、その結果、路上の死者たちがまだ自分たちを追っていると知ることとなった。
「……さっき未練がどうとか言ってたけど、必死な奴こんなにいるの」
「いるのよ、境遇を問わずいろいろと。だからさっきのような誘いが刺さる。言った方はそこまで考えた上でわざとあおるの」
 道を挟んだ向かいの建物をよじ登る者がいた。
 状況を掴みきれないサイガにも、危機が迫っていることはよく理解できた。
「その辺をうろついているのはほとんどが審判待ちの死者だけど、たまにいるのよね。さっきの余計な一言みたいに妙なことをかぎつけてくる事情通気取りの悪魔とか、性根が曲がりすぎてここに来ておとなしくできなくなった人間とか!」
 アッシュが姿勢を低く取ってから振り返り、手にしたリボンを大きく振るった。
 とっさに伏せたサイガの頭上をかすめたリボンは、彼の頭上に迫っていたカラスたちをまとめて叩き、屋根からはじき飛ばした。
 呪いのような鳴き声がサイガをすくませた。しかし腕を引っ張る力の方が強く、一瞬たりとも立ち止まることはできなかった。