[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - B ]

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 照らすものがない空の下にいながら、飛び回るカラスの群れがはっきりと認識できる。
 おかしな状態になる理由、そもそも鳥が襲ってくる理由、どちらもサイガの知力で答えを導けるような話ではない。まして今は逃げ続ける、もといアッシュについていくのが精一杯で、疑問を抱く余裕もなかった。
「こんなのアリかよ!?」
「アリなんでしょうね。死者には生物学上の分類なんてあまり関係ないから。私たちにとってもせいぜい『寿命が短いほど審判も早い』くらいしか違わないし」
 死神の返答は事務的な説明に聞こえるものだった。
 目の前の問題に集中しているのだろう。斜め上からの攻撃を避ける彼女の動きにも、屋根から落ちかかったサイガをすくい上げるロボットハンドの動きにも、無駄がなかった。
「でもこうなったことで少なくとも誰があおるように仕向けたかは見当がついた」
 聞き返す暇はない。
 サイガは片手を引っ張られたまま、残りの手足を使って体勢を立て直し、次の屋根を駆け上がった。アッシュが前方からの妨害を迎え撃つ間に後方へ振り向き、追ってくる人間たちの姿を確かに見た。
 息を詰まらせたように感じてから気づいた。
 無茶な動きを繰り返してきたはずなのに大して疲れていない。
 そもそも呼吸を求める肉体がここにない。
(そういや言ってたな、置いてきたって。だったら今はちょっとくらい無茶しても大丈夫ってことか)
 もう一段詳しい説明の方は思い出せないが、すぐに諦めた。
 前を見るとアッシュがカラスのくちばしをリボンで弾いたところだった。しなやかに揺れる武器は鳥たちの細い足に絡みつき、自由な飛行を封じてみせた。
 ヤジのような鳴き声に全く別種の音が混じった。
 それは屋根の下から近づき、死神の真正面に現れた。
「は? ガキ?」
 小柄な体が高々と飛び上がり、身の丈と変わらない道具を上段に構えた。
 モーターと機構がかみ合う甲高い音が降ってくる。
 派手な色をした顔が興奮に歪んでいる。
「猿!?」
 人間の幼児に近い体格の猿が、両手で持ったチェーンソーを振り下ろした。宙に揺れるリボンを狙ったようだが回転刃に巻き込むことはできず、空振りの一打は屋根に刺さって無数の礫をまき散らした。
 それは少なくともサイガが知っている種類ではなかった。何かの悪夢ではなく実在する生き物だとしても、きっとどこかの大陸の奥地か、大きな動物園あたりに行かなければお目にかかれないだろう。
「誰がここまでやれと命じたのかしらねえ?」
 アッシュが片手を翻すとリボンが彼女の手の内に巻き取られていった。解放されたカラスたちは懸命に羽ばたいて落下を免れたが、そのくちばしをサイガに向けた途端、今度は長い棒に後ろからはたき落とされた。
 慣れた手つきで武器を構えた死神に、名称不明の猿が迫る。
 棒に受け止められたチェーンソーが不穏な音を立てた。
「こんな状況になったけど心配しないで」
 なんでもないことのように語りながら彼女は一歩引いた。表面を削りきらないうちに相手を失ったチェーンソーが再び屋根に突っ込んだ。
 猿が雄叫びを上げた。
 ひるむサイガを無機質な手が引いた。
「次はもっと高く飛ぶから今すぐ覚悟を決めて」
「えっまだ行く?」
「それともあの子と遊んでいたい?」
 選択を迫られる間に、正体不明の猿が一度停止したチェーンソーを器用に再起動させていた。まず実物を知らないサイガにはそれが誰でもできることなのか、それなりの理解力と知識がいる道具なのかも分からない。だがなんとなく察したこともある。
「どう見ても俺の手には負えねえな」
「でしょう? さあ、それを持って」
 振り向いたアッシュが自分の背後を示した。生気のかよわない色をした指はロボットハンドの長く伸びた腕を指していた。
 言われた通りにしたサイガへの次なる指示は方向転換だった。チェーンソーの駆動音が若干変わったことに気づいても、振り向いて何が起きたか確かめようとは思えなかった。
 死神が駆け出す。
 客人も走らされる。
 その先には建物群に挟まれた道路がある。
「せー、のっ!」
 アッシュの声に合わせ、両者の足が同時に屋根を蹴った。
 死者たちが群がる道路を文字通り飛び越える一歩は、死神のバックパックから噴き出す何かに支えられているようだった。
 しかし、二人が着地した向かいの建物の上も安全ではなかった。何頭もの犬が異様に発達した牙をむき出しにしてうなり、獲物を狙うポーズで待ち構えていたのだ。
「待て、これ地球上のどこにいる猛獣なんだ」
「これは冥府の番犬。こっちの事情なんて知らないから、単純にあなたが『ここにいるべきではない存在』だと嗅ぎ取って駆けつけたみたい」
 アッシュが棒を体の正面で斜めに持った。すると高い方の先端が音もなく枝分かれしたかと思えば、棒の側面に大きな弧を描く刃が現れた。
 死神の首刈り鎌。サイガにとっては借りた漫画の中で見た程度の存在、そして彼女と最初に会った日に目撃した武器だった。
 しかし、その刃が炎に包まれた姿は、どちらの記憶でも見たことがなかった。
「少しだけ下がって。あなたに燃え移っても困るし」
 サイガは即座にアームの長さが許すぎりぎりまで距離を取った。
 番犬たちがひるむ様子は確かに目撃した。火を恐れたのか、身内であるはずの死神に武器を向けられたからなのか、何にせよ効果はあったらしい。
 客人に背を向けたまま死神が何か言ったようだった。サイガには意味ある言葉として聞き取れず、しかも途中で遮られた。
 視界いっぱいの巨大な影が目の前を横切った。
 アームを横に強く引っ張られ、踏みとどまれずに屋根の上を転がってから、彼は自分の身に何が起きたかを知った。
 食いちぎられたロボットハンドの破片が転がり跳ね、特徴的な背ビレと強靱そうな尾ビレを持つ体が屋根の向こうへ沈んでいく。死神との距離は必要以上に開いていた。
「今度はサメって……こんなの食っても旨くねえだろ」
 バックパックとのつながりを失ったにもかかわらず、サイガの手を掴むハンドの先端は少しも力を緩めることがなかった。これは外せるのか、まだ動くのか。尋ねようにもアッシュは犬たちを叱って引き下がらせるのに忙しいようだった。
 様子をうかがう間に、先ほどと同じようなカラスの群れが再び急降下してきた。サイガはもう一度転がってくちばしの突撃を避けると、仕方なくアームを持ったまま立ち上がり、それを力任せに振り回して鋭い爪を払いのけた。
 必要なのは時間稼ぎだと聞いた。今は逃げるくらいしかできない。
 アッシュに声もかけず走り出したサイガは、助走をつけて屋根の間を飛び越えた。ここまでの移動を通して学んだタイミングで一度はうまく着地できたが、二度目は足を滑らせ、落下寸前のところで踏みとどまった。そして三度目は踏切に失敗し、まっすぐに落ちた。
 狭い空間への着地は土とも舗装とも違う奇妙な感触を持った。その正体を知ろうともせずに走り出すが、すぐに行く手を阻まれた。
 向かった先には、生気のない目をぎらつかせる人間たち。
 振り向いた道には、座った姿勢からゆっくりと立ち上がる一頭の象。
 サイガの思考に二通りの苦難が同時に浮かんだ。殺到した死者たちに首の鎖をもぎ取られる。突進してきた象に踏み潰される。どちらがマシなどと判断できるものではなかった。
 この状況を一言で表現するフレーズが出てこない。
「こちらへ! 早く!」
 女の声を聞いた直後、アームに掴まれていない方の腕を引かれた。
 突然のことに抵抗が追いつかない。そのままついて行くと、象の真横をすり抜け、建物の中へと誘導された。
 サイガはその人物の後ろ姿を見た。
 相手が振り向いた瞬間、心に浮かんだ名前を自然と口にしていた。
「篠原先生、の……?」