[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - C ]

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「オレンジジュースでいいかな?」
 柏木は未成年の客に尋ねた。カウンター席の二人が顔を見合わせるさまを見ると、少しだけ口元を緩ませた。
「お金は取らないよ。まだ店は開けていないからね」
「えっ、でも」
「せっかく来てくれた人に何も出さないままというのも落ち着かないんだ。僕が。だから遠慮しないで」
「……では、お言葉に甘えます」
 結局うなずいたまりあに、柏木は手際よく用意したジュースを渡した。細身のグラスの縁には薄く輪切りにされたオレンジが差してあった。まりあは思わずため息をつき、それが「美味しそう」よりも「美しい」から出たことに気づいた。
 一方で「水」と答えた重孝には氷水が出された。見慣れない模様つきのグラスに店の照明が反射し、彼の手元に宝石を転がしたように輝いていた。
「さて」
 柏木は本当にそれだけで満足したらしい。再び真剣な顔で二人の正面に立った。まず口にしたのは確認だった。
「確かに昔、この近くで大きな事故があった。それは少し調べれば分かることだろうね。でも当時の報道や記録に僕の名前はないはずだけれど、いったいどこからそんな話を?」
「学校で見つけた資料に、あなたのことが書いてありました。あと写真も」
「ああ……君たち、もしかしてミステリー研究会にいるのかい?」
「いいえ」
 二人が同時に首を横に振った。
 目の動きが固まった柏木に、まりあがおそるおそる尋ねた。
「……ダメですか?」
「いやいや。ちょっと意外だったから驚いただけ」
 カウンターの内側にため息が落ちた。
「あの頃はいろんな人から事情を聞かれたけれど、皆、あれをただの事故として片付けてしまった。『何が起きたのか』を知りたがったのは高校の後輩だけ、多分その資料を作った人たちだろう。でも彼らはただ夢を追っているだけだった」
「夢……」
「でも君たちは現実を追いかけてここまで来た。だから僕もきちんと話そうと思う。……概要は知っているからいいのかな。警察の見解は、老朽化してもろくなった床を僕らが踏んだときに壊れた、悪い偶然が重なった事故というものだった」
 まりあはうなずいた。その通りの話が新聞記事の切り抜きにもあったし、顔も知らない卒業生の取材メモにも残っていた。
「はい、読みました。梁が壊れた時ちょうど中にいたお二人が巻き込まれたと。ですが、そこは取り壊しが決まっていて、立ち入り禁止になっていたとも書かれていました」
「よく気づいたね。その通りだよ。僕と陽介は行ってはいけない場所に行って、その結果重傷を負った。でもそれは『ただの事故』にされた。警察は僕らの侵入をとがめず、捜査もさっさと打ち切った。結局誰も『事実』を知ろうとしなかったよ」
 柏木の語りは落ち着いているように聞こえた。
 その目は曇り空のように沈んでいた。
「罪に問われてもおかしくないことを見逃してもらえたのは、幸運でも優しさでもない。記録に残されたら困ることをうまく消すためだった。それも人間の、個人や組織の都合などではない、途方もない『秘密』のためだった」
 まりあは息を詰まらせかけた。
 重孝は全く物音を立てなかった。
「あのとき、あの場所には、存在してはいけないものがいた。……怪人ルシファー。それも、君たちが見たものとは違う、“本物”の怪異だ」
 柏木は最後の部分を慎重に、苦しそうに、何かを思いながら口にした。その一言に二人が騒ぎ立てない様子を見ると、ようやく少しだけ表情のこわばりを解き、話を続けた。

 ニュータウンに巣くう怪人の噂が初めて生徒たちの間で話題になったのは、柏木たちが大学入試の本番に挑んでいた頃だった。当初のそれはよくある都市伝説の亜流に過ぎず、小学生はまだしも高校生なら決して真に受けない、ただのおかしなネタでしかなかった。
「幸い僕も陽介も無事に合格して、それぞれ別の大学に進んだ。それで、夏休みが終わる頃かな。地元で就職した友達から嫌な話を聞かされた」
 彼らの街で奇妙な事故や変死が相次いでいる。
 多くは事件性なしと判断されたようだが、それで終わらず明るみに出た話には共通項があった。何かにおびえて逃げようとしていた。そうして転落したり自動車事故を起こしたり、あるいは恐怖に固まった顔で事切れたりしていたらしい。
 はじめは安直なこじつけと思っていた柏木だが、その後もニュースなどで故郷の名を耳にすることが何度もあった。原因も結果も知る立場になく、ただ経過のみを人づてに聞く場面が続くうち、彼はそのキーワードと再び巡り会った。
 黄昏の街に現れる怪人。
 道行く人に問いかけ、答えない者を死に追いやる狂人。
 客観的に見たなら無関係な人間があれこれ考える話でも、まして無責任な噂に加えていい話でもない。しかしその時の彼はどうしてか、それが自分のすぐ隣で起きたような不安を覚えた。
 そのことも忘れかけた頃、彼の元に同窓会の知らせが入った。
「卒業して一年、またみんなの顔が見たいって、誰が言い出したんだったかな。それで集まったのが、ちょうど今くらいの時期か。その近くの、今はもうない店でね」
 同窓会には共に受験期を戦った級友のうち半数が集い、その中には柏木と特に親しくしていた二人の男も含まれていた。社交的な陽介が参加することは予想通りだったし事前に聞いてもいたが、問題はもう一人の友人にあった。
 卒業式の日に別れたきり音信不通。進学先も就職先も誰一人知らない。煙のように消えてしまった人物が、招待状もないのにふらりと現れたのだ。
「そのときは風の噂に聞いたとか言っていたね。今となってはそれも本当か怪しいところだけれど」
 最初のうちは皆が同じように懐かしい時間を楽しんでいた。しかしテンションの上がった何人かが悪ふざけを始めた頃、問題の友人が険しい顔をして店を出ていくところを、柏木は偶然目撃してしまった。
 彼が友人の後をつけようとしたら、同じく異変を察した陽介もくっついてきた。宴の中で自分たちに話しかけてこないことを不審に思っていたという。言われてみればその通りで、ついさっき見た表情が余計に気になってきた。
 表に出てすぐ、二人は「待て」と叫ぶ声を耳にした。顔を見合わせる間に誰かの足音が遠ざかっていった。それに惹きつけられるように陽介が駆け出し、柏木も続いた。
「そうして見つけたのが、そう、あのビルだった」
 陽介はビルの入口に駆け込む友人の姿を見たと証言した。その場所に柏木が着いたときには誰もいなかったが、階段を駆け上る音が確かに聞こえた。ついでに怒りなのか悲鳴なのか分からない声もした。
 どうする、と陽介が問い、柏木が様子を見に行くと決めた。逆だったかもしれない。とにかく意見が一致した二人は足音を抑え、絶えず頭上に耳を傾けながら階段を上がった。
 階段と各階の間に壁はなく、転落防止柵を兼ねた手すりだけが空間を仕切っていた。
 どの階も空室ばかりであることは気にならなかった。
 そもそも入口にあった立入禁止の張り紙は気に留めもしなかった。
 慎重に進んでいくと、ある階を前にした踊り場のあたりから急に声が近くなった。誰かが言い争っているらしい。二人はいったん足を止め、声の片方が探していた友人であると確信すると、その階の手前まで階段をゆっくり一歩ずつ上がった。
 柵の向こうに開けっ放しの扉が見えた。声はその奥から聞こえてくるようだった。
 扉の手前まで近づいて中をのぞいたのは二人同時か、あるいは柏木の方が先だったかもしれない。
 そこには二人の人物がいた。
 窓の外から室内を照らす光は近くの街灯だけだろうか。それが逆行となって二人分の影を大きく床に広げ、同時に顔を見づらくしていた。
「今にして思えば、そこで一度止まって様子を見なかった時点で、僕らは彼を心配してはいなかったのかもしれない」
 好奇心に突き動かされ、陽介は、柏木は目をこらした。
 人工の光の下に浮かび上がる仮面を見てしまった。
 不気味な笑顔に立ち向かおうとする友人を、その背に広がるガラス細工のような美しい翼を、見てしまった。