[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - D ]

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「篠原先生、の……?」
 自分の発言を自分で認識してから、サイガは何を思い出したかを悟った。
 年の瀬に巻き込まれた大事件は寒さと恐怖、そして出会った敵の強烈なインパクトを中心に記憶されている。盗まれた遺体が動く人形となって現れ、しかも取り囲まれるなど、二度と味わいたくない体験だった。
 ではその記憶を呼び覚ました目の前の人物は。
「先生、ですか」
 建物の扉を頑張って施錠したらしいその人は若い女だった。薄暗い部屋の中でパステルカラーのカーディガンが輝いて見える。彼女は激しく叩かれる扉がびくともしないことを確かめると、ほっとした様子で振り向いた。
「そうですよね。あなたが私のこと聞くとしたら、先生からですよね」
「は?」
「はじめまして。高峯薫です」
 サイガは言葉をすぐに飲み込めなかった。
 確かに初対面ではある。問題はその後だ。
「たか、みね……ああそうか、先生の婚約者だったっていう……」
「ふふっ、なんだか照れます」
 一段も二段も大きな衝撃が壁を揺さぶった。先ほどの象が体当たりでもしてきたのかもしれない。
 薫と名乗った女は分かりやすく驚いてから、カニ歩きで壁から距離を置いた。その目がついてきてほしそうにしているので、サイガは普通に歩いて彼女について行った。追われている身でわざわざ危険の近くにとどまる理由はなかった。
「まさか、ここもすぐに出ないと潰されるオチしかないってことは」
「そんなことないですよ。さっき警備員さんみたいな人が来て、集まっている人たちを抑えていましたから。きっと大丈夫です」
「ホントかよ……」
 サイガは建物の奥へと歩を進めた。窓の外は怖くて見られなかった。
 犬の遠吠えが聞こえた。屋根の上で離れたアッシュは今も犬たちと対峙しているのだろうか。
(……まあ、時間稼ぎはしてくれてるよな)
 見えないものを追いかけることをやめ、隣に立つ人物に向き直った。
 高峯薫は誰かに殺され、ゾンビと化してサイガの前に現れた。一瞬の隙を突いて逃げたのでその後の出来事は見ていないが、篠原医師が彼女を救出したと後で聞いた。
 あの事件には死神も立ち会っていた。その死神が死者を連れてくる場所が冥府だ。以上の事情を全部足していけば、ここで出会うこと自体に不自然はない。
 だがそれはすべての記憶と仮定が的外れでなければの話だ。
 彼女が本物だと、伝え聞いた話が事実だと、誰も証明してはくれない。
「……それで。さっき、なんで俺を助けてくれたんですか」
「え、だって、象に踏まれそうだったんですよ? 絶対痛いじゃないですか!?」
 大真面目な顔で言われた。
 その顔をどこかで見たことがあるような気がする。サイガは一瞬よぎった感想の由来を考え、テレビに映った生前の写真を思い出した。しかしはっきり覚えていたわけではないし、目の前の彼女はもう表情を崩していた。
「さっき屋根の上を走ってましたよね、アッシュさんと一緒に。あれを見たときは本当にびっくりしました。ここって本当にたくさんの人がいて、知ってる人を見かけることもなかったのに、まさか私を助けてくれた人たちとまた出会うなんて」
「助けた……?」
「あのとき、怖い人たちに捕まっていた私を助けてくれたのは、篠原先生とアッシュさんでした。その後もアッシュさんは私に付き添ってくれて、本当はすぐ冥府に行かないといけないのに、家族と改めてお別れする時間まで作ってくれて……」
 薫の手振りが何を表しているのかサイガには分からない。一応それが喜ばしい意味合いらしいのはうっすらと感じ取れた。
 捕まっていたというのは遺体が盗まれた件のことだろうか。確かにアッシュは一緒に「事件」の現場へ行って、サイガが逃げたときにはまさに薫の動きを抑えていたはずだ。その後にゾンビたちを制圧して遺体を取り返していたとしても不思議はない。
 しかし、話はそれで終わらないらしい。
「びっくりしたといえば、あのときもすごく驚いたなあ。先生、最初はあなたの姿を借りていたじゃないですか。急に知らない人に連れ出されて、いきなり『迎えに来た』なんて」
 ますます分からない。
 彼女がおかしそうに笑う理由もサイガには分からない。
「……あれ? 聞いてませんか?」
 相槌さえも打てない聞き手の様子にようやく気づいたのか、薫が小首をかしげた。
「今の話はマジで今初めて知りました。俺が聞いてたのは先生が事件を解決したっていう超ざっくりした話だけで」
 思い返せば多分そんな感じだった。しかも篠原本人の言葉よりテレビ経由の情報の方が多いくらいだ。
 サイガが崩れかけの記憶をなんとか拾って説明すると、少し悩む仕草と共に質問が返ってきた。
「え、でも、あなた先生に血を分けてあげてますよね?」
「なんでそのことを」
「先生が言ってました。あなたに助けてもらったから駆けつけられたって。……先生が吸血鬼だということは、知ってますよね?」
「あー、はい、それだけは」
 記憶にある。これまたざっくりした話しか覚えていないが。
「そう……じゃあさっきの話は言わない方がよかったのかな」
「いや今さら秘密っぽく言われても遅いんで全部教えてください」
 両手で口を覆う薫に、サイガは片手を振って無意味だと訴えた。
 同時に意識の片隅を篠原の姿がよぎった。たとえ本人が秘密にしてほしいことだったとしても、暴露したのが彼女だと聞いたら許してしまいそうな気がした。
「わかりました」
 話すと決めたらしい彼女は何故か得意げにも見えた。
「実は、先生の特技は変身なんです」
「変身」
「血の味を覚えた相手の姿をコピーできるんですって」
「コピー」
「すごいんですよ。顔や声だけじゃなくて、しゃべり方や走り方までガラッと変わるんだから」
「すげえ……」
 サイガは無意識に単語を復唱していた。
 先ほど引っかかりを覚えた言葉の断片が不安定に揺れる。
 自分の姿を借りて、のくだりについての話だろう。それはどんな場面だったか。
『そこに、あなたの目の前に、私の上着があるはずです。私が皆さんの注意を引きます。その間にそれを着て、すぐに逃げてください』
 冷たい夜の団地から逃げ出す前、篠原と話したことは覚えている。
 そういえばあの場では顔を合わさないまま声だけを聞いた。そのとき階段の上にいたのは本当に自分が知っている篠原皓一カだったのか。
『動き出したら、決して立ち止まってはいけません。後ろを振り返ってもいけない。坂の下で祐子さんが待っています、それまでは逃げ切ることに集中してください』
 具体的な指示を出されていたことはしっかりと思い出せた。そのとき階段の上から見える景色はどんなものだったのか。
 仮説が加速する。
 推理が波に乗る。
(……篠原先生が、俺のふりをして、あの連中の注意をそらした……?)
 団地を囲んでいた暗闇に心が吸い込まれる。
 古い建物の間に怒声と足音の雪崩が響く。
 追ってくる男たちを引きつけるように絶妙な距離を保ちながら走っているのは。迫る手を払いのけ、蹴散らしているのは。
「……あっ、私ばかり話してしまって、ごめんなさい」
 薫が両手を合わせた。
 サイガは彼女がずっとしゃべり続けていたことに気づいた。その内容は途中から全く記憶できていないが、謝っているのに頬が緩んでいるのを見ただけで、どんな方向の話だったのかは想像がついた。
 春の花のように笑う姿を見ただけで、赤の他人にも分かってしまう。
(本当に好きだったんだろうな。先生も、この人も、お互いに)
 きっと語りたいことはもっとたくさんあるだろう。しかし続きが始まることはなく、その笑顔は一瞬の硬直の後に引いていった。
 サイガは薫の視線を追って振り向いた。
 壁に亀裂が入る音と、事態を察した女の悲鳴を、同時に聞いた。
「逃げろ!」
 反射的にサイガも声を上げていた。
 気持ちとは裏腹に、その足は少しも動き出せなかった。