[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - E ]

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 逃げ出せない二人の前で壁が壊れた。崩れるのではなく、梁と柱に沿った亀裂が壁全体を切り取るように広がり、一枚のまま倒れかかってきた。
 壁があった場所には大型犬ぐらいの大きさの生物がいた。全身が硬い殻に覆われた姿で、とがった頭と長い触角をサイガたちに向けている。それが何なのか知りたくもないし、できれば関わり合いにもなりたくないが、言ったところで誰も聞き入れはしないだろう。
「逃げろ。いや、逃げてください」
 サイガは隔てのなくなった室外に向き直った。
「え、あなたもでは」
「いいから先に行ってください」
 戸惑う薫の一声には首を振らず、彼女より前に出た。そして手首からぶら下がったままのロボットハンドを両手で持った。
 名前も知らない生物が突進してきた。
 サイガの右手が壊れたアームをしならせ、乱入者の胴を叩いた。彼自身はその間に真横へ動いて体当たりの軌道から逃れていた。
「今度会ったときは、ノロケでも何でも聞きます。だから今は、早く!」
「わかりました。あの、篠原先生に会うことがあったら、伝えてくれませんか」
 それから薫が続けて発した言葉を、サイガは確かに聞き取った。
 続けざまの突進から逃げながら彼女の行動は追えない。大きくうなずいて意思を伝えはしたが、それが届いたかももちろん確かめられなかった。
 つい笑いそうになったのを隠せていたかどうかも、彼女にしか分からないだろう。
(あー畜生、早く帰りてえな!)
 叫びたい衝動を気合いに変え、室内になだれ込む集団の間をすり抜けて外へ出た。後退や回れ右は考えられなかった。一度だけ毛むくじゃらの何かと正面衝突しそうになり、よけるついでに肘鉄で突き放した。
 突進した塊がぶつかり合い派手に崩れる衝撃を背中で感じた。一瞬気を取られそうになったが、前方に立ちはだかった別の集団がよそ見を妨げた。今度は人間の群れだった。
「おとなしくその首差し出せェ!」
「ええモン持ってるって聞いたで。ここで置いていき」
 聞こえる声は獣の唸りと大差ない。
 サイガは相手にしないことで彼らに答えた。後方からも破壊と突撃の足音が迫る中、大人たちのすごみ方はかえって半端にさえ感じられた。
 追いすがる前肢をアームで叩く。
 掴みかかる妄執をステップでかわす。
 こうしたいと思ったわけでもないのに全身が軽々と動いていた。長年の練習で染みついた泳ぎのフォームのように。しかしこんな立ち回りをどこかで教わった覚えは全くない。
 ついでに言えば、大型の動物を相手に戦ったこともないはずだ。
(これ本当は全部夢だったりしてな)
 安っぽい挑発は雑音と大差ない。
 サイガは捕まらないことだけを意識して走った。風を切る感触には暖かさも冷たさもなく、進む道には終わりがなかった。
 飛びかかる蹄(ひづめ)が別の獣を蹴散らす。
 降りかかる鼻息が競合相手を吹き飛ばす。
 そこに統率も連携もないことはリーダーの経験がないサイガにもなんとなく分かった。目的が同じかどうかも怪しいが、掘り下げて確かめるほどの興味はない。
 だから引き続き走った。
 その矢先に棒状の影が彼の前を横切った。急減速してから少し横に着地をずらし、道の脇に砕け散ったガラスのような破片を見つけた直後、片足が柔らかい物体を踏んだ。
 表現しがたい配色と形状の軟体動物が靴の下で震えていた。
 目と呼べそうな器官が見当たらないのに目が合った気がした。
(こんなリアルに気持ち悪い夢いらねえから!)
 靴にまとわりつく謎の生物を振り落とそうとする間に、サイガは追いついた人間たちに囲まれていた。
 殺到する手をとっさに踏みつけた。
 死者の群れを蹴散らし駆け上がった。
 違う誰かの悲鳴を聞いたのはその途中だったか。顔を上げると、先ほどロボットハンドを食いちぎったあのサメとよく似た大口が、まっすぐサイガに向けて突っ込んでくるところだった。
 呑み込まれることも、噛み裂かれることも、覚悟した。
 何故か怖いとは感じなかった。
(逃げるだけじゃダメだ。きりがない)
 次の一歩を踏み切る。
 牙の隊列が迫り来る。
 それが止まって見えた瞬間、サイガは間違いなく思考を止めていた。自分の片手が何かを掴んだことに気づいたときには、周囲の様子が一変していた。
 深い潜水から浮上していく感覚を全身でとらえ、同時に真冬の極地を想像させる冷たさと硬直がまとわりついてきた。故にしっかりと、だが今度は意図的に、捕まえたチャンスに両手でしがみついた。
 彼は空へと舞い上がっていた。
 背びれを掴まれたサメが暴れる勢いに振り回されていた。
(俺は、こんなとこで死ぬわけには、いかねえんだよ!!)
 首に巻きついた鎖がじゃらじゃらと騒いだ。
 片手にぶら下がっていたロボットハンドはいつの間にか外れてどこかに消えていた。
 サイガは足に触れた突起物の正体を考えないまま、それを足がかりにしてよじ登り、暴れザメの背にまたがる姿勢を取った。そうする間にもサメは速度を落とさず急上昇と急降下を繰り返した。時に首を左右に振り、乗客を噛もうとしては空を切った。
 ジェットコースターのような重力の乱れは感じない。
 ウォータースライダーに似た加速と浮遊感に包まれている。
 ここまで直感に身を任せて動いてきたが、次第に自分の体を支える姿勢に慣れてくると、少しずつ行動や判断を選ぶ余裕が増えた。高度不明の頂点から再び落下へ転じる寸前、彼はようやく正面方向を見ることができた。
 無数の建築物と曲線の道路が平地に複雑な模様の円盤を描いている。赤い砂塵に包まれた空の下に地平線は見えない。円盤には外縁がなく、暗くよどんだ空間がその奥に広がっているようだった。
 それらが何なのかを知る前に円盤の表面、つまり冥府の地表がすぐそこまで迫っていた。サイガは地面や屋根への衝突を覚悟しつつ、不思議と恐怖を感じなかった。
 ところが到達前に暴れザメの方が身をくねらせ、目の前に咲いた投網の上をかすめるようにして逃げた。死神たちの誰かが仕掛けたようだが顔までは分からなかった。
 灰色の髪の少女は視界に捉えられない。
 味方も敵もなく、ただ障害物ばかりが迫っては離れていく。
(どうすりゃいい? 手を離せば助かるのか。それともマジで死ぬのか)
 頻繁に身体を左右に振っていたサメが泳ぐ向きを変えた。周囲の大量生産品のような建物とは全く異なる造形、どこかの古都か遺跡を思わせる尖塔の列がサイガの前に現れたかと思えば、その間をジグザグに縫う軌道で通過していた。
 思わず振り向きかけた瞬間に片手が背びれから滑り落ちた。サイガはすぐに手を元の位置に戻し、揺れるサメの脇腹を足の甲で蹴りつけた。すると、これまでとは違う身震いの後、サメの軌道が直進へと変わった。
 みるみるうちに円盤の中心が後方へ遠ざかっていく。
 その外側に沈む暗闇の正体が迫り来る。
 顔を上げたサイガは、まず夜の海を連想した。それから大きな構造物が一つの方向へ流されていく姿を見つけ、そこに大河が横たわっているのだと理解した。
 神話も言い伝えも大して知らず、いまだ冥府という存在を理解しきれていない彼でも、それに関しては思い浮かぶ単語があった。
(三途の川。渡っちゃいけないやつ)
 生と死を隔てる極太の一本線を、暴走ザメは全力の泳ぎで突っ切ろうとしている。
 渡れば帰れるのか。逆に戻れなくなるコースなのか。
「落ち着け! お前どこに向かってんだ!?」
 伝わるはずがないと知りつつ、サイガは叫ばずにいられなかった。
 背びれに爪を立てられたサメが興奮したように尾びれで宙を叩き、前傾姿勢に移った。何度目かの垂直降下はまっすぐ水面に向かおうとしていた。
 鳴り止まない鎖の振動が、滝に流れ込む水のとどろきに聞こえた。