[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - F ]

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「ガラスの翼……?」
「本当にそうなのかは分からない。触れて確かめたわけではないから」
 まりあは手元のグラスに視線を落とした。
 オレンジジュースは既に三分の一まで減っていた。甘酸っぱさが喉の奥へ過ぎ去った後、口の中にかすかな苦みが残っている。
 話の続きを促していいのかを、何故かためらってしまった。
 隣を見ると、重孝は微動だにせず、柏木の方に顔を向け続けていた。グラスを渡されたときからほとんど量が変わっていない水の上で、溶け残った氷が輝いていた。

 それは何度思い返しても目を疑う情景だった。
 階段から顔だけを上階にのぞかせたまま、二人は束の間、息を止めた。
 親友だと思っていた男の信じられない、そして神々しい姿はもちろん初めて見るものだった。その足が向く先にいる人物は、細身のシルエットと白い仮面が不気味で得体の知れない、しかしどこか作り物めいた印象があった。
 それほど広くなさそうな空き部屋の入り口と室内、立ち話には開きすぎた距離で両者は対峙している。少なくとも柏木は、穏便な話し合いの場ではないとすぐに察した。
「どちらかといえば対決の場だった。まさか戦うのかな、って陽介に聞いたら、『かもね』って言われたよ」
 返された一言は曖昧だったが、小声の隙間に混じる強い吐息には確信の匂いが漂っていた。柏木が知る限り、面白いものを見つけて目を輝かせたときの陽介はいつもそうだった。
 だが友人の顔を確かめる前に、仮面をつけた顔がこちらを向いた瞬間を見てしまった。
 見つかった。
 二人はほぼ同時に身をかがめた。示し合わせることなく同じ判断を下し、同じ方法で隠れたことを、普段なら笑い合うところだろう。しかしこのときは視線も言葉も交わさないまま、ただ時が過ぎるのを待とうとしていた。
『そこに隠れている二人。何故こいつの後をつけた?』
 待たせてくれなかった。
 はっきりした呼びかけは上階の扉の奥、まさに二人が見ていた場所から聞こえてきた。しかも二人共に聞き覚えのない声だった。
 発言者が彼らの友人でないとしたら、考えられるのは一人しかいない。
「まずいと思って僕らはすぐその場を離れた。でも下の階に降りてから、例の怪人の噂を思い出した」
 白い仮面をつけた魔人。
 正直に答えた者は見逃し、そうしない者は容赦なく殺す怪異。
「そう、僕らは……答えずに逃げた」
 都市伝説の内容を踏まえれば間違いなく最悪の選択だった。
 しかも当時の柏木は「引き返す」という行動を思いつかず、陽介も提案してこなかった。二人は何も言わず競うように階段を駆け下りた。足音を立てない配慮さえ忘れていた。
 そんな二人を追ってきたのは怪人でも、まして親友でもなかった。
 大地の底から這い上がる振動が、頭上を走る亀裂の音が、瞬く間に二人の足下へ回り込んでいた。

「……そのときに、ビルが崩落したのですね」
 まりあが確認を口にすると、柏木は目を伏せてうなずいた。
 古びたノートの記述が彼女の脳裏をよぎった。顔も知らない卒業生の取材記録は新聞のどの記事より詳しく、丁寧な図解まで入ったわかりやすい内容だった。
 つまり、彼らがどんな目に遭ったかは、既に知っている。
 しかし、当時のことを話すよう求めたのは、彼女自身だ。
「あの……ごめんなさい。今になってこんなことを言うのも何なのですが……苦しい経験なのに、わざわざ」
 頭を下げたまりあの前からグラスが消えた。
 オレンジの皮だけが残るそれをカウンターの中へ下げた柏木は、重孝にも手元を思い出させるように目配せしてから、まりあには優しい微笑みを向けた。
「僕は証言しただけだよ。少なくともあの件に関して、怪人が関わっていたのは確かだったから」
「でも……」
「それで?」
 くすぶる一方的な思いを、横から重孝の声が押しのけた。
 彼は着席した直後と全く同じ姿勢で店主に顔を向けていた。
「続き」
「そうだね。まだ話は終わっていない」
 柏木が片付けの手を止めた。悲しみや寂しさよりも、別の場所に思いを馳せる表情をしていた。

 まず上階のどこかで階段が崩れ、下の階段にのしかかる形でそれらも壊し、落ちていった。
 二人は途中階で廊下に逃げ込んでいたので難を逃れた。しかし脱出経路がただの大きな吹き抜けと化した様子を見上げる間に、今度は床が抜け、二人共が巻き添えになった。
「気がついたら、身動きがとれなくなっていた」
 瓦礫の隙間に入って助かるなどという奇跡は起きなかった。うつぶせになった身体は重たい物体に押し潰され、鈍い痛みとしびれが手足を駆け巡っていた。
 あたりは暗く、目をこらしても周囲の様子は分からない。かすかに血の匂いを感じる理由も掴めない。助けを求めて叫びたいのに肺が苦しい。
 柏木亮は自らの死を覚悟した。
 まさにそのとき、彼は一筋のぼんやりした光を目にした。
「僕を呼ぶ声がした後、いきなり僕の上に乗っていた瓦礫の一部が取り払われて、呼吸が楽になった。何かと思ったら、そこには……信じられない光景があった」
 コンクリートの塊の上に天使が立っていた。
 ガラス細工のような翼が光り輝き、悲惨な事故の現場を美しく照らしていた。
 別の残骸に埋もれていた陽介を掘り出したのは、間違いなく、彼らの友人として三年間の高校生活を駆け抜けた男だった。といっても横顔や細かな動作からそう感じただけで、本人が口にした言葉は思い出のどこにも出てこない空気をまとっていた。
『どうしてこんなところに来た。誰かに指示でもされたのか』
『いいや。お前の様子がおかしいから、心配で』
 陽介が即座に、しかしひどく弱々しい声で答えた。柏木も続けて訴えようとしたが、声帯がうまく機能しなかった。
 馬鹿なのか、と悪態をつく天使に、直前の出来事について尋ねたのも陽介だった。最初ははぐらかされかけたが、ここまでに目撃したことを並べて食い下がる陽介に天使が根負けして、ようやく二人が見たものの正体を語り始めた。
『怪人の噂が流行った頃、お前らは大して騒がなかったが、小中学生あたりは本気で怖がっていた。知らなかっただろ。で、それに目をつけたどこぞの悪鬼が恐怖心を集めて“怪人”を実体化させた。あの内容が現実になれば高校生でも親でも震え上がるからな』
 天使は動けない二人の間に立って片膝をついた。そして陽介を引き上げるように、柏木をたぐり寄せるように、両方の手を握った。
 体温以上の熱を持った何かが手のひらを通して流れ込むのを、柏木ははっきりと感じ取った。
『俺はずっとそいつを追っていた。仲間と連携して、罠を仕掛けて、ようやく追い込んだところだった。あー、安心しろ、さっきちゃんとぶっ飛ばしてきたから。でもお前らどうしてここに入れたんだろうな。何にしてもこっちの落ち度だけど』
 そういった内容の話を聞きながら、全身の痛みが和らいでいくことに気づいた。それは陽介も同じだったようで、何をした、と叫ぶ声を聞いた。
『今ここで人死にを出すわけにはいかないんだ。俺の力を分けてやるから、救助が来るまでは持ちこたえろ。必ず生きて帰れ』
 ガラス細工の翼が少しずつ消え始めていた。
 まだ弱い光をまとうそれが空中に舞うホコリや土煙と混ざっていく様子は、湯の中に溶けていく飴玉のようだった。
『ふざけるな、こんなの、受け取れるか』
『じゃあ貸しといてやる。十年、いや二十年後、必ず取りに行く。だから生きてくれ。心を入れ替えて、真っ当に生きてくれ』
 陽介の反論は続く言葉に封じられた。高校生だった三年間で密かに重ねた悪事の数々を名指しで暴き、足を洗えと念を押してから、彼らの友人は手を離した。
「僕と陽介は約束しました。彼とその場で。そして病院に運ばれた後、二人で改めて。二十年、彼のために生き延びて、共にまた会おうと」