[ Chapter23「駆ける心」 - B ]

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 雑居ビルの地下一階の店に、一人の大人と二人の高校生がいた。
 彼らと出会い言葉を交わした天使はもういない。自らの用事を予定通りに済ませると、引き留める手を振り切り、彼らの前から去ってしまった。
「そうか。ああやって飛ぶんだね」
 床に座りっぱなしの柏木を、重孝が無言で支えて立ち上がらせ、カウンター端の席まで運んだ。
 まりあは二人に背を向け、不思議な出来事が起きた場所を見つめていた。
『諦めろ。もうすぐ奴の命運は尽きる、そうしたらあんたは何もかもを忘れる。無駄だ』
『どういう意味ですか!?』
 言葉で突き放す相手に思わず詰め寄った、その瞬間を内心で振り返る。
 まりあに両手首を握られたとき、天使は確かに動きを止めた。しかしそれは一度きり、数秒のこと。彼は感情を捨てた顔で腕を軽く回し、握っていた手をほどいて振り落とした。
『これは人間が個人の情だけを理由に踏み込んでいい話じゃない。“こちら側”の問題だ』
 彼が一歩引いた直後、何重にも重なった波紋が膜のように広がって、まりあの行く手を阻んだ。小さなしぶきの散る音がしたかと思えば、そこにはもう誰もいなかった。
 店の扉が開く気配はない。
 窓も時計もない店が静まりかえると、すべてが止まったように感じられる。
(ウィルさん……)
 まりあがこれまで直に接した彼は、冷たく謎めいた人物だった。路地裏で怪人と出会ったときも、文化祭の先輩失踪事件に関わったときも、熱を持った感情を表に出さない。しかも今にして思えば、いつも他の誰かを見ていて、まりあの存在は眼中にないようだった。
 対して重孝が知る彼は、コミュニケーションがうまくないだけで悪い人物ではないのだという。年上の同級生がメールと画像を通して語ったところによれば、半年間の居候生活では滞りない完璧な家事でホストファミリーを支え、一方いくつかの秘密の仕事によって多くの人をひそかに救っていたらしい。
 きっとどちらも本当の彼だろう。
 ついさっきの発言も彼の本心には違いないのだろう。天使と怪人の対決に普通の人間を巻き込みたくないとの心配、部外者の足手まといを嫌がる心情、どちらがメインなのかは判別できないが。
「……どうしてでしょう。少しも大丈夫そうに思えないのですが」
 まりあは制服のスカーフごと胸のメダルを握りしめた。
 細い鎖が首筋をくすぐった。
「全く同感だよ」
 背後から力のない声がした。
 振り向いた先には、カウンターに片肘をつく柏木の姿があった。客に微笑みかけてはいるが、その頭は不自然に揺れ、今にもひっくり返って椅子から落ちそうだった。
「どうしました!?」
 まりあは即座に柏木のもとへ駆け寄った。自分の顔から血の気が引いていることを感じつつ、店主の顔を改めて見ると、明らかにそちらの顔色の方が悪かった。
 ランプの柔らかい光が脂汗を白く浮かび上がらせている。
 重孝に後ろから支えられた肩がゆっくりと力を抜いていく。
 だが表情だけは穏やかだった。背負ってきた重責や緊張からようやく解放された安堵が、潤んだ目の端で輝いていた。
「あの、柏木さん。ここではなく、どこかで横になってお休みされた方が、よろしいかと」
「もう少ししたら、そうさせてもらうよ。買い出しに行った子がそろそろ帰ってくる頃だから。それより……」
 柏木が頭を支えている肘を少しだけ前に動かした。上半身がぐらりと揺れ、前傾姿勢に移ったところで、重孝の手に支えられて止まった。
「……陽介が心配だ」
 小さく息を呑む音がした。
 まりあは重孝が口を開かないことを確かめてから、柏木に尋ねた。
「今、お二人のお友達だったかたが、あちらに向かっていらっしゃるのですよね?」
「さっきの話を聞いた限りでは、そのようだね。だけれど、再会しただけで、事が済むかどうか」
 下を向いた顔は余計に血色が悪くなったように見える。
「どんな状況なのかも、僕には分からないから。万が一にも、悪いことが起きたらと、思うとね。……陽介は、事故の後遺症で、両足が不自由なんだ。この前見舞いに行ったとき、ベッドから車椅子に移る練習をしていたけれど、いざというとき動けるかは……」
「入院先はどちらですか!?」
 まりあは訊かずにいられなかった。
 返答を聞くより先に片手を突き出された。待ってほしいのか、離れてほしいのか。どちらにしてもそれを見た途端、心にブレーキがかかって、自然と一歩下がっていた。
「僕が止めても行きそうな目をしているね」
 柏木の頬を汗がゆっくりと伝った。

 病院名と部屋番号が書かれた紙を握りしめ、まりあは地上へ出る階段を駆け上がった。
 店を訪れたときからそれなりに時間が経っているはずだが、見上げた空は彼女が思っていたより明るかった。頬に当たる風も柔らかく、春の匂いがした。
(急がなければ。……でも、どうやって?)
 歩道に出てから、その場所への行き方を知らないことに気づき、足が止まった。引き返して柏木に尋ねるのが最も基本的な対処法だろう。しかし、今にも倒れそうだった店主の姿が頭をよぎると、後ろへ向けようとしていたつま先が動かなくなった。
 しばらく考えてから携帯電話を取り出した。ブラウザを開き、インターネットから情報を得ようとしたところで、後ろから階段を上がってくる足音を聞いた。
 一人で店を飛び出した彼女に、重孝が追いついたのだ。
「あっ……柳さん……」
 まりあが振り向いたとき、視線の高さが同じだった。
 先走ったことを恥じた頃には、いつものように見下ろされていた。
「少し待ってください。今、行き方を調べますから」
「来て」
 簡潔な一言を残して、重孝はまりあの前を通り過ぎ、一人歩き始めた。向かったのは鉄道の駅とは逆の方向。進み方こそ散歩にでも行くようなペースだが、足音には迷いも焦りも全くなかった。
 まりあに次の行動を選ぶ余地はなかった。
「柳さん!?」
 小走りですぐに追いつきはしたものの、隣に並んでも級友は止まってくれなかった。そればかりか追いつかれた彼が少々早足になったような気がして、まりあは余計に慌てた。
 次に見えた角を折れ、一段低いビルや住宅が並ぶ道へ入る。
 空調の室外機が生暖かい風を浴びせてくる。
 頭上でカラスの飛び立つ羽音がする。
 まりあが左右や空を気にしていると、重孝が唐突に立ち止まった。彼の背中に軽くぶつかってしまった彼女へ、ようやく次の一言が投げかけられた。
「下がって」
「はい?」
 重孝は二つの建物の間に入っていったかと思うと、それから一分も経たないうちに、背中を向けたまま戻ってきた。それもただの後ろ歩きではない。狭い空間から何かを引っ張り出してきた。
 新品同然に磨き上げられた黒いバイクが路上で一時停止した。
 自転車でも難しそうな幅の隙間からもっと大きなものが出てきただけでも驚きなのに、目の前の車体は大きなタイヤと二人分のシートを備えていた。幅も重さもきっと平均以上。自動販売機よりも背の高い人間が支えているから普通の大きさに見えるだけなのか。
 驚くあまり声も出ないまりあに、重孝がヘルメットを差し出した。とりあえず受け取った彼女がよく分からないままそれを抱えていると、バイクの陰からもう一個のヘルメットが取り出され、重孝の頭に収まった。
 バイザーに覆われた顔が音もなく向きを変えた。
 一言も聞こえてこなくても、彼が何を言いたいかは明らかだった。
「……乗せてくださるのですか?」
 ヘルメットが大きく前後に揺れた。
「病院の場所は」
 まりあが言い切る前に、ヘルメットが再び揺れた。