[ Chapter23「駆ける心」 - C ]

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 窓の外から投射される無数の矢はまさに陽介の病室へと向けられていた。
 そのことがはっきりと分かるのは、窓に到達する手前で見えない壁に阻まれて散り、その瞬間が光として見えるからだった。
 カメラのストロボよりは目に優しく、夜空の星よりは鮮明に輝く、そんな不思議な光景にサイガはしばらく見とれていた。しかしその中心を大きな塊のような影が横切ったとき、幻想は現実に変わった。
 黒ずくめの歩兵が銃を撃っていた。
 墨絵のような翼を背負い宙に浮いていた。
「戦ってる……?」
「そう。頭カチコチのオジャマムシから、さっちゃんとパパを守るために」
 カーテンが閉められる直前、大きな流星が爆発して火の粉をまき散らす瞬間が見えた。数秒の芸術は花火の束にまとめて火をつけた程度では再現できそうになかった。
 それだけはっきりと攻撃の痕跡は見えていた。しかしその撃ち手は一度も現れなかった。
『様々な者が君を狙い、サリエルはあの手この手で君を守ってきた。それがあの屋上の一件であり、のちの様々な事件だったというわけだ』
 冥府の黒猫がそんなことを言っていた。
 たった今目撃した姿も、その「手」のひとつなのだろうか。
「……守る価値あんのかよ。あれに」
 サイガは広い病室の奥を睨んだ。
 そこにいる男は相変わらずベッドに座ってカンバスと見つめ合っている。こちらに背を向けた姿勢だが、肘の動きは見えていて、作業に没頭する様子がうかがえた。
 何をしているかなんて訊くまでもない。
「近づいちゃダメよ。今、大事なトコなんだから」
「言われなくても近寄らねえよ」
 たとえ本人がこちらに気づいて手招きしたとしても応じたくない。サイガにとってはこれまでと全く変わらない本心を口にしただけだった。が、祐子は寂しそうな顔をしてソファの裏へ回り、サイガの頭を撫でようとしてきた。
 その手を振り払う数秒の間に、甘い香りがサイガに襲いかかった。
「もう、冷たい子ねえ。サリエル様も、あなたのパパも、今とっても頑張ってるのに」
「あいつらの問題なんだろ、俺には関係ねえ。あと触るのやめろ」
「さっちゃんヒドーイ」
 とがらせた口からわざとらしく息を吹き出す音がした。
 頭上に降り注ぐ濃厚な香りにサイガはむせかえり、鼻をつまんでうずくまった。これ以上吸わされ続けたら頭がおかしくなりそうだ。不穏な直感に従うことにした彼は、背中を丸めたままベッドを指した。
「で、このクソやばそうなときにあれは何してんだ」
「何って、絵を描いてるんじゃない。さっちゃんのパパはそれがお仕事なんでしょ?」
「仕事! 外から何か飛んできてて超ヤバいこの状況で、完全無視してのんびりお絵かきが仕事とかマジか!」
「怒らないで、さっちゃん。アレはふたりの最後の契約なの」
 馬鹿にしたつもりで言ったら真剣になだめられた。姿勢を低くしたまま横目でソファの後ろを見ようとしたら、竜巻のようにカールした髪しか視界に入らなかった。
「最後って。どうせ『一生のお願い〜』みたいなもんだろ」
「ホントに最後。だって、自分の魂と引き替えのお願いよ?」
 鼻を押さえていた指先が緩んだ。
「待て、あいつの? 生き返らせる価値ないとか前にどっかで聞いたんだけど」
「蘇生の見返りには物足りないって話? それはそれ。あのね、パパが願ったのは“時間”なの。食べるコトも寝るコトも、治療もリハビリも全部忘れて、絵を描くコトだけに没頭できる時間。芸術家にとっては夢みたいな“時間”を、少しだけでいいからって」
「少しって」
「あの絵が完成するまで」
 陽介がいっこうにこちらを向かない理由がサイガにもようやく理解できた。
 ベッドの周辺を取り巻く状況も、素人なりの解釈を加えて飲み込めた。
 あの男はしばらく前からずっと、文字通りあの状態のまま過ごしているのだろう。欲求も生理現象も、自分が入院中であることも、すぐそばに他人がいることも忘れて。一枚の絵を描き上げるという、少なくない時間を要する作業のために。
 しかも、完成させたら自分が死ぬという条件付きだ。
「いや……バカじゃねえの?」
「そんなこと言わないで」
 背後から聞こえる音はすすり泣きだろうか。演技かもしれない。
「向こうじゃ描けない、どうしてもこの世に残さなきゃいけない絵なんですって。自分のためじゃないの。自分の欲のために魂を賭けたワケじゃないのよ。それにね、さっちゃん。サリエル様だって、真剣なんだから」
 テンポの速い吐息がサイガの首筋を温めようとしてくる。頭を左右に振ってもそれが続くので、サイガは自分の腰を浮かせ、一歩分横にずれて座った。
「前に言ったかしら。あのお方は私みたいに困ってる誰かを助けても、ほとんどの場合は対価を取らないの。でも何かあったら『助けた分だけ返す』っていう約束はするのね。私はこの前のアレだったケド……この一週間で、世界中の“借り”を集めて……」
 祐子の言葉が次第に聞き取りづらくなってきた。
「みんな……言ってるの……全部、終わらせ……気だって……」
 しまいには言葉ですらない音ばかりになり、吐息も離れていった。先ほど浴びせられた強烈な香りがソファの背もたれを越えてくることもなくなった。
 サイガはようやくまともに呼吸できることに安堵し、深く息をついた。
(知ってる。昔の恨みがある奴と、ヤバい奴と、戦ってんだろ)
 迷い込んだ冥府で黒猫から打ち明けられた話を覚えている。
 強引に連れ出されたデートで祐子が明かした裏話も思い出した。
 黒い歩兵に見える堕天使はこれまで世界中を渡り歩き、様々な人間たちに手を貸したという。あるいは祐子が言うところの「違うルールでできた世界からやってきた存在」もかなりの割合で含まれるのかもしれない。
 その場で代償を求めず、後で借りを返させる契約。
 願い出た者自身の魂を差し出す契約。
 サリエルが関わった相手に提示した条件は二択ではない。サイガが知る限り、少なくともあと一つはある。
 本人の魂とは別の何かを譲り渡すというパターンが。
 他でもない、サイガが巻き込まれた理不尽な選択が。
(さっき祐子は、あいつが俺を守ってるって言ってた)
 閉ざされたカーテンの周辺や隙間から光の明滅が見えない。
(俺に死なれたら困るとかいう話、まだ有効なのか? だから目が届くところに俺を置いた?)
 ソファから顔を遠ざけるための前傾姿勢をやめ、ベッドの左右を改めて確認した。何度見ても陽介の他には誰もいなかった。
 そこに居ていいはずの人もいない。
 そこに居たいはずの人もいない。
(母さんがこれを見たら、どう思うだろう)
 作業に没頭する男に文句のひとつも言いたくなったそのとき、カーテンの向こうで窓ガラスが激しく振動した。サイガはとっさに立ち上がり、いつでも逃げ出せる態勢を取った。
 実際には何も起こらず、揺れる音が収束していくだけだった。それでも恐怖に揺さぶられた心はなかなか収まらなかった。
「何がどうなってる? 外に何がいるんだよ!?」
「あれはね……」
 ソファの後ろで絞り出された女の声は、不自然な息の音と共に途切れた。
 そして間髪入れずに別の声が入った。
「天使だ」
 サイガは全力で上半身と頭とを後方に回した。目の前に現れたのは、声を聞いた瞬間に直感したとおりの人物だった。
「奴にどんな事情があろうと、どんなに命を救っていようと、人間が道を踏み外す手伝いをした時点であいつらの敵対者なんだよ」
 驚いた目に見つめられた一真がにやりと笑った。
 その足下で何かが倒れる音がした。
「い、いつから、そこに」
「お前さんが冥府から戻ってきたとき。ここを覆ってる結界の封鎖がその一瞬だけ緩んだから、ついでに入れさせてもらった」
 サイガは説明を理解できず、一度聞いただけでは覚えきることもできなかった。しかしそれを祐子に問うという選択肢が消えたことは、ソファの裏へ回らなくても察してしまった。