[ Chapter23「駆ける心」 - D ]

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 翼を取り戻した天使にとって、目的地までの距離や道のりはたいした問題ではなかった。病院の地理的な位置を知らなくても、飛ぶこと自体が久しぶりであっても、借り受けた同胞の羽が何も言わず導いてくれた。
 そうして訓練生ウィルはK大学付属病院の駐車場に降り立った。
 東の空から染み出してきた夜の色はまだ天頂に届かない。しかしこの場所で最も高い建物の上には、既にいくつもの光が瞬いていた。
(規模、手段、共に想定内。玄関付近の警備は手薄だ)
 上空に交差する弾道は人間の目に映らない。だから立ち止まる者も頭上を気にする者もない。
 ウィルはそんな人間たちにならい、上ではなく前へ進んだ。正面玄関の自動ドアを通過するとき、彼の背中にたゆたう波紋が音もなく消えた。
 入院患者への面会の手順は予習済みで、その通りに実行したが、誰にも怪しまれず吠えられなかった。姿が変わってはいないせいか、相変わらず物珍しそうに見上げてくる者は後を絶たなかったが、これも今日までのことと諦めて無視した。
『受付を済ませたら、そのまま人の流れに乗れ』
 助言に従い、すぐ前を歩く人間たちについていくと、エレベーターホールに行き着いた。壁の案内板を読む限り、ここから昇った最上階が目的地だ。
 しかしウィルも、見知らぬ人々も、そこで足が止まった。
 エレベーター前の床一面に青い液体がぶちまけられている。清掃員が三人がかりで除去に追われていて、そのうちの一人が見舞客に何度も頭を下げていた。
「申し訳ございません。そちらの階段をご利用ください」
 先に来た人間たちが一斉に首を回した。彼らは真後ろのウィルに気づくより早く階段へ続く扉を見つけ、面倒がりながらもそちらへ向かっていった。
 立つ者がなくなった空間に薬剤の匂いが侵入してきた。
 顔をしかめたウィルを見て、同じ清掃員が同じ言葉を繰り返した。後頭部どころかうなじまで見えるお辞儀は、先を急ぎたい訓練生の意気をいくらか削いだ。
 ここで肉体を脱ぎ捨てたなら、作業もエレベーターも無視して目的の場所へ駆け上がれるだろう。しかし今のウィルにその選択肢は使えない。物質界の環境に馴染んだ鎧を脱ぎ捨てたとき、残るのは借り物の翼と無防備な魂しかないのだ。
(分かっている。今の俺はこの場所にいる同胞の誰よりも弱い)
 ウィルは階段に進むことを選んだ。
 扉を開けて縦長の空間へ入ったとき、先に行った人間たちの足音は途絶えていた。すぐ上か下の階で外へ出て、改めてエレベーターに乗ったのかもしれない。
 近くに他の気配がないことを確かめると、訓練生は最初の一段に足をかけた。次の一歩はすぐに踏み出さない。両足のつま先に力を集中させ、呼吸と心とを鎮めると、床を思い切り蹴った。
 重力が溶けて流れ落ちた。
 彼の身体は軽やかに十数段を飛び越え、前方の踊り場に到達した。
(使えた。これでいい。追いつける)
 回れ右をしてもう一度同じ動作を試すと、やはりスムーズに次の踊り場へ上がることができた。長距離移動に比べて自身への負荷が少ない実感も得た。
 その調子でさらに昇ろうとしたそのとき、彼の横で勢いよく扉が開いた。
「この忙しい時に点検って何!?」
「どこかでまた誰かが挟まったんじゃないですか。あ、ごめんなさい」
 白い制服の集団が入ってきて、ウィルを押しのけつつ階段を降りていった。病院の看護師たちだろう。肘か何かがぶつかったことを謝ったのは一人だけ、しかも跳び損ねた彼が振り返ったときには、声の主を特定できなくなっていた。
 改めて見上げた空間は視界の悪い通路だった。どう首を傾けても前後の階しか見えない。こうも死角だらけでは乱入や不意打ちの可能性を排除できない。
 最後の一人が完全の視界から消えるのを待ってから、彼は再び最上階を目指した。今度は借り物に頼らず自分の足で階段を上がる作戦に切り替えた。
 ところが。
 次の階では上から駆け下りてきた女のピンヒールが折れ、すれ違いかけたウィルも転倒に巻き込まれた。
 別の階では患者らしき老人に腕を捕まれ、震える声で助けを求められた。
 他の階では突然開いた扉に後頭部を殴られ、フルスイングの原因を作った男にしつこく謝られた。
 なお進むと夕立のような物音がして、上から文房具が降ってきた。その先には死にそうな顔で落とし物を拾う女がいた。
 いずれも負傷こそ免れたが、先を急ぎたいウィルにとって時間と体力の消耗は大きな痛手だった。やはりエレベーターに乗るべきだったと気づいたときには一段を上がる足が重く、手すりに頼っている自分がいた。
 そしてようやくたどり着いた次の踊り場には、女がうずくまっていた。彼女はウィルの足音に反応してか顔を上げると、驚きと悲しみが入り交じった表情で口を開いた。
「……逃げて。……この先に、行っては、いけません」
 牧野ひなぎくの頬は血と涙に濡れていた。
 足を止めたウィルに、先輩の守護天使は視線で上階を指した。
「ここは……の、協力者が、多すぎます……罠も……」
 後輩は同じ方向を見なかった。
 震える同胞に手を差し伸べなかった。
「本当に心配だけですか。俺を止める理由は他にもあるはずでしょう」
 とっさに動いた彼女の唇から声が出ない。
 その背に集まる星屑の輝きが失せていく。
「あなたは、リーダーは、俺が物質界に遣わされたわけを知っていた。奴と関わった父子が抱える事情も知っていたはず。それに奴を調べたなら教官との関係に気づく者がいてもおかしくはなかった。俺はともかくあなたがたには調べるすべがあったはずだ」
 ウィルは片手を壁について背筋を伸ばした。
 階段と病棟を隔てる扉の前で、水の波紋が薄く広く揺らめいた。
「もし俺が教官に利用されていると知っていたなら、止めることもできた。しかし誰も実行しなかった。つまりあなたがたは俺の行動を認めていた、そう見なします。これから行うことは教官の反逆でも訓練生の暴走でもありません」
「私たちも、同罪……ですか」
 ひなぎくが寂しそうに目を伏せた。うなずこうとも、引き留めようともしなかった。
 最下層から最上階までをらせん状につなぐ空間の中心で、ウィルは再び重力を蹴り捨てた。
 すれ違う者がいても振り向かず、何かが落ちてきても構わず受け流した。たとえそれが同胞の身体からむしり取られた羽根に見えても、拾い集めるときだとは思わなかった。
 交差する手すりと天井をくぐり抜けて上へ。
 悪鬼の強襲をかわして上へ。
 戦う暇をも惜しんで上へ。
 そうしてこの縦長のエリアで最も広い空間に躍り出た彼は、長い階段の終点に位置する扉の前に降り立ってから、その横に掲げられたプレートを見た。数字ではなく「R」と書かれていた。
(この場合……目的地は、一つ下にある)
 人間の目線で得た知識を思い出し、足を使って静かに階段を降りていくと、案内板に書かれていた最大の数字が現れた。
 ウィルは手元と周囲を確かめてから、ドアノブを握ってすぐ回した。慎重に扉を開けて一歩を踏み出した先には、見覚えある構造の廊下と、触れた覚えのない気配があった。
 道順は幻視で教えられている。一真から分け与えられた記憶に従えば、最短の歩数で問題の病室に着くはずだった。
 しかし、その手前には。
(敵がいる。攻撃の意思が、ある)
 次の一歩が大きくねじれた。
 扉の脇から出てきた物体がウィルの脇腹に衝突し、前進しようとした肉体をなぎ倒した。半身をひねる動きまでは間に合ったが手足は追いつかず、彼は背中を下にして床にたたきつけられた。
 五感のすべてが痛みに塗りつぶされても、肉体に染みつかせた動作は上書きされなかった。ウィルは服の間に隠していたガラスの拳銃を抜き、身体を起こすより先に構え、腕の向きを見ることなく引き金を引いた。
 床を跳ねた衝撃がすべて聞こえなくなった頃、ようやく彼の前に光が戻った。
「マジかよ……その体勢で撃つって、普通考えもしねえぞ」
 銃を持ったまま素早く立ち上がったウィルの前に、敵は一人きり。
 一撃を浴びたのは右肩か。錆色に染まった白衣を左手で掴んでいる。赤銅色の髪も半分ほど濡れているように見える。飢えた獣のような目が狙いを定めている。
「あんたは堕天使の手先か」
「いや、手を貸してるだけだ」
 西原彩芽の姿を模倣した誰かが、顔を染めた赤を二の腕で乱暴にぬぐった。