[ Chapter23「駆ける心」 - F ]

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 ウィルは起立姿勢から両手持ちの構えで銃を向けた。
 銃口の正面にいる男は肩口を押さえたまま動かなかったが、しばらくしてその左手を下ろした。赤く染まった右肩から血が噴き出す様子はない。
「あんたは何者だ」
 単純な質問に敵は答えようとしなかった。
 何度見てもその顔はウィルが追い続けていた少年と同じだ。髪の色は最初に出会ったときと異なるが、今はその色なのだと先日の作戦の折に知った。
 しかし最初に感じ取った気配は、普通の人間とは根本的に異なっていた。
「西原彩芽本人でないことはもう分かっている。惑わされなくて残念だったな」
「別にお前のためにやってんじゃねえよ」
 偽者の視線がウィルの横へと向けられた。彼が反応して振り向くことを期待する様子はなく、今度は自身の頭上を鼻先で指した。
 小さな赤ランプと黒いレンズが天井からつり下げられている。
「で、そんな物騒なもん出しといていいの? 多分そろそろ警備員か何かが来ると思うんだけど」
「構わない。これは今日限りのものだ」
 ウィルは聞かされていたし、察していた。この先で決着をつけた後、肉体も道具も用済みとなれば、それらは防犯カメラの記録から消えてしまう。事情を知らない人間がいくら騒ごうがこちらには何の影響も及ばない。
 相手がどうなのかまで考える暇はない。
「それって、お前の意見?」
 再び正面を向いた偽者に問われた。続きのある話をわざと途中で切ったような言い方だった。
 ウィルは構えを崩さずに考えた。そして銃口をわずかに下げた。
「様々な話を聞いた上で俺が選んだ。だから俺の意見だ」
 ガラスの銃から小さな流れ星が放たれた。
 敵の左足の形状が一瞬揺らいだ。吹き飛びはしなかったが、片足をつかせるには充分なダメージが入っていた。
 その間にウィルは武器を片手に持ち替え、床を蹴った。無数の波紋が空中を泳ぐ。足を負傷した敵の頭上を一瞬で通り過ぎ、廊下の突き当たりを目指した。
 偽者をここで狩るほどの余裕はない。
 しかし見逃してやるような理由もない。
 振り向かず、深追いせず、勢いのまま加速した。不審な気配も物陰からの不意打ちも、今度は現れなかった。
 そうして訓練生は特別室のひとつと対面し、そこで着地した。扉の周囲に入院患者の名が分かる記載はないが、部屋番号は一真から聞いた。あるいは記憶の共有を通して「見た」ものと一致していた。
 扉は閉まっている。中から物音は聞こえてこない。
(この先に、敵の領域がある)
 かすかに足音が聞こえた。はるか後方、廊下の端に人間の集団が集まってきたらしい。先ほど言われた指摘の通りなら、防犯カメラの情報を頼りに駆けつけた警備員たちなのだろう。
「大丈夫ですか!?」
「まだ近くにいるはずだ。探せ!」
 ウィルは無関係な人間たちの存在をあえて忘れ、扉の端に取り付けられた手すりを握った。
 手のひらを通して熱を吸われた。
 熱を伝って手の内側に入り込む気配を感じた。手を離すと気配も離れた。ウィルは感触の残滓を掴むように指を曲げ、扉を見つめた。
 特別講義で教わった、霊的素子の流れる音を思う。
 真冬の夜に凝視した、テーブルの上の星々を思う。
 病魔を追うとき感じた、不気味な風の匂いを思う。
 宿敵との戦いで触れた、空気の奇妙な震えを思う。
 すべてを記した日記帳が手元になくても、記憶を紐解くだけで充分だった。教官からの情報がすべてではなくなり、己の外側にある物を使うだけで戦い方は無限に広がると知った今、先が見えないことへの懸念は消えていた。
(俺の目的がここにある)
 足音の群れが移動を始めた。廊下の角を曲がってこちらへ向かってくるのは時間の問題だろう。
 再び扉に触れようとして、ウィルは停止した。
 水面のような翼が震えた。無数の波紋が重なり絡み合って編み目を作り、背中を伝って彼の身体すべてに寒気を這わせた。
 借り物の翼がざわめくこの感触の意味を、もう誰も解釈してくれない。
(……何か、あったのか?)
 訓練生はさらなる難敵の視線を想像し、それから別の可能性に思い至った。そして背後より前方こそに問題があると結論づけた。
 それならなおのこと早急に、この扉の向こうを確かめる必要がある。
 覚悟を決めて再び手すりを掴んだ。
 今度は体温と霊的素子が流れ出す感覚を振りほどかなかった。
『何やってるんだ、こんな時に! 貴重な隠れ家をぶちこわす気か!?』
 一真の憔悴した顔が意識の片隅に浮かんだ。
 ウィルは音のない呼吸によって先輩の懸念を肯定した。そして自分の肉体から溶け出すすべてに、その行方に、五感と思いと魂を集中させた。
 絡み合う壁の癒着が少しずつはがれていく。
 ここまでの試練で得てきたものが失われ、新たに構築されていく。
 色彩を失い、同胞の気配を失い、肉体の質量をも失っていく。
 渦巻く光と影の隙間に手を差し込むと、扉がゆっくりと開いた。何層にも重ねられた幕を繰るようにして進み、全身が砂嵐に包まれた頃、出入口が再び閉ざされた振動を背中で感じた。
『くぐり抜けてきたか』
 覚えのある声を聞いた。
 でたらめに散らばった白と黒が収束し、空間を形作った。物体を出現させた。教わってきたとおりの間取りに大きなベッドと医療器具が据えられた病室だった。
 ウィルは結界が作り出した封鎖を突破できたと知った。
 己の判断が間違っていなかったことに対して感情を抱く前に、鮮明な視界の中心で起きている現実を見た。
「ふざけるな!!」
 窓に背を向けた何者かと、そいつに食ってかかる少年がいた。
 色彩を失った世界の中にあっても、少年の髪の色が分からなくても、それが誰なのかはすぐに察しがついた。
 問題は彼が楯突く相手だ。
「あれが全部夢で済むかよ。桂のこと知ってんのは俺と母さんだけじゃねえことくらい分かるだろ」
『それは貴様の都合に過ぎない』
 何とも似ていない、ただただ醜悪な姿形をまとう魂が、指摘に怯む少年の眼前に迫った。そして彼の両手を、頭を、不気味にうごめく表皮の中へと埋めた。全身が呑み込まれるまでにまばたきの時間さえ要らなかった。
 ウィルは取り落としかけた銃を握り直した。
 結界の内側は霊的素子の流れやエネルギー量が仕掛けた者の計画通りに設定されている。すべてとまではいえないが大抵のことは設置者の思うまま。誰よりもこの場所を知っているなら、きっと侵入の手口も見抜かれているだろう。
『吹き込まれた半端な知識と直感のみで、扉の情報を書き換えたか』
 嗤う声を残し、異常な存在が歪んで空中の一点に収束した。
 再び膨張したそれは別の姿を作り出し、ウィルに正対した。
『しかし今一歩遅かった。この状況において貴様に何が救えよう』
 目の前で消えた少年と同じ背格好。
 両腕を覆い隠し、くるぶしまでを包む、白いコート。
 表情らしい表情のない仮面。
 それは間違いなくウィルが追っていた敵だった。何度も跳ね返された障壁であり、目指すべき標的の目印だった。
「ここであんたを討てば誰かは救われるはずだ」
 若き天使は銃を構えた。
 この空間に他の誰かがいた痕跡も、先にここへ来たはずの同胞が一向に現れない事実も、照準器の中には割り込めなかった。