[ Chapter23「駆ける心」 - G ]

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 夕方の国道はあまり混雑していなかった。
 青信号が灯り、交差点の手前で一時停止していた車が次々と発進する。そのどれよりも早く加速した二人乗りのバイクが車列の先頭に立った。
(このまま、あっという間に着いてしまいそうです)
 まりあは大型バイクの後部座席にまたがり、車体側面のグラブバーを懸命に握っていた。その頭は大きなヘルメットに包まれている。発進するたび、曲がるたびに様々な方向から力が掛かり、少しでも気を抜けば振り落とされそうという緊張が指先に力を与えていた。
 幼い頃には母親が乗る自転車のお世話になったことを覚えている。しかし二輪車のタンデムは初めての経験だ。
(そういえば、今、どのあたりを走っているのでしょう)
 視界を遮るものは慣れないヘルメットだけではなかった。体幹を揺さぶる振動や不意に車体が傾く瞬間の揺れ、それらに抗おうと縮こまる体、ゆえに首を動かす余裕がない。さらに道路脇の何かを垣間見て位置を知る土地勘もない。
 ただし周囲を見えなくしている最大の理由――運転者の大きな背中は、どうしてか全く気にならなかった。不安という意味でも、甘酸っぱい意味でも。
(また車を追い抜きました。……もしかして、かなりスピードが出ているのでは?)
 思った矢先にバイクが減速を始めた。
 何度目かの赤信号に足止めされる間に、彼女は空を見上げた。夕日の色に染まった雲が強風に流されていた。
 街灯の上を漂う小さなちぎれ雲が天使の翼のように見えた。
 ついさっき出会った本物らしき天使は、用件を済ませてすぐ立ち去った。きっとあの空を飛んで移動したのだろう。既に病院へ着いているに違いない、と思うたびに胸の奥で何かがうずいた。
 彼は何をしに行ったのか。
 病院で待ち受けるものは、ひとは、何なのか。
 自分たちにできることがそこにあるのだろうか。
 考えるたびに不安の種が増える。彼を追わないという選択肢があることはもちろん承知している。すべてが終われば記憶が消える、との忠告も覚えている。
 それでも心にブレーキが掛からない。
(ウィルさんを見つけられたら、そのときは……!?)
 バイクが左に大きく傾いた。
 思考のいくらかを考え事に使っていたせいか、グラブバーを握る手が少し緩みかけていた。まりあはすぐに両手の力を入れ直したが、車体に合わせて傾けた上半身が地面とぶつかりそうに思えて、息を止める力も強くなった。
 垂直な姿勢に戻った直後、彼女は人工のまぶしい明かりを目にした。
 そこは国道ではなかった。左折したバイクは広い敷地に入り、徐行運転で「駐輪場」の看板の下へやってきた。看板の端に小さく記された文字列はところどころ欠けていたが、ヘルメット越しでもすぐに読める形は保っていた。
 K大学付属病院の屋外に他の人間はいなかった。
 バイクが停止してエンジン音が消えると、不気味な静けさと夜の匂いが足下に立ちこめたように感じた。
「あ、ありがとうございました」
 まりあは慎重に後部座席から降りた。両足が地面に触れた後も膝の震えが止まらない。それでもヘルメットを外してからは笑顔を意識して、借りた防具を重孝に差し出しながら頭を下げた。
 重孝は相変わらず何も言わなかった。車体の収納スペースを開き、まりあの通学鞄を取り出してヘルメットと交換するまで、彼女と目を合わせることもなかった。
 指定の枠内に停めたバイクの施錠を確かめてから、二人はすぐ近くの建物を目指した。そこに明かりのついた出入口はあったが、扉は電子ロックに守られていた。外部の人間に向けた案内は見当たらない。
(柏木さんに受付の場所も聞いておけばよかったですね……)
 ちょっとした情報の不足に気づいたまりあが肩を落とす間に、重孝が早足で歩き出していた。建物の壁に沿って進むこと数分、二人の靴が横に並ぶようになった頃、ようやく見舞客用の案内が書かれた張り紙にたどり着いた。
 面会時間の終了まであと三十分。
 まりあは焦りを心の奥に仕舞い、柏木から受け取ったメモを取り出した。受付の係員に部屋番号を伝えると面会票への記入を指示されたが、示されたカウンター手前を見ると、既に重孝が記入を済ませていた。
「お二人でよろしいですか」
「は、はい……」
 確認後に出された面会者用のバッジも重孝が二つまとめて受け取り、それから片方をまりあに渡してくれた。
 ありがとう、の言葉が追いつかない。
 係員に教えられた道順でエレベーターホールに着いたときも、上りのボタンを押したのは彼で、到着したカゴにまず乗ったのも彼だった。もちろん続けてまりあが乗る分は待っていてくれたが、他に誰もいないと見るや閉扉ボタンを素早く押していた。
 お礼の一言を届ける隙がない。
 上昇するエレベーターの中で、まりあは隣に立つ同級生の顔をそっと見上げた。目元は長い前髪に隠されていても、唇を引き締める筋肉に余計な力が入っていることは一目で分かった。
 はやる気持ちを抑えきれていないのだ。
(柳さんは、ウィルさんに追いついたら、どうされるのでしょう?)
 この先にいるのはそのひとだけではない。
 彼に名代を頼んだという天使がいる。美しいガラス細工のような翼を持つことだけ知っている。二十年前の出来事については柏木から聞いたが、そういえばどんな人物だったか、友人としてどんな日々を過ごしたかまで教えてもらう余裕はなかった。
 柏木の友人が入院している。ミステリー研究会の資料でその名を見つけた後、インターネットで検索して顔と基本情報を再確認した。確かに級友の父親だと一目で納得したが、カメラに向ける表情やポーズは息子が見せないものばかりだった。
 彼らと対峙した悪意の発信者がいるかもしれない。
 あの怪人が関わっている保証はない。
 誰がいてもおかしくない。
(私に何かできることは、あるのでしょうか)
 押したボタンと同じ数字がその上に表示された。
 エレベーターの扉が開き、二人がまず目にしたのは、険しい顔で歩き回る警備員たちだった。飛び交う声は連絡や指示ばかり。関係者以外立ち入り禁止、の文言がまりあの頭をよぎった。
 ところが重孝は迷わずカゴを降り、大人たちの間を突っ切った。堂々とした背中をとがめる者も見やる者もなかった。
 そこでまりあも腹をくくって踏み出した。規制線のように見えたものは大仕事にかり出される人々の緊張感だけで、見舞客を物理的に妨げる道具はなく、ナースステーションに詰める職員も会釈してきただけだった。
 ストレッチャーに乗せられた人がいた。傷だらけの細腕を見た。
 小走りで走ってくる警備員とすれ違った。誰かを探していた。
 誰にも呼び止められず進み、何にも気を取られず角を曲がり、シンプルで美しい扉が並ぶ廊下にたどり着いた。まりあがメモに記された部屋番号を確かめている間に、重孝が同じ番号の扉を開けた。
 夜を切り取った窓と誰もいない部屋とが見えた。
 重孝はノックも呼びかけもせず中へ突入していった。
「えっ、や、柳さん!?」
 まりあはすぐに動けなかった。ルールやマナーや一般常識が手足に絡みついて動きを鈍らせたのだ。今はそんなことを気にしている場合ではないと思い直したときには、扉がひとりでに閉じていた。
「待ってください……!」
 置いていかれる。
 不安が迷いを押しのけ、両手を目の前の手すりに飛びつかせた。行動に出た勢いのまま最大限まで扉を開け、病室の中へ踏み込んだ先に、まりあは予想もしなかった光景を見た。
 身構えた長身の男の後ろ姿。
 水でできた薄い膜のような翼。
 その膜をまっすぐ貫いた細身の刃。
 視線を吸い寄せるものがありすぎて、先に入った年上の同級生の姿が見えないことに、彼女はしばらく気づかなかった。