[ Chapter24「賭ける心」 - A ]

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 掴みかかった手から空気がすり抜けた。
 出したはずの足は何も踏めなかった。
 浮いているのか、落ちているのか。
 夢なのか幻覚なのか――
「よっ。お前も来たか」
 サイガは例の病室にいた。
 目の前に大きなベッドがあり、その端に人が座っていた。
 誰なのかなんて聞くまでもない。痛ましい怪我もその治療の形跡も取り去られた、古い記憶と同じ姿で、そいつは微笑みかけてきた。
「てめえ……」
 わき上がる怒りの種が多すぎて言葉が出てこなかった。
 うなるだけで一息を使い切ったサイガは、拳を強く握りしめながら、その場に踏みとどまった。
「まあ、落ち着け。イライラしてばっかりだと寿命縮むぞ」
「誰のせいだと思ってんだクソ野郎」
 陽介の表情は緩んだままだ。手元に立てかけたカンバスに、ベッドの前で威嚇している我が子に、それぞれ視線を向けると気分良くうなずいた。
 サイガからはイーゼルに支えられた裏面しか見えない。絵の内容が分からない代わりに、絵をめぐる一悶着が意識の片隅をかすめた。
 死神が言っていた。冥府行きを拒んだそいつの傍らには絵があったと。
 昔のものではないデッサンがあったと。
「……それ、絵、だよな」
「もちろん。あとちょっとで仕上がりそうなんだ」
 本人は破り捨てた約束などまるで気にしていない様子だった。
 思えばいつもこうだった。自分の行動や選択がどれほど人に迷惑をかけようと、悪びれる様子も被害者を案じる気持ちもまるで見せようとしない。ポジティブな結果だけを手放しで喜び、他の側面はうやむやにしてきた。
 今もサイガの表情から何も読み取ろうとしていない。
 それとも、分かっていながらわざと無視しているのか。
「覚えてるか、彩芽。昔、俺が菜摘の絵を描いたとき、ちょうどこんな感じの距離感だった」
「知らねえよ」
 正面からの否定に陽介は一瞬だけ顔をこわばらせた。だがすぐ口元に余裕を取り戻し、眉尻を下げた。
「そうだよな。お前、昔からずーっと俺のこと避けてたもんな」
 重く深く息を吐いてから、息子に正対するよう座り直す。
「これ何度も言ってきた気がするんだけど。俺はお前とも話がしたかった。聞きたかったこと、語り合いたかったこと、いっぱいあった」
「俺には全然なかった」
「面白いこともたくさん教えてやりたかった」
「そういう押しつけしかないところが嫌だったんだ」
 陽介の口が開きかけたまま止まった。
 言ったサイガ自身も次の言葉が出てこなかった。
 勢い任せに口走ったそれは間違いなく本音だった。前々から言いたかった数ある文句の一つで、時間と出来事が降り積もるうちに見失った心情の一部だった。
 ほんのひとかけらを言葉にして投げつけただけで、サイガの心の奥にそびえていた氷河が揺れた。
「参ったなあ」
 陽介は道具を握ったままの手で頭をかいた。
「そりゃそうだ。お前の気持ちを変えられるのはお前だけ。俺がどんなにイイコト教えてやったって、お前が乗り気になるモノじゃなきゃ意味ないんだ。……よその女の子にはスラスラ言えたこと、肝心の俺が分かってないって、カッコ悪いな」
「は?」
「ああ、昔の話だぞ。いろいろお悩み相談受けること多くてさ」
 弁解を聞くにつれて、サイガは幼い頃から抱いてきた思いをひとつずつ再認識した。この男が家を出て行ってからの六年間がいかに穏やかで幸せだったか、鏡の中に見ていた敵がどれほど弱い幻影だったか、はっきりと思い知らされた。
「あの頃、俺はお前に、どうすりゃよかったんだろうな?」
 シーツの上に絵具が落ちた。
 どこかで氷塊の割れる音がする。
「普通にしてればよかったんだよ」
 返答が口をついて出た。
 溶けて崩れた破片が転がってくる。
「普通って、どんなふうに」
「普通の親は子供を堂々と浮気のダシに使ったりしない」
 陽介が顔を引きつらせた。
 盛大な波しぶきが押し寄せてくる。
「家に女連れ込んだり学校で友達の親口説いたり。出張とか言って帰ってこない日はほとんど仕事じゃなかったんだろ、ごまかしたって母さんもみんなも気づいてた」
「嘘!? いや待て、それはちょっと誤解が」
「仕事のためなら子供に聞こえるような場所であれこれやるのもアリなのかよ。絶対ナシだろ。あと遠足の途中に無許可でドッキリ仕込んだり、俺がイジメ受けてる現場を盗撮したり、普通の親ならそんな気の引き方考えもしねえから」
 相手の顔色がすっかり変わっていた。
 わかりやすい反応を受けて心が波に乗る。
「俺だって我慢してたわけじゃねえし、何度も言った、迷惑してんだからやめろって。母さんも柏木さんもじいちゃんもばあちゃんも菜摘も、ずっと黙ってたか? 違うだろ。耳を貸さなかったのはお前の方だ」
 画家の手からこぼれ落ちた絵筆が床を跳ねた。
 筆先から飛び散ったしずくは息子の足下に届かなかった。
 あの頃と何かが違う。
 遠い昔の記憶、反省も落胆も見せない男の姿が、サイガの中で薄れていく。
「それは……」
 陽介はしばらく目を泳がせてから、手を使って両膝を揃えた。次の一矢を探すサイガの前で、ベッドに座ったまま、頭を下げる。そしてこう言った。
「すまない、彩芽。今まで迷惑かけ続けたこと、本当に申し訳なかった」
 浪が凪ぐ。
 色を見失う。
「もちろん悪気があったわけじゃない。俺自身が正しいと思ったこと、必要だと思ったことを選んできたつもりだったけど、考えが甘かった。……お前をサリエルに差し出したことも、軽率だった。ごめん」
 頭と膝が接触していそうな姿勢でも、続く言葉ははっきり聞こえた。
 気づけばサイガは握り拳を緩めていた。
「あとちょっとだけ、待っててくれ。こんなこと言っていい状況じゃないってことは分かってるつもりだ。でも、今じゃなきゃダメなんだよ。描きたくてしょうがなかったモノをついに捕まえたところなんだ」
 カンバスは変わらずサイガに裏面を向けた状態でそこにある。
「それさえ済んだら、後はこの身を捧げるだけだ。お前の期待通り地獄行きだろうよ。悪魔を利用して好き勝手やった人間は、後でさんざんこき使われる。それがセオリーだし」
 陽介が背中を起こした。
 何かを砕く音を聞いて途中で止まった。
「……おい? どうした?」
 突然鈍くなった動作にサイガは首をかしげた。しかし同じような音をもう一度耳にして、それが発生したらしい方角を見やったら、彼自身も一瞬動けなくなった。
 閉じた窓ガラスの一枚に穴が開いていた。
 蜘蛛の巣に似たヒビが少しずつ広がっていた。
(割れてる……撃たれてる!?)
 サイガは振り向いた。
 病室の扉は閉ざされている。その手前、つまり室内に、誰かがいた。