[ Chapter24「賭ける心」 - B ]

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 照準も、引き金を引くタイミングも、完璧だった。
 弾道を乱す横風も障壁もないはずだった。
 しかし、敵の眉間を狙ったその一発は、届く前に散った。
 白い仮面の下でコートがはためき、長い袖が空気を薙ぐ。動作は一つ。要する時間もわずか。それだけで空間が歪み、光の弾から威力を奪った。
(忘れるな、ここは奴の領域)
 ウィルは少しだけ深く息を吸い、拳銃を握る指から余分な力を抜いた。
 構え直す暇まではない。自分に向けられた害意を表皮のわずかな違和感から嗅ぎ取ると、借り物の翼を一度だけ羽ばたかせた。
 跳躍した足のすぐ下を銀の刃が通り過ぎた。
 三本の短剣が全く同じ角度で床に刺さった。その軌道はウィルの手足を貫くはずだった直線で、その始点は敵の両腕が明らかに届かない場所にあった。
 仮面の男は現れたその瞬間から一歩も動いていない。
(すべてが奴の手のひらの上にある)
 斜め前、敵との距離を一歩分だけ縮める位置にウィルが着地したとき、短剣は既に消えていた。どれも全く同じ造形と意匠のように見えたが、確かめることはかなわなかった。
 次の刃が現れる気配はない。
 ウィルは再び銃口を正面に向けた。照準器と白い仮面の中心が重なった。まだ指先の力は加えなかった。
 次に来る一手が読めない。
 結界とは技術だ。空間の構造を変質させる小細工だ。その仕掛けの中に飛び込んだ以上、どこから何が牙をむいてもおかしくなかった。設置者サリエルが自在に操れる対象にウィル自身が含まれている可能性も充分にあるのだ。
 しかしそのどれも攻撃の準備をやめる理由にはならない。
(今は間違いなく手加減されている。材料や土台を求めず好きなときに武器を作り出す技があるなら、間髪入れずに俺を刺すこともできるはず)
 照準器の中で仮面が笑っていた。
 無表情の孔と視線がぶつかった。
 そこにいるのは、かつてこの街に恐怖を振りまいた怪人ではない。悪意から生まれたまがい物ではない。
 出来の悪い訓練生の進路を大きく変えた宿敵だ。
 諦めの悪い教官の運命を大きく狂わせた因縁だ。
 だから、自分のために、ここで討つ。
 シンプルな決意を絡めた指で引き金を引いた。
『それでいい』
 低音の声を浴びた魂が粟立った。
 撃ったはずの敵は変わらず同じ位置にいて、撃ったはずの弾は既に消えていた。
 何が起きたのか。ウィルは銃の向きを保ったまま、正面の一点からその周囲へと関心を移し、息を呑んだ。
 白い仮面の両脇に何本もの短剣が浮いていた。どれも切っ先が前方に向けられているように見えた。
 訓練生は霊的素子の「自在な」使用法を考えずにいられなかった。防具同様に具現化させた装備品を取り出したというよりは、最初から空中に造り出しているのだろう。思い描いたものをその通りに実体化させる高度な技で。
『己の攻撃にたいした威力も技巧もないことを今の貴様はよく理解できている。故に驕らず、早まらず、不用意に背を向ける真似もない』
「当然だ。一度も勝てていない相手を侮る兵士がどこにいる」
『では同胞はどうだ?』
 ウィルの視界からすべてが消えた。
 対決に至る道のりを思った一瞬の後、止まっていた時間が動き出した。急加速した短剣が直進してくる。ウィルはすぐ後方に飛び退いたが、着地する前に通過した刃が彼の脇腹を裂いていった。
『貴様の弱さを知らぬ者はない。そして今や、師の背信行為に手を貸してきた事実を知らぬ者もないだろう』
 呼吸を整え、傷口から何かが流れ出る感触をつかの間忘れる。
 姿勢を立て直す前に、大地を揺さぶるような声が傷を刺す。
『見ろ。同胞達は貴様の射程の外から見物している。誰かの根回しの成果ではない、貴様が弱いからだ』
 窓の外は一点の陰りもない光に満ちている。
 濃淡がないとはつまり、結界を貫いた矢がまだ一本もないか、一度開いた穴がふさがれたことを意味する。本当は外からの攻撃が続いている可能性も考えられた。しかし。
『弱い故に貴様は侮られている。測られている。あれは敵意の度合いを見て天の軍勢への忠誠心を試しながら、貴様が返り討ちに遭う時を心待ちにしているのだ』
 ウィルはもう一度、ゆっくりと、武器を構えた。
 半歩退くのではなく前に出て、仮面の中心に狙いを定めた。
 今の言葉が本当なら、目の前の敵に立ち向かっている間は反逆者、落伍者とはみなされないのだろう。
 少なくとも邪魔されることはない。ここではそれさえあれば充分だ。
『来い。この眼が欲しいのだろう?』
 光が弾けた。
 仮面を狙った一発がコートの袖にはねつけられる様を確かめる前に、ウィルは続けて引き金を引いた。手元を、そして足首をめがけて。
 すぐに反撃が来た。広げた翼に風穴が空き、跳躍した身体は切り裂かれこそしなかったが、勢いを御しきれず背中から壁に衝突した。
 邪魔はないが救援も来ない。
 その意味を教えてくれた先輩の気配もない。
(人間が割り込むことも、恐らく、ない)
 ここは病院患者がいて医療従事者がいる。
 ウィルは敵の背後に自身の記憶を重ねた。相応の理由があって留め置かれている入院患者が一日中放置されることなどまずあり得ない。日に何度も看護師や医師が、時には見知った顔がベッド脇にやってきて、傷病の具合を確かめていく。
 しかし今は負けられない対決の最中だ。無関係な人間を巻き添えにしてもウィルに利点はないが、それは相手も同じであるように思えた。
 サリエルの目的は軍勢の撃破でもこの病院の支配でもない。
 ただひとつの勝負を制すること。それに必要な手駒を守ること。
(この病院内には協力者が多いと聞いた。俺以外の敵対者からそれを守るには、中に入った俺の前ではなく結界の外で警戒させる方が効率的だ。足手まといとなりうる人間をわざわざ自分のそばに置く理由は……)
 ウィルは仮定を一つずつ潰しながら次に撃つべきものを探していた。
 そして一つの疑問に照準が合わさった。
(……患者はどこだ?)
 ベッドの上に誰もいない。
 この病室に収容されているはずの人間が、一真が会いに行こうとしていた男が、今回の件で最も足手まといになり得る重傷者が――見当たらない。
 まず疑うべきは目の前にいる敵。先ほど見たあの少年と同じように、得体の知れない異物に呑み込まれてしまったのか。
(もしもそうなら、この場所に結界を置いて居座る理由は何なのか)
 怪人の傍らで銀色の刃がきらめいた。
 ウィルはそれが動き出す前に撃ち抜いた。未完成の刀身が砕け散り、敵の背後に様々な軌道を描いて消えた。
 やっと得た手応えを実感する間もなく次の攻撃が来た。
 迎撃が間に合わない。
 反応が追いつかない。
(今。当たったとき。何かがおかしかった)
 どこを裂かれたか認識しないまま、膝をつき、腕を下ろし、やっと振り絞った力で横へ飛び退いた。
 転がる身体を短剣の雨が追ってくる。軽やかに踊るようなリズムを刻み、床に突き立てられては消えていく。
(ここには、まだ、何かがある)
 ガラスの銃が放った一発は明後日の方向に消えた。
 その瞬間、ウィルは敵の動作とは別の物音を聞いた気がした。