[ Chapter24「賭ける心」 - E ]

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 その男は笑っていた。
 自分が全身に受けた傷を忘れたかのように。
 息子がたった今撃たれたと知らないかのように。
「俺はやりきった。もう思い残すことはない。ありがとう、サリエル」
 言い切った瞬間、陽介の全身を黒い霧が包んだ。無数の虫のようにも、すべてを燃やす煙のようにも見えるそれは、彼の動かない足を支えてベッドから浮き上がらせた。
 まりあは級友を揺り起こそうとする手を止めた。
 ウィルは膝で腕を支えて銃を構えた。
「待て。どこへ行く」
 すると霧の移動が止まり、その中心を切り裂いたような横一線の空間が生まれた。細い線は次第に上下方向へと広がった。
 まりあはそこに光を失った空間を見た。
 ウィルは巨大な瞳に見つめられた。
『いつまで威嚇している? 貴様の目的は果たされた。此処に踏みとどまる理由など最早存在しないだろう』
 声が響いた瞬間、ガラスの拳銃が床に落ちた。
 言葉の意味よりもはるかに重い衝撃が若き天使を打ちのめした。反論も疑問も見失い、そもそも自分が攻撃を続けようとしていた理由も思い出せなくなってしまった。
 そうして惑う間に気づいた。
 邪視。軍勢から持ち出された賜物、祝福と呪縛が宿る眼。
 教官から決して見てはいけないと言われていたものを、今、直視してしまった。そして目をそらせなくなっていた。
 黄金色の輝きばかりが視界を塗り潰し、周囲の様子も判らない。
「あ、あの」
 少女の声がウィルを物質界に引き戻した。
 引き寄せられるように首が回り、床に横たわる人間とその傍らを見た。悪魔が居座り天使がそれを狙う、そんな場面に本来無縁であるはずの彼女は、邪視に魅入られているようには見えなかった。
「どうしてあんたがここにいる?」
「それは……」
 まりあの視線が揺れた。
 柏木の店でウィルが語ったことを間違いなく記憶している。それなのに引き下がるどころか、同じ場所に乗り込んできた。しかも丸腰で。
 無謀かつ無意味ともとれる行動の理由や事情を彼女は語り出さなかった。その代わり、病室を支配するように浮かぶ巨大な眼窩を見上げ、はっきり問いかけた。
「教えてください。あなたは何者なのですか」
「無駄と言っただろう。訊いたところで早晩忘れる」
「わかりません」
 ウィルが言い終える前に言葉を打ち返された。
 宙に浮かぶ空洞に動きはない。
「柏木さんがおっしゃっていました。事故の後、お二人のお友達のことを周りの人たちは忘れてしまって、写真からも姿が消えてしまったけれど。……けれど、お二人は今日まで、お友達のこともあの日のことも、はっきり覚えていました」
 まりあは制服の胸元に手を当てて握りしめた。
 サイガの喉元がわずかに動いた。
「それに、もしも私がこのままあなたがたのことを忘れたとしても、あきらめや後悔といった気持ちは残ってしまうような気がするのです。だから教えてください。私にも決着をつけさせてください」
 ウィルの口から忠告の続きが消えた。
 黄金色の巨大な瞳がまりあを見下ろした。
『人間の娘よ、よく聞け。そこの劣等生が言うことに誤りはない』
 低い声が響いた。
 部屋の床を揺るがす振動のようでも、ベッドの上から患者が投げかける一言のようでもあった。
『そして我輩が何者であるかなど全く無意味な問いだ。貴様が持つ概念にて表せるものではなく、いかに言葉を尽くしても理解できないのだから』
「えっ……そんな……」
『だが一つだけ教えてやろう。貴様が最も強く気に掛けてきた疑問だけを』
 今度はまりあが言葉に詰まった。
 彼女が付け足された一言の意味を考える間に、ウィルは再び宿敵の動きを警戒しようとして、寸前で思いとどまった。同じ呪縛にとらわれまいと首を振り、悩む少女の足下へと顔を向けた。
 薄目を開けたサイガと視線がぶつかった。
 笑ったように見えたのは気のせいか。
「わかりました。では、質問させていただきます」
 まりあが立ち上がった。相手をまっすぐ見据え、胸の上に作った握り拳をほどくと、その手でセーラー服の内側から細い鎖を引き出した。
 銀色のメダルが蛍光灯の光を受けて鈍く輝いた。
「去年の秋、それと先月、あなたは私が持っている道具を渡せと言いました。これのことですよね。もしもあのとき渡していたら、あなたはこれをどうされるつもりでしたか」
 ウィルは耳を疑った。
 サイガの目が惑った。
 二人にとっては初めて聞く話だった。しかし彼女とその問いかけの相手に接点があることは、それぞれが別の事情から知っていた。
 直接対決の目撃者として。
 都市伝説の証言者として。
『より相応しい者に渡すべきと考えていた』
 不気味な揺れを伴う声が答えた。
 しかし首の前でメダルを掲げたまりあは、最初の一音が耳に届く時点から、恐れを全く見せなかった。
『それには何らかの特殊な仕掛け、あるいは加護が封じ込められている。故に我輩が施した防壁も呪縛も貴様には効果を及ぼさなかった、と判断した。事実であるなら、何の力も持たぬ人間の身でそれを持つなど危険極まりない所業』
 鎖を支える指先が震えた。
 何の力もないと言われたときだった。少女の唇に余計な力が入る瞬間はウィルが見ている前で訪れた。
『それさえ無ければ貴様は恐ろしい事件にも命の危険にも関わらずに済んだ。そして真にそれを必要とする者が恩恵を受けていた……しかし仮定の話だ。今となっては最早それを得る必要もない』
「……もう、必要ない……?」
『貴様の前にいるそれも用済みだ。何処へでも連れて行け。二度と我輩の前に現れてはならない』
 宣言が示すものを、まりあとウィルは同時に見下ろした。
 伏していたサイガが左手を床につき、起き上がろうとしていた。その顔は誰の方も向いていない。歯を食いしばり、震える腕に力を込め、上半身を浮かせてみせた。
「大丈夫ですか!? 無理しないでください!」
 まりあは鎖を手放して級友の腕を掴んだ。彼が足を動かし膝を立てるまでは背中を支え、さらにいくつかの段階を経て直立させると、今度は左の脇腹に寄り添うようにして彼の肩を支えた。
「歩けそうですか?」
「あー……多分」
 弱気な一言と裏腹に、その足は力強く一歩を踏み出した。
 歩調を合わせ、普段の半分以下の歩速で病室を後にする二人の人間を、ウィルは黙って見送った。扉を開ける前にサイガが何か言っていたようだが、聞き流すことにした。
『攻撃を封じ、防御を剥がし、急所を叩く。見事な反撃だった』
 割り込んだ声がウィルを振り向かせた。
 ベッドの上に浮遊する目は既になく、黒い影そのものも消え去ろうとしていた。
『師の教えを文言として心得る者は幾らでもいるが、解釈を挟まずそのまま実行しようとする者は多くない。貴様はそのようにして、結果まで出した。落第を宣告された者にしてはよくやった』
 消えていく。それはつまり。
 大事な問題に気づいたウィルは身をかがめ、さっきまで握っていた武器を探した。しかしそこには既にガラスの破片さえなく、物質界を踏み荒らした者たちの痕跡も残っていなかった。