[ Chapter24「賭ける心」 - F ]

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 目の前で倒れた人がいたから助け起こす。
 懸命に立ち上がろうとする人がいたから支える。
 まりあにとっては当たり前の発想で、だからこそ迷いなく行動を起こせた。しかし優しさと勢いと気合いだけでどうにかなるとは限らない。むしろ自分にはまだまだ足りないものがたくさんあるのだと、彼女はこの日思い知らされた。
(お、お、重い……です……)
 気絶から醒めたらしいサイガに肩を貸したまでは良かったが、その肩にのしかかってきた負担は彼女の想定をはるかに超えていた。
 同級生とはいえ男子の体格。しかも運動部で鍛えられた腕と胸筋の持ち主。制服越しに触れていてもその厚みと熱を感じて、なんだか落ち着かない。そんな身体がふらつきながら、暗闇を探るような一歩を踏み出しながら、徐々に体重を預けてくる。
 足は自由に動くはずなのに、運動会の二人三脚より進まない。
 少しでも気を抜けば、まりあまで巻き込んで倒れかねない。
「ちょっと待っていてください。今、ドアを開けます」
 扉に手をかけるのは当然まりあの役目だ。精一杯踏ん張って級友の肩を支えつつ、空けた片手で引き戸を動かすと、冷たい風を頬に感じた。
 足下に段差はない。それでも一応注意を促してから、彼女は病室の外へ一歩を置いた。サイガもそれにならったことを重心の変化と足音で知った。
 二歩目を出す瞬間に彼が口を開いた。
「お前らこそ、どこへでも行ってくれ。じゃあな」
 耳元でそう言ったときの顔をまりあは見逃した。
 顔を上げた彼女の前には、来たときと変わらない明るさの廊下があった。向かいの壁の前に重孝が立っていた。
「柳さん。無事だったのですね」
 重孝は小さくうなずくと、足音を立てずに二人へ近づいた。そしてまりあの手が届かない右側に回ってサイガの半身を支えた。
 フォーメーションを組み直す間に背後で誰かの声がした。まりあにはうまく聞き取れなかったが、会話と言うより呪文のようだった。
(そういえば、ウィルさんは?)
 首の後ろが軽くなったタイミングに乗り、そっと振り向いた。
 窓辺に躍る人影を見た。
 外へ飛び出したようにしか見えなかった。
「待って……!」
 二の腕を強く掴まれた。
 片手で制止した重孝が首を横に振る。そこまで目にしてようやく、まりあは自分まで窓辺に飛んでいこうとしていたことに気づいた。
 どう考えても相手を止めるには間に合わない。そもそも高層階の窓は人が通れるほど開くようにはできていない。冷静な推測は遅れて頭の中に打ち寄せてきた。
「すみません。……行きましょうか」
 返事の代わりに白い手がまりあを解放した。
 そこからは二人が両脇から一人を支える態勢で、廊下を一歩一歩進んだ。体力のない女子だけが支えていた数メートルよりずっと速く、安定を保ったまま、下り方面しかないエレベーターを目指した。
 いくらも進まないうちに後方から何かの機械のアラート音が聞こえてきた。血相を変えて駆けつける看護師たちは誰一人、普通の歩き方をしていない三人に全く気づかないようだった。
 エレベーターホール前の物々しい雰囲気はすっかりなくなっていた。警備員が一人だけ残っていたが、携帯電話で誰かと話していたせいか、奇妙な見舞客には見向きもしなかった。
 下向きボタンを重孝が押すと、即座に正面の扉が開いた。カゴに乗り込む者は彼らの他にいなかった。
「雨宮」
 扉が閉まった後、サイガが口を開いた。
 彼の左腕を支える小さな肩が縮こまった。
「覚えてるか。前に二人で会ったときの話。……確かどっかのファミレスで」
「は、はい、もちろんです」
 まりあは鈴を振るように何度もうなずいた。
 スキー場での事件を受けて呼び出され、当時のことについて訊かれ、謝られた。そして困らせてしまった。おまけに暴走車から守ってくれた。
 忘れられないほど強烈で、忘れたくなるほど心苦しい。
「あのときお前、何か言いにくそうにしてたこと、あっただろ」
「ひっ」
 思い当たる節はある。彼が知りたがった内容を覚えていたのに黙秘した。もっと正直に言えば、直接的でない答え方を探して、結局諦めた。そして泣いてしまった。
 そうするしかなかった理由はもちろんあるが。
「さっきのでなんとなく分かった。お前、あいつに脅されてたんだろ」
 言い当てられた。
 鼓膜が凍りかけた。
「お前がいつか見たっていう怪人、要するにさっきあそこにいたあいつのことだよな。それで自分のことは誰にも言うな、もし言ったらこうしてやるとか何とか言った。それでビビって、俺に聞かれても言えなかった。だろ?」
 まりあはおそるおそる顔を上げた。
 隣にいるサイガは疲れた顔で扉を見つめていた。
「別に責めてるわけじゃなくて。だいたい俺も人のこと言えねえし」
「えっ?」
「あのときお前を呼び出して、話をしたのは……まあ謝りたいのは本当だったけど、もともとはあいつの指示だった。お前のこと調べろって命令されてた」
 サイガが下を向いた。
 右隣の重孝は階数表示を見上げている。
「マジで何するかわかんねえ奴っていうか。俺の首に変な首輪巻いて、逆らったら首締めるとか平気でやってたし。知らない間に俺の体を操って勝手なことしてるし。だから、雨宮に言ったことも、本気で実行したかもしれない。あのときは黙ってて正解だ」
 すべてが本当ならあの対面は何が目的だったのか。メダルの秘密を聞き出すため、口の堅さを試すため、それとも。
 真実に近づくチャンスは訪れそうにない。しかしここには一つの事実がある。
「今は、その、首輪? 着けていらっしゃいませんよね」
 順調に降下していたカゴが静かに止まった。
 開いた扉の先に一階のエレベーターホールが現れた。ところが三人とも最初の一歩を出そうとせず、肩を組んだまま固まっていた。
 両端の二人が視線だけで譲り合いを続け、ようやくまりあが先陣を切って前に出た。閉じかけた扉を押し返しながらカゴを降りた後も、彼女に合わせるような歩みと寂しい沈黙がしばらく続いた。
(何か、気にしていらっしゃることに、触れてしまったのでしょうか?)
 まりあは前方へ気を配りながら首を回し、サイガの襟元を見た。
 出会ったときから少なくとも先日の期末試験まで、彼はいつも黒いベルト状のアクセサリーを首に着けていた。生活指導の先生からは髪色について何度も指導を受けてきたのに、不必要な装飾品にも話が及ぶところを、そういえば聞いたことがなかった。
 今そこにアクセサリーは見当たらない。身につけていた位置に沿って、首の皮膚が真っ赤に染まっているだけだ。
 状態も、その原因も、痛々しい。
「あら?」
 進行方向から女の声が聞こえた。
 慌てて正面に向き直ったまりあの前に、覚えがある顔の人物が二人いた。
「えっと、確か……稲瀬さん?」
「久しぶりね。元気そうにしてるみたいだけど……」
 稲瀬刑事とその相棒は、肩を組む三人を明らかに不審な目で見ていた。
 まりあにとっては昨年秋、怪人ルシファーにメダルを奪われかけた、まさにその夜に出会った人たちだ。事情聴取を二度ほど受けただけだったが、その後に家まで送り届けてくれるなど親切にしてくれたので覚えていた。
 しかし隣のサイガには違う事情があるらしい。支えられた身体をよじって逃げようとして、重孝に取り押さえられていた。
「あの、稲瀬さん。今日はお仕事ですか?」
「そうそう、もちろん。ちょっとこれ見てほしいの」
 何か思うところがあったらしい稲瀬は、まりあの一言で自分の用事を思い出したらしい。上着のポケットに収めていた写真を三人の前に提示した。
「この男たちを見なかった? ある事件の重要参考人で、ここに来たらしいんだけど」
 一枚は何でもない街角の風景だった。
 一枚は無地を背景に、ついさっき窓の外に消えた金髪の男が写っていた。