忘れられない光景を胸の奥に仕舞って生きる人間は大勢いる。
いつからか、西原彩芽にとってのそれは、ある男の葬儀に立ち会った時間になっていた。
身内だからではない。行方不明になったとき死んだものと信じていたほど嫌いだったからではない。そんな関係性をひとときでも忘れさせてしまった出来事を、彼は一枚の絵を見るたびに思い起こしていた。
『こんなものを描いていたなんて、私たちにも教えてくれなかった』
画家であった男を弔う祭壇には美しい花と愛用の道具が飾られた、ここまでは普通だ。しかしそれらの両側には無数のカンバスが整列している。室内ではスペースが足らず、廊下にまで絵画が並べられ、ありふれた斎場を小さな展覧会へと変えてしまっていた。
中でも参列者の目を引いたのが、廊下の角に一段高く飾られた一枚の絵だった。
『だから、何をイメージしたかはあの人しか知りません』
扉を押し開け退出しようとする男の後ろ姿。
わずかに振り返り、冷めたまなざしを向けてくる顔。
横から差し込む陽光が、男の背に翼を与えたようにも見える、光の色彩。
足下や扉の向こうから忍び寄り、男の手をさりげなく掴む、闇の色彩。
ある人は美しいとため息をついた。
ある人は険しい顔で首をひねった。
『誰をモデルにしたのかはすぐ分かったんだけど……』
彼が見ていた限り、通りかかった人のほとんどがその絵の前で足を止め、残りもそこを通り過ぎるまでずっと目で追い続けていた。全く見向きもしない人は一度も見つけられなかった。
火葬後の精進落としの席では、その絵について話す声を何度も聞いた。作者の妻を褒めちぎり握手を交わす人もいた。
それはどうやら、故人が最後に残した作品であるという価値とは無関係の評価らしい。
今、その不思議な絵はサイガの前にある。
話題を呼んだ画家の遺作は多少の注目を集め、翌年には美術館へ収蔵される話がまとまりかけた。しかしその候補地や関係者が次々と小さな不幸に見舞われる間に白紙となり、代替案についても大いに揉めた末、結局は作者の親友が借り受けて店に飾ることとなった。
大人たちが一枚の絵に翻弄される間に、サイガは望み通り平穏な日常を取り戻した。卒業、進学、留年、就職、結婚。未曾有の震災が仕事に打撃を与えたことはあっても、人間の理解が及ばない怪異に悩まされることはなくなった。
月日は確かに流れた。
人々の記憶は風化した。
彼が「事故」によって右腕の機能を喪失した衝撃や苦労は、やがて過去になり、日常の一部になった。
彼に年の離れた弟がいた記録や痕跡は、やがて薄れゆき、誰にも探せなくなった。
生まれ育った家だけが辛うじて変わっていない。座して床の間に向き合う姿勢から回れ右をすると、強い日差しを浴びる庭が目に入る。背景のプレハブ小屋も含めたすべてが見慣れた夏の景色だった。
(そうだ、あれから……あいつの事故から、もうすぐ十年)
正面へ向き直り、床の間へ置くには場違いな額縁入りの絵を、改めて仰ぐ。
ついに返品されたというわけではない。それを飾っていた店が半月前の大雨で浸水被害を受け、復旧ついでに改装するというので、その間だけ預かっているに過ぎない。
(これだけたってもまだ迷惑かけるって、ホント最低な奴だな)
蝉の声に控えめな足音が混ざった。
板張りの廊下のきしみ方だけで、サイガには誰が近づいてきたかすぐに分かった。
「あ、やっぱりここにいましたね」
障子の横から顔を出したまりあが柔らかく微笑んだ。その胸に抱かれた乳児は眠っているのだろうか。
「どうした?」
「お客様がいらっしゃいました」
人と会う約束があったような覚えはない。
誰が、と尋ねようとしたサイガは、彼女の後ろを見た瞬間にその一言を取り落とした。
いつの間にか長身の男がそこに控えていた。暑い盛りなのに長袖の背広を着込み、それでいて暑苦しさを全く感じない。帽子を目深に被ったその人物は小さく会釈をすると、慎重に鴨居をくぐって部屋へ入ってきた。
医学部へ進んだという年上の元同級生の姿がサイガの脳裏をよぎった。しかし何かが違うような気もした。
「今、お茶をお持ちしますね」
「両手塞がってんじゃねえか。俺が行く」
「大丈夫です」
立ち上がりかけたサイガをまりあが即座に止めた。
さっきまでぐずっていた子供の心配、片手しか使えない不便さ、手助けしてくれる彼の母親の不在。互いが様々な理由を持ち出して相手を引き留めていると、横から別の声が割り込んだ。
「必要ない。二人ともそこに座ってくれ」
気遣いと意地が静かに吹き飛んだ。
言われるまま元の位置とその隣へ着座した二人の前で、客人が帽子を脱いだ。汗に濡れた白い肌とプラチナブロンドの髪が揺れた。
サイガは無意識に右手を掴んでいた。
「お前……確か、あのとき病院にいた……」
「はい。ウィルさんです」
まりあは嬉しそうにしていた。玄関前で出会った時点で彼女は客人の正体に気づき、だからこそ約束もないのに招き入れたのだろう。
「どうやら父親と違って道を踏み外さなかったようだ」
「そんなの……」
当たり前だ、と言いかけたサイガをわずかな違和感が止めた。
不貞や裏切りこそ自信を持って否定できるが、他に何もなかったかと疑えば少しは考えてしまう。怒りも恨みもねたみも、騒ぎの火種にならなかっただけに過ぎないし、なかなか無縁ではいられない。
それでも平穏に生きてこられたのは、周囲の助けや忠告を素直に受け入れてきたからだろう。思えば思うほど、危険な道に惹かれる理由より立ち止まれる理由の方が多かった。
たとえば失った腕を補うように勉強や生活を手伝ってくれた友人たち。
家庭環境や過去を詮索せず普通に接してくれた職場の人々。
中でもひときわ多く手を差し伸べてくれた、隣に座るかつての級友。
彼女の腕に抱かれた小さな命。
「安心しろ、今日ここへ来た理由はあんたへの説教じゃない。そこの赤子だ」
ようやく腰を下ろしたウィルがまりあの手元を示した。
指の向きを視線でたどった二人の前で、乳児が静かにまぶたを開けた。輝く琥珀色の瞳は涙に潤むことなく、己を囲む大人たちを交互に見た。
この家で半年ばかり暮らした子供の生意気な顔を、サイガは一瞬だけ思い浮かべ、それから己の発想に驚いた。
「あいつらと何か関係あるからこの色だって言いたいのか」
「現時点ではあんたを介したつながりだけだが、その先の保証はない」
ウィルは武器を持っていない。しかし二人にはその眼光が既に狙いを定めているように見えた。
「かつて草薙一真が友人に羽根を分け与え、死すべき者が生き返った。その羽根を遺伝子と共に引き継いだ故、あんたは父親の存在を正しく認識できなかった」
幼子が首を倒して天井を仰いだ。
まりあが息を呑み、背筋を伸ばした。
「この赤子もいずれ突拍子もないことを言い出すだろう。しかし拒絶してはならない。親であり続けたければすべてを受け入れろ」
「できなかったら?」
「俺が連れて行く。その目は然るべき所へ返す。今回はそのために遣わされた」
宝石のような目が外から差し込む光を映した。
サイガは座り直して正面を向き、わかりやすくひと呼吸を入れた。
「言われなくてもそうしたかもな。でもその前に……何がどうしてこうなったか、俺にも分かるように全部話してくれ。何も知らないまま付き合わされるのはもうごめんだ」
「いいだろう」
天使の視線が険しさを帯びた。
「まずはあの事故の話から始めようか。あれは今から十年前、八月末のことだったな」
End