[ Extra1「君の名前」 - A ]

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 桜舞う空の下。
 中学校の正門には「入学式」の看板が掲げられていた。真新しい制服姿の少年少女が続々と門をくぐり、これから三年間を過ごす学び舎へ向かう最初の一歩を踏み出している。彼らがまず向かったのは、校舎の前にできた人だかりだった。
「あった! ここだここ、同じクラスだ!」
 クラス分けを発表する張り紙の前には既に大勢の新入生が群がっている。
 その中に沼田次郎(ヌマタ・ジロウ)がいた。彼はもう十分ほど、押し寄せる人波に乗って漂流し続けている。同期となる新入生の中でもひときわ体が小さい沼田にとって、育ち盛りの体と張り紙への関心によるスクラムはとても強固な壁だった。
 混雑のピークを過ぎてから、ようやく沼田は掲示板の前に辿り着いた。目玉が飛び出しそうなほど大きくまぶたを開き、横一列に並ぶ張り紙を片端から見ていくと、一組の枠の中に自身と友人たちの名が印字されているのが見つかった。
「よっしゃ! 今度も一緒だ!」
 テンションが上がったついでに、同じ枠に連なる他の名前も見ていく。沼田が知らない名前も多かった。この中学校には近隣の三つの小学校から生徒が入ってくるので、おかしなことではない。
 親しい友人の名を全部見つけ出し、満足した沼田が掲示板を離れようとした、その時。
「見て、ここにいたわ」
 沼田の目の前を細い手が横切った。
 美しい指先は一組の張り紙に向けられていた。指し示した行は、沼田の名の一つ上だった。
(西原、……彩芽(アヤメ)?)
 下の名を解読するのに十数秒かかった。その間に指先が引っ込められ、その手の持ち主は掲示板の前を去っていた。輝くような長い黒髪を持つ少女だった。
「ま、待って!」
 沼田は自分でもよくわからない興奮を抱き、少女の後を追った。
 だが気持ちの高揚はすぐ急降下に変わった。彼女が声をかけた相手が男で、しかも親しげに話しながら一緒に歩いていることに気づいたからだ。
「また三人とも同じクラスね。そうだ、実隆(ミノル)くんは?」
「確かあっちの方に……あ、いたいた。おーい」
 美人の横に並ぶいけ好かない奴もどうやら一組の生徒らしい。そいつが誰かに手を振った。
 少し離れた場所で手を振り返す人に気づいた沼田は、同じ場所に見知った顔も見つけ出した。
「池幡(イケハタ)!? 今までどこにいたんだよ!」
「なんだ、もう来てたのか。探しても見当たらないから、てっきり小学校の方へ行ったものと」
 駆け寄った沼田を見て、池幡信吾(シンゴ)は骨張った顔にわざとらしく“悪い笑み”を浮かべた。一緒にいた数人の新入生がつられたように笑った。
「失礼な! ちゃんと途中で思い出したわ!」
「ホントに間違えたのかよ!」
 一同、爆笑。
 沼田は両手を振り上げ、直後に頭を片手で押さえつけられた。頭二つ分背の高い池幡に捕まったのだった。
「そうそう、こいつがさっき話した沼田。よろしくな」
 そして強制的に頭を下げさせられてから、沼田は池幡の周りにいる新入生の誰とも面識がないことに気づいた。
「ん? そういや、池幡の知り合い?」
「いや、今知り合った」
 顔を上げた沼田に、池幡は周囲の少年たちを端から順に紹介した。それでもさすがに短い時間では全員を覚えきれなかったらしく、途中からメガネを掛けた少年が紹介を引き継いだ。さっき遠くから手を振り返していた人だった。
 そして順番は、沼田と同時に人の輪に加わった、メガネの少年と仲がいいらしい二人に巡ってきた。
「山口幹子(ミキコ)です。よろしくお願いします」
 あの少女が名乗った。沼田は耳を疑った。
 指さしていた名前と違う。どういうこと?
 視線は話の順番に従って、彼女の隣へと向けられた。あのいけ好かない奴に。
「それじゃ、君が……西原?」
「そうだけど?」
「えっマジ? じゃあ、名前、アヤメなの!?」
 沼田が最後の一言を口にした瞬間、彼らの周辺だけ空気が止まった。
 新入生たちの反応はまっぷたつに別れた。池幡とその隣の一人は困惑しているようだった。一方で幹子とその友人を含めた何名かは、嘆きやあきらめを思わせるため息をついたり、気まずそうに目をそらしたりした。
 そして、名乗る前に呼ばれてしまった本人は、というと。
 鬼神のような形相で沼田を見下ろしていた。
「あっ……いや、その、なんていうか……」
「……実隆。俺ちょっと頭冷やしてくる」
「う、うん、分かった」
 彼は沼田に対しては何も言わず、実隆と呼ばれたメガネの少年にだけ言い残し、体育館の方向へ足早に去っていった。
 何かマズイこと言った?
 呼んだ側の疑問符は顔に大きく浮かび上がっていたらしい。田坂(タサカ)実隆は沼田と池幡の表情を交互に見てから、遠ざかる友人の背中へ視線をやった。
「もしかして沼田くん、クラス分けの名簿見た?」
「へ? あ、うん、見た。さっきそこで、えーっと山口さんが、指さしてたから……」
「やっぱり。先に漢字の名前見た人はみんな同じように言うんだよね。色彩の『彩』に芽生えの『芽』で“アヤメ”、確かにそういう人も実際いるけど、あいつに限っては“サイガ”って読むんだ」
「……………えっ」
 説明を受け、しばらく考え、やっと沼田は自分が大失敗を犯したことを理解した。
「なるほどな」池幡が沼田より数段先の納得を示してうなずいた。「まず読めないレアな名前で、しかも知らない奴が頑張って読もうとすれば、出てくるのは女の名前か。それはつらすぎる。後で謝りに行くよ」
「いいよ、悪気はなかったみたいだし。本人も多分それはわかってる」
 実隆はメガネのフレームに触れながら言った。彼と同じ方に顔を向けた池幡は、一度下ろしていた手を再び沼田の頭に載せ、前後に揺らした。
「沼田。わかってると思うけど、冗談でも名前のことであいつをイジるの禁止な」
「へーい……」
 言われなくてもそんなことをする気にはなれそうにない。
 沼田は自分を睨みつけた刀剣のような目を思い返し、身震いした。

 

 それからしばらくの間、沼田は西原彩芽が苦手だった。
 初対面で地雷を踏んだ気まずさが尾を引いていたのは間違いない。しかしそれを抜きにしても、その少年がまとう異様な空気は元来脳天気な沼田でさえ感じ取れて、しかも身構えずにいられない危険なものだった。語彙が足りない沼田には、ピリピリした感じ、としか説明できなかったが。
 あるとき話を聞いた池幡は、表現が適切かどうかは別としつつも「言いたいことはわかる」とうなずいた。
「確かにサイガは何か、こう、楽しい話してるときもどっかで冷めてるっていうか、そういうときがある。笑うときは笑うけど、一瞬真顔になるとか、な」
「ふーん。……って池幡、あいつのこと名前で呼んでるよな? 実は意外と仲いい?」
「名前? あぁ、同じ小学校だった奴らがみんな下の名前で呼んでるから、自然にうつってた」
「なるほどー?」
 字面のことだけ目をつぶれば、ちょっと珍しいけど悪くはない名前だ。
 余計なことさえ考えなければ、普通に仲良くなれるのかな。
 沼田は頭の片隅でそんなことを考えた。そうすると興味も出てきて、話ついでに池幡へ助言を求めてみた。
「いきなり普通に話しかけても大丈夫? いけそう?」
「は? 別に話しかけるのはいいだろうけど、あっでも待て……いいや、なんでもない。忘れてくれ」
「なんだよそれー……」
 煮え切らない反応が腑に落ちなかったが、沼田は細かいことなどすぐに忘れ、次の日にはさっそく話しかけてみようとした。しかしいざ本人を前にすると、何故か普段の明るさや図々しさが音もなくしぼんでしまい、何もできなくなってしまった。
 悔しさだけを残して時が過ぎた。
 出席番号が隣同士の二人は顔見知り以上の接点を持たず、直接会話することもないまま、一学期の終業式を迎えた。