[ Extra1「君の名前」 - B ]

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「な、今度の日曜、海行かない?」
 池幡が沼田に声をかけてきたのは、一学期の最後のホームルームが終わった直後のことだった。
「……ふたりっきりで?」
「バカ。みんなで行くんだよ」
 もちろん行く、と沼田は即答した。返事を持ち帰った池幡は沼田の知らないところで話をまとめ、翌朝には具体的な計画を知らせてくれた。
 参加者は男女合わせて十数人の同級生たち。池幡を含め数人の親が車を出してくれるという。この時期の海水浴場はどこも混むので早めに行こうという方針から、集合は学校の最寄り駅の前に朝六時と決まった。
「ちょっとでも遅れたら置いてくからな」
 池幡は何度も強調した。

 ところが当日になってみると、時間を守ったのは池幡の他に数名だけ。五分遅れで駅前に現れた沼田を責める者はいなかった。
 結局、全員が揃ったのは約束の三十分後。おまけに予定よりも人数が増えていたことがわかり、分乗する車の座席を組み直すため、出発はさらに遅れることとなった。
「お前ら水泳部だろ? 夏の大会の練習は?」
「どっかのバカがプールサイドの水道管壊したから明日まで休み」
 暇だと言ったら誘われたと話す飛び入り参加者の横で、沼田は反射的に身構え、それから必死に首を横に振った。
 よくバカ呼ばわりされるけど今回は自分じゃない。身に覚えがない。
 深呼吸しながら自分に言い聞かせていると、冷たい視線の存在に気づいた。
 西原彩芽に見られていた。
「…………げっ」
 沼田はそそくさと逃げ出し、池幡の背中にしがみつくようにして隠れた。
「池幡! あいつも来るなんて聞いてないよ!」
「悪い、こっちも知ったのさっきなんだ。そういやサイガも水泳部だったな」
 なんでもないように言う池幡を見上げた沼田は、急に情けなくなり、Tシャツを掴んでいた手をそっと離した。

 

 山と丘に囲まれたニュータウンから、県境と渋滞を乗り越え、南へ。
 色とりどりのパラソルで着飾った海岸が見えてくる頃には、遅刻のことも飛び入りのことも忘れ、誰もがはしゃぎだした。連なって走ってきたどの車もにわかに騒がしくなり、運転手同士の連絡が取れないほどだった。
「よーし、遊ぶぞー!!」
 海水浴場に到着した一同は着替えたあと、まずはひとしきり泳ぎ、それから砂浜に集まってビーチバレーを始めた。
 誰かが持ってきたボールには何か仕掛けがあるらしく、なかなかまっすぐに飛んでくれない。大きなカーブを描いて海面に落ちていったかと思えば、他のグループが遊んでいるところへ転がっていくこともあった。
「そっち行ったぞー」
「ほーい」
 沼田は仲間の合図を受けて両手を伸ばした。が、無常にもボールは彼の頭にあたってバウンドし、そのまま背後へ飛んでいった。
 ヤジと日差しを背中に浴びながらボールを追いかける。しかしボールは砂の起伏に引っかかって逃げる方向を変え、日陰に転がり込んだ直後に誰かに拾われた上、沼田に手渡されることなく目の前を素通りした。ずっと後ろで声を上げる仲間たちの方へ投げられたらしい。
「あ、どーも……」
「お前は戻るな。そこに座って休んでろ」
 仕方なく手ぶらで戻ろうとした沼田を日陰からの声が引き止めた。
 振り返ると、見覚えのあるパラソルの下に西原彩芽が立っていた。
「な、なんで? オレ全然疲れてないよ?」
「のぼせてんだよ。鼻血出てる」
「…………うぇ」
 開いた口に血の味が滑り込んできた。

 すすめられてビニールシートの上に座ってから気がついたことだが、そこは沼田たちが海へ繰り出す前に荷物を置いて行った場所で、見覚えがあって当然だった。しかし最初にそこでくつろいでいた大人たちは一人を残してどこかへ行った後で、その残りの一人も沼田に荷物番を託して海の家へ向かってしまった。
 鼻を押さえて体育座りをする沼田の隣で、呼び止めた方は足を伸ばして座っている。
 熱風が吹き荒れていた。日陰にいるのにちっとも涼しくなかった。
「……な。お前は……西原は、みんなのとこ行かないの」
「サイガでいい。そっちの方が呼ばれ慣れてる」
「えっ」
 呼び方のことは聞いていたが、本人から言われるとは思っていなかった。
 沼田が面食らう間に質問の答えが来た。
「そろそろ行ってもよかったけど、お前のことほっとくわけにもいかないだろ。一人にして何かあったらやばいし」
 つぶやいたサイガの表情は冷たかったが、声は以前感じたほど冷たくなかった。もちろんそれは沼田の勝手な感想だ。言われたこと自体の意味はあまり気にならなかった。
 沼田は相手の顔をチラッと見てから、視線を落とした。
 毎日屋外で泳いでいるからだろう。夏休みの序盤だというのにサイガの身体は既に浅黒く、しかも格好悪い半袖焼けのラインがなかった。元々の肌色は海パンの裾に少し見えるだけだ。暇さえあればネットサーフィンばかりしている自分の肌とつい比較してしまって、並んで座ることがなんだか恥ずかしくなってきた。
 再び顔を上げると、変なものに出くわしたような目で見られていた。
「あっ、いや、今の別に何も……」
「?」
「だからー、えーと……そうだ! 入学式の時、本当にごめん!」
 挙動不審の連鎖をごまかそうとした結果、声が途中から裏返った。気まずさ倍増。沼田はとりあえず頭を下げ、相手の対応を待った。
「……あぁ。あの時の話。思い出した」
 聞こえてきたのは少々意外そうな反応だった。
「別に気にしてないから。顔上げろよ」
「あ、そう?」
 沼田は素直に頭を持ち上げた。直後、喉の奥を血の塊が滑り落ちていき、激しくむせる。
 大丈夫か、と聞いてくるのが男だからまだマシだった。これで隣にいるのが女子だったら、しかも気になっている子だったりしたら、最低クラスの無様さだ。
「大丈夫、大丈夫……ハハッ……」
 前を見ていられなくなって、海の方へ視線を向けた。
 ひときわ大きな波が浜辺に打ち寄せていた。どこかで無邪気な歓声が上がった。
 パラソルの下ではしばらく沈黙が続いた。
 先に空気を動かしたのは、サイガだった。
「そういえばお前の下の名前、何だっけ」
「へっ? ……あっ、ああ……」
 突然話をふられ、沼田は慌てた。しかし迷おうにも答えはひとつしかない。
「……『次郎』。次男だから次郎。もう何のひねりもなくてさ、つまんないだろ?」
 鼻から手を離し、息を吸い直しながら笑う。
 そんな沼田の横顔を見たサイガは目を伏せた。
「そんなことない。俺もそういう普通の名前が良かった」
「えー、普通なんて全然面白くないよー? それにサイガって結構かっこいい名前だと思うけど」
「耳で聞いてる分にはな」サイガは足元の砂を見つめた。「でも現実はもっとめんどくさい。あの時のお前みたいに、みんな堂々と間違うから。あの読み方で、病院とかで大声で名前呼ばれてみろよ」
「病院……」
 沼田は先月行った大学病院の待合室を思い浮かべた。
 西原アヤメさん。呼ばれて立ち上がる制服姿の中学生男子。
 二度見で済ませられそうな自信を持てなかった。
「……やばいな」
「それが一生続くんだ。最悪だろ。正直、今からでも変えられるものなら変えたいと思ってる」
 名前を変えるなんてできるんだろうか。沼田にとっては完全に知らない世界だ。
 サイガは手を伸ばして、届いた砂を握りしめた。
 沼田は手のひらに収まりきらない砂が落ちていくさまを眺め、それから、思いついた疑問を口にした。
「どうしてそんな名前になったの」
 砂を握る拳が震えた。
 沼田の脳裏を入学式での失敗がよぎった。