[ Extra1「君の名前」 - C ]

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「あ、もしかして、聞いちゃいけなかった?」
「別にそういうわけじゃないけど」
 サイガは握り潰していた砂を解放し、手のひらを擦り合わせた。
 その表情が硬い。こういう顔をつい最近どこかで見た、沼田はそう思ってから、三者面談直前の教室前の緊張感を思い出した。
「……その、俺の名前決めた奴が、ものすごくいい加減な性格しててさ。腹の中調べもしないで、生まれるのは女だって自信満々に決めつけて、それで彩芽(アヤメ)って名前勝手に決めて呼んでたらしい。どういう意味込めてたんだか知らないけど」
「でも、生まれたのは……」
「せめて周りは予想ぐらいしとけって話だよな」
 ついてる可能性ぐらい、とサイガは鼻で笑う。
「期待は大ハズレ。じゃあどうする、普通ならそこで一から名前考え直すところだ。なのにあいつは何を思ったか、他の提案全部却下。結局読み方変えただけで押し通して、俺は彩芽(サイガ)になった。以上」
「そんなめちゃくちゃな……」
 沼田は何と言えばいいのかわからなくなった。
 自分の親の適当さがまともに見えるなんて初めての経験だった。
 話を終えたサイガの表情を伺うと、話し出す前と同じで、少しも晴れていなかった。人は嫌な思いを抱えていても吐き出せば楽になる。この前どこかのウェブページで読んだ知識が本当なら、まだ心に何か重たいものを抱えているのかもしれない。
「……その、名前考えたのって、親じゃないんだよな?」
 フォローの手がかりを求め、曖昧な表現にとどまっていた部分に踏み込んでみた。
「父親だよ」
 沼田の目論見は外れた。
「えっ、父親……お前の?」
「俺は親だと思ったことなんか一度もないけどな。勝手に居座って、勝手に出てった。呪われてるとか何とかってわけわかんない手紙残して。そういう奴に名前つけさせた俺の家族も絶対どうかしてる。……何言ってんだろうな、さっきから」
 ようやくサイガの表情が少しだけ緩んだ。
 沼田は自分の血をウェットティッシュで拭った後の手で、サイガの背中を軽く叩いた。
「いいじゃん、言ったって。楽になろうぜ」
 驚いた顔のサイガが、沼田の背後に何かを見つけ、顔を上げた。その動作で気づいた沼田も同じ方向へ振り返る。
 同級生の親たちが戻ってきたところだった。
「荷物番ご苦労様。鼻、大丈夫? もうすぐお昼ごはんにするけどそれまで休む?」
「もう全然、この通り! 飯の時間までもうちょっと遊んできます!」
 沼田はパラソルの下を大人たちに譲るように立ち上がり、ついでにサイガの腕も引っ張って立たせた。
「サイガももちろん行くよな?」
「え?」
「変なことぐだぐだ考えてないで、遊ぼう。中一の夏は一度しかないんだぞ!」
 言うが早いか、沼田はサイガの手を取ったまま走り出した。
 灼熱の砂の上でそれぞれの友達が手を振っていた。

 

 日没の少し前、風が穏やかになるまで、彼らは海を楽しんだ。
 帰路についた車の中は往路よりずっと静かで、大半は中学生たちの寝息だけが聞かれるような状態だった。しかし一台だけ、一時車内が騒然となる事態が起きていた。
「おいマジかよ。マジでお前、サイガにその話振ったのか!?」
 ワゴン車の後部座席の隅に押し込められていた沼田は、隣と前の座席から一斉に浴びせられた視線の矢におびえて更に縮こまった。
 パラソルの下に二人でいたのを見られていたと聞いて、話の内容を尋ねられたから、簡単に答えただけなのに。
 中列の席に座る池幡に表情で助けを求めると、渋い顔で「やっぱり先に話せば良かったな」と言われた。
「言ったら逆に破りそうだったから黙ってたんだけど。あのな、サイガに親父さんのこと聞くのはNGなんだ。直接話を振らなくても、目の前で話題を出すの自体アウトらしい」
「そんなん知るかよ! ……でも、なんで?」
「そういやなんでだ?」
 池幡も理由までは知らなかったらしい。首を傾げられてしまった。
 どういうことなのか。沼田が説明を求めて隣を見ると、クラスメートの一人が表情の消えた顔で窓の外を見つめていた。
 同様に困惑する池幡とふたりして車内を見回し、視線で助けを求め続けたら、助手席に座っていた別のクラスの生徒がようやく振り返った。
「沼田くん。結構昔の話なんだけど、『呪いのオブジェ』って覚えてる?」
「あれだろ、イベントで地元の芸術家のグループが街のあっちこっちにでっかいオブジェ飾ったら、次の日から雷落ちたり竜巻来たり突然発火したりしてほぼ全滅したって事件。それがどうしたの」
 沼田はネット掲示板で何度も読んだ話をすらすら答えた。それは彼らが小学校に上がった頃の出来事だったが、知識だけなら今はとても簡単に入手できる時代だ。
「さすが。お前ホントそういう話大好物だもんな」
 誇らしげな顔に対して池幡がくれたのは呆れた視線だった。
 むっとして吠えそうになった解答者を視線で押しとどめ、助手席からの証言は続く。
「そのグループの一員で、壊れたオブジェ全部に関わってたのが、サイガのお父さんなんだって」
「何っ!? 言われてみればなんかそんな苗字が話に出てきた気がする!」
「なんだ、そこまで知ってたんだ。で、その人は他にもそういう妙な騒ぎをいろいろ起こしてて、そんなのを親に持ったせいでサイガは昔から散々な目に遭ってるんだよ。一緒に巻き添え食った友達もいる。それで事情知ってる人はみんな、あいつの前で父親の話は禁句にしてるっていうわけ」
「えー……そんなぁ……」
 名前をネタにすること以外にもタブーがあったなんて。しかも個人的にはものすごく気になる理由で。
 肩と背中の力を抜いて丸くなった沼田に、ようやく遠い世界から帰ってきた仲間が尋ねた。
「様子どうだった。話すの嫌そうにしてただろ」
「いや、そーでもなかったけど。名前の話とか、置き手紙残していなくなったとか、そういうことちょろっと聞いただけで……」
 沼田が具体的なキーワードを持ち出すと、友達は皆で顔を見合わせた。
「置き手紙?」
「聞いたことある?」
「いや……行方不明になったっていうのは聞いてたけど、細かいことは全然……」
 ぼそぼそと情報交換が始まる中、沼田は顔を上げ、座席の後方のリアウィンドウへと振り返った。
 夕暮れの色に染まった海はもうとっくに見えなくなっていた。
 今、その席から見えるのは、彼らが乗るワゴンを追走する車。話の情報源にして当事者は、確かその車に乗っているはずだった。
「いなくなったって聞いた頃も、触れちゃ悪いと思って、とにかく言わない、思い出させないようにしてたもんなぁ」
「へぇー……」
 みんな優しいんだな、と、沼田は平凡なことを思った。
 そこまで心配されてたこと、本人は知ってるのかな。どう思ってるだろう?
 ま、いっか。

 

 その日以来、沼田はサイガと何の遠慮もなく話せるようになった。
 漫画の貸し借りもしたし、水泳部の活動が落ち着いてからは一緒に遊ぶことも増えた。学期末には成績を競い合った。
 後にサイガが名前の他にもう一つコンプレックスを抱えていることが判明すると、沼田はいち早く動いた。努力でどうにかなる問題なら力を貸したい。ない知恵の代わりに振り絞った熱意は周囲を動かし、やがてサイガを刺々しい表情から解き放つことにつながった。

 

 そして、あの幸せな夏の日から三年と少し後。

 西原彩芽は長らく行方不明だった父親の消息を意外な形で知ることとなる。
 それは平穏を奪う悪夢の始まり。
 人智を超えた「奇跡」と「約束」をめぐる、大きな物語の幕開けであった。