[ Extra2「死神と猫」 - B「少年と猫」 ]

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 少年は列車に乗っていた。
 どこでそれに出会い、乗り込んだのかは覚えていない。気がついたらそこにいたのだ。
 列車は誰も身動きがとれないほど混雑していた。乗客は誰もかれも見慣れない服装をしていて、たまに誰かがつぶやく言葉は耳慣れない言語だった。
 少年はカードの束を握っていた。それはとても大事なものだったような気がするけれど、確かめようにも四方を囲む他人が邪魔で、手を動かせなかった。

 列車はしばらくがたがたと揺れ続けた後、だんだんと遅くなって、静かに止まった。
 乗り合わせた人々が次々と出口へ動き出し、彼らに押し出される形で少年も列車を降りた。到着したのは広くて大きなプラットホームだった。
 流されるまま人々についていくと、ふと、誰かに呼ばれた気がした。
「誰?」
 少年は立ち止まった。
 人並みの向こうに一瞬だけ何かが見えた。
「こちらへおいで」
 同じ方向へぞろぞろと進む群衆の中で、少年は確かに垣間見た。
 壁沿いにひっそり置かれたベンチに一匹の黒猫が座っている。
 見とれているうちに、密集した行列はみんな通り過ぎてしまって、気がつくとホームには少年と猫のふたりきりになっていた。
「やあ。よく来てくれたね」
 黒猫が笑った。
 黒猫がしゃべった。
 よく見ると外見も普通ではない。首に巻いているのは革の首輪ではなく洒落たマントの襟だし、金目青目(オッドアイ)の片側だけを飾るように片眼鏡を掛けていた。
「少年よ、冥府へようこそ。私はシャロット・モリアーティ。しがない飼い猫だ」
「冥府?」
「ふむ、覚えていないかな。君は昨日、ある事故に巻き込まれて、肉体を失ったんだよ」
「……死んだの?」
「そういうことになる」
 黒猫がひょいとベンチから飛び降り、歩き出した。ついておいで、と言われているように感じて、少年は猫の後をついていった。
 ホームの出口に改札はなく、広い壁に大きなフラッグが飾られていた。鬼火と天秤をあしらったマークが大きく刺繍されている。不思議なデザインに少年が見とれていると、黒猫が少年の足元まで引き返してきて、教えてくれた。
「冥府の紋章だ。列車の車体にも描かれているし、君を現世から送り出した死神も、これと同じ印を身につけていたはずだよ」
「死神の印って、ドクロじゃないの?」
 少年はなんとなく思い浮かんだことを聞いてみた。そんな感じの絵を最近どこかで見た気がしたのだ。
 すると黒猫は尻尾を小刻みに揺らした。
「なに、簡単なことさ。ドクロは骨、つまり現世に置いてゆく肉体のことだ。生者にとっては迫り来る死の象徴に違いないだろうが、こちらから見ればただ置いてくるものに過ぎないのだよ」
 少年は導かれるままホームを出た。黒猫が進む先にさっきの人々はもういなかった。

 駅の外には街があった。立ち並ぶ建物はどれも地味で暗いように思えた。
 もっと手前に目を移せば、広い道路を行き交う人々は様々な身なりをしていた。生気が足りない顔でふらふら歩く者、元気に走り回る者もいれば、煙のように薄っすらとしか見えない者もいた。
「ねえ、あれは何?」
 少年は町並みの奥にある大きな山を指差した。上半分が深い霧に覆われていて、全容はわからない。
「あれは大審院。現世に多大な影響を及ぼした死者が送られる特別な審判所で、この冥府の最高責任者がいる」
「審判所?」
「魂の行く末を決めるところさ。生前の行いを調べ、悪事が多ければ地獄へ落とす」
 黒猫はわざとらしく牙をむき出しにして笑った。
「でも、今は気にしなくていい。君はあちらへは送られないはずだから」
「そうなの?」
「ああ、でも、君に問題があるというわけじゃないんだ。ただ、死に方がちょっと問題でね」
 急に黒猫が真面目な顔になった。少年にはそんなふうに見えた。
「現世は物質の世界だ。命も、それを受け入れる肉の器も、明確な原則(ルール)と理論(セオリー)の通りに動く世界。冥府はその外側にあって、君たち皆の『寿命』を計算した上で予定を立てて、受け入れの準備をしている」
 朝焼け、荒れ模様、月のない夜、夕暮れ。冥府の空は見上げるたびに違う色味に見える。
「ところが、たまに予定が狂うことがある。たとえば天の軍勢と地獄の軍団による衝突。ほとんどは現世の住人に気づかれないが、たまに運悪く巻き込まれてしまう者がいてね。そうなると、物質界の原則(ルール)を無視した現象によって、『寿命』を待たずに肉体が壊れてしまう。それが今の君だ」
 説明がさっぱり頭に入ってこない。
 少年はふと、自分が列車に乗る前、不思議な浮遊感とともに空中へ放り出されたことを思い出した。あれのことだろうか。
「もう少しわかりやすく言うなら、本に印刷しておいた予定表を墨で塗り潰されたようなものさ」
 思い浮かべることはできても、やっぱりよくわからなかった。
「とにかく、君は本来まだまだ生きられる魂だ。その状態で来世へ渡ろうとすると、君を死に追いやった連中との因縁を引きずってしまうだろう。それに何より……このまま『君』が終わってしまうのも、つまらないとは思わないかな?」
「それは……」
 思う。
 でも、今頃になって何ができるものか、とも少年は考える。実際、死んでしまったらしいのだから。
「心配には及ばないよ。この冥府はいわば君の家だ。理論(セオリー)に反する形で生を奪われた魂たちが残りの時間を『生きる』場所として作ったから、みんなが君と同じ境遇といっていい」
 黒猫が少年を見上げた。
 左右で違う色をした目が、自信ありげに笑っていた。
「せっかくこうして会えたことだ。私と……」
「局長、また勝手にスカウトですか」
 黒猫が何か言いかけたところへ、誰かの声が割って入った。
 振り向いた少年を一人の女性が見下ろしていた。黒の制服は雑踏の中で何度か見かけたが、灰色の髪が合わさった姿は先に見かけた人々より幾分地味に思えた。
「おや、アッシュじゃないか。どうしてそう思う?」
「秘書の方に聞きました。ひとと会ってくる、とだけ言い残して出かけるときはいつもそうだと。せめて会議の予定を調整してからにしてください」
 局長と呼ばれた黒猫は知らん顔をして、前足の甲をぺろりと舐めた。やっぱり猫だから気まぐれなのだろうか。
「輸送局も総務局も許可していることだ、勝手ではないさ。それにうちはいつだって心強い戦力を必要としている」
「新人は一朝一夕では育ちません」
「その通り。誰でも最初は『未経験』だからね」
「その未経験者に仕事を教えるコストのことはお考えですか」
「というと?」
「どうせ探すなら即戦力になりそうな人材を連れてきてください」
「……考えておこう」
 黒猫が再び歩き出した。アッシュと呼ばれた灰色の女性も一緒についてきた。
 しばらくして、少年はすれ違う集団の中に、周囲と違う装いを見かけた。しゃべる猫と同じぐらい奇抜な姿に気を取られた後、黒猫と女性が先に行ってしまったと知って大急ぎで追いかけた。
「ねえ、そこで、背中に大きな羽みたいなのをつけたひとがいたんだけど」
「ああ、時々いるよ。多くは戦えなくなって天の軍勢を追い出された兵士だ。ここは出自も身分も関係なく、居場所をなくした魂が流れ着く場所だからね」
 黒猫があっさりと答えた。冥府の住人は人間ばかりではないらしい。目の前の黒猫だけが特別なのかと思い始めていた少年は内心驚いた。
「手に持っているカードをご覧。そこに描かれているような戦士もいるよ」
 少年は手首をひっくり返し、ずっと握りしめていたカードに目を落とした。
 束の一番上にある絵札には、黒い鎧をまとい大剣を構える騎士が描かれていた。その下には細かな文字で何か書かれていた。
「その絵のように血気盛んではないかもしれないがね。他には……変わったところだと、水族館で曲芸をしていたイルカが、どこかの部署で働いていたかな」
 何をしているんだろう。少年は首をひねった。猫が仕事をしている姿も想像できないけれど。

 やがて小さな建物の前で黒猫が足を止めた。
 そこは扉が開け放たれた状態で固定され、中で大勢の人間が行列をなす様子が見えた。
「ここは?」
「私の仕事場だよ。ふむ、今日も賑わっているね」
 おかえりなさい、という声が次々に聞こえた。挨拶をしたのは灰色の女性と同じ制服の職員たちで、窓口に並ぶ人々はほとんど無反応だった。
 窓口を見上げた黒猫は、実に猫らしい声で機嫌よく鳴いた。さっきまでなめらかにしゃべっていたことが嘘のようだ。
「あなたも本当ならこっちに並ぶ側じゃないかって私は思うんだけど」
 つぶやく女性の足元をすり抜け、黒猫が窓口の横から中に入っていった。明らかに関係者以外は入れない場所だ。けれど職員は黒猫を追い出すどころか少年のことも招き入れた。
 窓口の一番奥に部屋の出口があって、長い廊下に続いていた。黒猫はその先へ向かうらしい。進んでいく間に、少年は思い切って、隣を歩く女性に尋ねてみた。
「さっき並んでた人たちは、何しに来たの。審判?」
「審判はもう終わってる。あれはもうすぐ来世へ行く人たちよ」
「来世……って、別の場所に行くってこと?」
「新しい命として生まれ直す人もいれば、天国への長い階段に挑む人もいる。人それぞれね。でも、どの針路にしても一度旅立てば引き返せないから、できるだけ心残りは冥府に置いていくよう求めているの」
 思えば少年が目撃した行列の人々は、何かを待ちわびているような顔ばかりだった。
「そしてここは、あの人達の『最後の未練』を解決させる場所。局長はあなたをその仕事に誘いたくて、ここまで連れてきたのよ。そうでしょう?」
 ふたりの前を歩く黒猫は反応らしい反応をしなかった。それまでは時折耳を小刻みに動かしたり、後ろを軽く振り返ったりしていたが、女性に尋ねられてからは周囲を気にする仕草が途絶えた。
「何も考えずについてきたみたいだけど、楽な仕事じゃないわよ。簡単な未練なんてめったにないんだから」
 沈黙の中で少年は考えた。
 未練。心残り。何かあっただろうか。思い出せない。

 少年が考えるのに飽きた頃、黒猫が足を止めて、廊下の途中に現れた扉を前足で叩いた。すると扉がひとりでに開いて、その中の立派な部屋を少年へ披露した。
 中には先客が一人だけいた。花の妖精のようなひとだった。その人物は異国の言葉で何か言ったかと思うと、黒猫を抱きかかえ、飛ぶように部屋を出ていってしまった。
 扉が閉じた後、部屋には少年と灰色の女性が残された。
「結局誘い込まれたわね。悩むなら今のうちよ」
 勧められて腰掛けたソファの感触は少年が初めて体験するものだった。
 とはいえ、何に悩めばいいのか、そこがよくわからない。
「それにしても、どうしてあなたなんでしょうね。誰でもいいってわけじゃないみたいだし」
 少年はカードの存在を思い出して、さっき目に入った文章を改めて読んでみた。そこにはゲームのルールが書かれていた。
 騎士のカードの下には違う絵札があって、文章も違っていた。一枚ずつめくると、大きな鎌を持った骸骨も出てきた。ドクロのイメージはここにいた。
「それはトレーディングカードね?」
 ふいに女性の声から冷たさが消えた。視線はソファの前のローテーブルに並べられたカードに向けられている。
「……うん」
 その瞬間にはっきりと思い出した。
 みんな、少年とともに戦ってきた仲間たちだった。ゲームの中で。
 母親が買ってくれた。それを持って出かけては、友達と一緒に遊んでいた。多分、現世で最後に過ごしていたのも、そういう時間だった。
「それがあなたの未練?」
「うーん……」
 涙がこぼれたような気がしたけれど、悲しい気分はしなかった。
「……なんか、違う気がする」
「そう。だったらここで働く以外にも、あなたにできることはたくさんあるわ」
 灰色の女性は断言した。
「局長からどう聞いたか知らないけど、ここにはいろいろな部署があるし、さっさと来世へ行ってしまう方法もあるにはある。あなた次第よ。ただ、次へ行くならそのカードは持っていけないけど」
「えっ?」
 少年はカードをかき集めた。騎士もドクロも天の使いも、手の中で震えていた。
「ここにいるなら、まだ持ってていいの?」
「……まあ、そうね。やっぱり捨てるのは嫌?」
「嫌、っていうんじゃなくて」
 角を揃えて整えたカードの束を握りしめ、少年は言った。
「持っていなきゃいけない気がするんだ」


 少年は黒猫モリアーティ率いる渡航管理局に迎えられた。
 久々だという新人職員には、大切に持っていたカードにちなみ、「デック・スターター」の名がついた。
 

(本作は『化屋の詰め合わせ2016』に収録されたものです。)