シンオウ地方、ハクタイシティ、北東のはずれ。
 遠くにテンガン山を望む小高い丘の上で、何もせずただ寝転ぶ。それがユキの唯一と言っていい趣味であり、暇潰しの手段だった。
 綿をちぎって放り投げたような形の雲が流れていく、ただ青いだけの空。その下を飛ぶムックルの群れ。羽音。鳴き声。微妙に崩れた隊列が自分と太陽との間に割り込んで出来る、小さな影の集合体。
 全部を、どれに注目することもなく、ただ眺める。

 ぴょんっ

 不意に目の前を大きな影が横切った。
 客観的に言えば、動かないユキを静止物と認識したミミロルが、彼女の上を飛び越え通り過ぎたのだった。
 彼女の年頃にある子どもならそれがポケモンであること、長い耳とふわふわの毛皮を持っていることは認識できる。普通ならそこで飛び起きるなり横を向くなりして目でミミロルを追うか、「あっ」という声くらいは上げているところだが、ユキはそうしなかった。
 ただ、思った。
(……帰りたくないなあ)



 この世界に生まれた子どもは例外なく、10歳になると自分のポケモンを持つ権利を得る。
 ポケモンは誰にとっても身近な存在であり、それを育てて連れ歩くポケモントレーナー(と、そこから派生した様々な職業)もまた、子ども達にとっては見慣れた存在である。彼らは当然のようにトレーナーに憧れ、10歳になるとほとんどの子はすぐに自分のパートナーを求めた。
 大部分はその年の内に住み慣れた故郷を離れ、新米トレーナーとして修行の旅に出る。本人にとっては未知の世界へ飛び込む冒険、あるいは大きな夢へのステップとして、親達にとっては社会勉強として認識されている。よって快諾と暖かい応援のもとに送り出されるのが当たり前で、よほどの事情がない限り反対されることの方が少なかった。
 そんな世間において、ユキは数少ない例外として見られていた。
 彼女は今年で12歳になるが、ポケモンを持たず、旅に出たこともない。
 家庭の事情ではない。彼女自身にトレーナーになる気がないどころか、そもそもポケモン自体への興味が全くないというのである。

 自分にとってごく自然だったことが実は“珍しいケース”だと思い知らされたのは、2つ上の姉が旅立った日のこと。手を振っていた母親が何気なく発した、
「次はユキの番だね」
 という言葉に強い違和感を覚えたのだ。
 私は行かない、と言う娘に周囲は揃って目を丸くした。誰もが姉の旅立ちにあこがれ、内心うらやましがっているだろうと思っていたのだ。特に両親は自分達が姉の方ばかりかまっていたせいだという見当違いの罪悪感のもと、様々な場所へユキを連れて行き、様々なポケモンを見せて何とか興味を持たせようとした。
 しかしそれは余計な反発、さらなる疑念しか生まなかった。
(どうせ自分達がポケモントレーナーだったから、同じ道を行くのが当然としか思ってなかったんだろうけど)
 その狭い価値観が何より納得できない。世界はもっと広くて、自分にはもっと大事なものがあるに違いない。そう思っていた。
 だから今日もユキは姉から引き継がされたポケモンの世話をさぼり、こうして街の外で過ごしていた。自分が何もしなければ、その仕事は母親がやってくれることを知っているからである。
(……どこがそんなに面白いの?)



 誰も寄りつかない丘の上。
 何をしようかな、とは考えない。
 古いことも、新しいことも、考えない。
 だからユキは、自分のことをじっと見つめる顔が目の前にあることに、しばらく気づかなかった。

「…………!!」

 定まった視点がとらえたのは、笑顔だった。
 少年。見たところユキより年下。見たことのない顔に、見たことのない無邪気な笑顔を浮かべている。
 その目が明らかに自分を見ていることは分かったが、言葉が出てこない。
「……、誰」
 という問いをようやく得た時、既に少年はそこにいなかった。
 草を踏む音が遠ざかった後、丘を下った先、確か木があったはずの辺りから、一斉に鳥ポケモンが飛び立つ音がした。直後、ムクバードの群れがユキの真上を通過し、飛び散ったらしい羽根が彼女の顔に舞い降りた。
 鬱陶しい感触を払いのけ、同時に起き上がる。
 さっきの少年がこちらへ駆け戻ってくるところだった。飛行機のように両腕を広げ、その顔は至って純粋な喜びに満ちている。視線は逃げ去ったムクバードを追っていたようだったが、途中でユキに気づいたのか、視線も歩幅も落ちていった。
「……何?」
「何?」
 ユキの突き放すような語調は何故か少年に通じなかった。
 最初に見た時と同じ、朝露のようにキラキラと輝く両の目が、こちらをじっと見つめている。
「……だから、何?」
「何?」
 まただ。
 ただ単純に、心の底から「何か」を楽しんでいる、この笑顔。
 なんとなく目をそらしたくなるのは何故だろう。
「あなた、……どうせ旅のトレーナーか何かでしょ? ハクタイシティはあっち、ここには何もないわよ」
 10歳そこそこの見知らぬ少年が、こんな時間にこの辺をうろつく理由は限られる。一番可能性が高そうなものとその答えを、ユキは投げやりに言ってやった。
 が、予想に反し、少年は首を縦に振らなかった。
「ハクタイシティならさっき行ってきたよ」
 そして、表情以上に無邪気な声で、想像以上のことを言った。
「エリーに言われたんだ。僕たち、これからこの街で暮らすんだって」



 いくつかの質問によって引き出された言葉から、いくつかの謎が解けた。
「この街にって言ったけど、どの辺?」
 少年がやけに楽しそうな理由。
 シンオウに来るのは初めてという彼には、今ここにある全てが新鮮で、輝いて見えるらしい。
「んー、と……あっちの方、かな」
 この丘とは反対側、街の西のはずれにある廃屋に、最近よく人が出入りしていた理由。
 ユキの家にも近いそこは新築同然にリフォームされていたらしく、そこに少年と家族が住むのだという。
「ああ、ハクタイの森の近く」
 最初に少年を見た時に感じた、妙な違和感。
 ユキが知っている人たちと一見変わらないようでいて、顔のつくりがどこか違っている。遠い土地から来たのだろうと思って問えば、やはりそうだった。しかしそれだけが目を合わせにくい理由とは思えなかった。
「ハクタイの森?」
「この街の外にある広い森。引っ越してきた時に見なかった?」
「言われてみれば、あったような……」
 二人は既に丘を下り、並んで歩いていた。目を正面に向ければ、街の中心部を構成するビル群、やや離れて南側にハクタイジムの屋根が見える。
 街に戻ろう、と言い出したのはユキの方だった。彼女自身は帰るつもりなどなかったが、少年が一緒にいた人とはぐれたと言うので、家まで送り届けようと考えたのだ。迷子を助けていたと言えば親に不在をなじられることもないだろう、という計算も働いている。
 少年は何の疑いも迷いもなく素直に応じた。それどころか、探検の続きを楽しんでいるようでもあった。
「あ、あれ、さっき逃げたやつだ。あのふわふわに触ってみたいのになあ」
「見た? すごいんだよ、体から電気を出すんだ!」
「うわあー……あんな高いとこで何やってるんだろう……」
 道ばたで見かけるミミロルをコリンクをアサナンを、ユキでも一般常識として名前くらいは知っているものをいちいち指差しては、「あれは何?」と尋ねてくる。トレーナー連れのポケモンとすれ違った時には人間の方に若干変な目で見られたが、本人は特に気にする様子もなかった。
「あ、そうだ!」
 その少年がふいに足を止めた。
「すっかり忘れてた。君の名前、何て言うの?」
「……ユキ」
「ユキ? ゆき、ゆき……うん、覚えた」
 じっとこちらを見つめ、聞き取れた言葉を小さく繰り返す。
 初めて正視した顔は何故か、一瞬だけ、出会った時よりずっと大人びて見えた。
「僕はシェイド。よろしくね、ユキ」
 差し出された片手に誘われるように、ユキも手を添えていた。
 友達になろう。
 そう言われたわけでもないのに、互いの手は自然と固く握られていて。
「……さ、行こう!」
「え?」
 突然の一言が予告だと気づく間もなく、ユキは握ったままの手を引かれ、走らされていた。



 ハクタイシティの中心部を抜ける大通りに入る頃にはさすがに手を離していたが、全速力のかけっこは続いていた。
 自分が来た道をよく覚えていないと言っていたシェイドも、ポケモンセンターの前を通ったことは覚えていたらしい。赤い屋根を見つけるなり走るのをやめ、振り返ってユキにその先を指し示してみせた。
「こっちから来たんだ。それで……あれ?」
 そして、一緒についてきたと思っていたユキが、実はずっと後ろで息を切らして歩いていたことを知った。
 慌てて駆け戻ってくるシェイドに悪気がないことは表情を見なくても分かっていたが、それでもユキは腹立たしさを覚えずにいられなかった。主に「待ってよ」の一言すら声にする余裕のなかった自分に。
(足、速すぎ……)
「ごめんなさい。疲れてたんだね、気づかなかった」
「……別に……」
 ユキは手を添えて身体を支えようとするシェイドを作り笑いで振り払うと、ポケモンセンターまでは何とか自力で歩ききった。立ち止まってからはすぐ側のガードレールを掴まずにはいられなかったが。
「……で、急に止まって、何か見つけたの?」
「ここ、来た時に通った。あっちの角を曲がったのを覚えてる」
「そりゃ良かったわね、思い出せて」
 シェイドは皮肉っぽい返答を意に介さず、ポケモンセンターの中を覗き込もうとして、突然開いた自動ドアに驚きのけぞった。中から反射的にこちらへ向く視線を、不思議そうな顔で逆に指差す。
「あそこにいるのもポケモンだよね? あ、いっぱいいる。ねえユキ、ここって何なの?」
「……ポケモンセンター。要するにポケモンの病院」
 前を通ったことは覚えていても、何の建物かは分かっていなかったらしい。
 正確には診療所の他にもいくつもの機能を持っている施設だが、トレーナーにならない限りはほとんど関係ない(と思っている)ためユキも詳しいことは知らない。だんだん説明が面倒になってきたユキは、さっき言われた曲がり角へ行こうとして、
「病院……って何?」
 音が鳴りそうな勢いで肩を落とした。
「……怪我とか病気とかした時、治してくれる所」
 いったいどんな生活してたんですかあなたは。
 口をついて出そうになった逆質問を辛うじて飲み込んだ。ここで声を荒げても仕方がない。
 シェイドは建物の内外を交互に見ながらユキの説明を聞いていたが、やがて大まかに納得した様子でつぶやいた。
「そうなんだぁ……」
「そうなの。分かったら行こ、このまま話してたら日が暮れる」
 言い切った頃には呼吸も鳥肌も落ち着いていた。今度はユキがシェイドの手を取り、先程話に出た曲がり角へと引いていく。
 が、開きっぱなしの自動ドアが閉まりかけたその時。

「ユキちゃん!」

 中から聞こえてきた言葉が耳に届いてしまった。

「……知ってる人?」
「別に。足止めなくていいから、行くよ」
「でも今、名前呼ばれたよ?」
「知らない聞こえない何でもない」
 素直に首をかしげるシェイドの疑問符をユキが必死に否定する間に、声の主がこちらへ来てしまった。運ばれてきたポケモン達の治療と世話を一手に引き受ける専門医、人呼んでジョーイさん。
「待ってユキちゃん。お母さんが忘れていったお薬、届けてほしいんだけど……」
 次の瞬間、ユキは最高に気まずい顔で走り出していた。
 しかし2歩目が地面を離れる前に、握ったままだった手に引っ張り返された。勢いに釣られ転びそうになり、なんとかバランスを取り直して振り返る。
 シェイドがさっき質問した時と同じ真剣な目で、しかし出会った時の輝きを失った目で、じっとユキを見つめていた。
「……何?」
 気まずさに一瞬恐怖と緊張が混じり、徐々に引いていく中、
「ユキ……病気なの?」
 ずっこけそうになった。
「どこをどう見たらそうなるの!? これのどこが病気よ、私じゃないし関係ない!」
「でも今お薬って言った。薬は病気を治すのに使うんだよ?」
「それくらい知ってる、でも私は関係ない」
「ユキは病気になったことないの? 苦しいんだよ、しんどいんだよ!?」
 真剣な眼差しが徐々に近づいてくる。いつしかもう片方の手も掴まれ、まともに握られていた。
 根本からずれている認識に脱力するユキの手を取ったまま、シェイドは振り返ってジョーイの顔を仰いだ。次いでこの医師が抱える紙袋を見つめ、首をかしげる。
「誰が病気なの?」
「ユキちゃんのお家のドダイトスよ。さっきお母さんがここに連れてきたんだけど、急いで帰っていって、肝心のお薬を忘れて行っちゃったの」
「それ、ユキの仲間?」
 聞き慣れない固有名詞を耳にし、当然のように聞き返すシェイド。ジョーイは微笑んで答えた。
「仲間というよりは、家族ね。一緒に暮らしてる大事な家族」
「家族……」
 こぼれるようなつぶやきの後、視線が引き返してくる。
「……だったら、持ってかなきゃ」
 大真面目な顔が迫ってくる。
 その眼差しを直視できず、ユキはつい投げるように両手を振り払っていた。

「別にいいの! どうせ大したことないんだから!」

 シェイドの動きが止まった。
 見据える目はそのまま、払われた両手だけが力無く垂れ下がる。表情は次第に落ち着いていった。怒りから恐怖、そして落胆へ。
(……何やってるんだろう、私)
 ユキは、ふとそう思った。
 ドダイトスの具合が悪いという話はいつだったか聞いた気がする。きっと家の中で何となく聞き流したんだろう。何かを言われて生返事で返したのかもしれないけれど、今となっては思い出せない。
 でも、今頼まれたのは単なる届け物。困難も面倒もないただのおつかい。それなのにどうしてこんなに抵抗を感じるの?
 思って、自然と口に上るのは、一言。
「……ごめん」
 今にも泣きそうなくらい歪んでいたシェイドの目元がようやく緩んだことに、ユキはほっとした。
「行こう」
「うん」
 やはり素っ気ない言い方しかできなかったが、それでもシェイドは心底からの笑顔でうなずいた。



 その先の道はなぜか手を繋いだまま、なぜかシェイドが先を歩いた。
「この辺を歩いたのは何となく覚えてる」
 ということらしい。だったら自力で帰れるんじゃないのと首をかしげるユキに、彼はこう言った。
「でもその前に、ユキの家に行かないと。どこにあるの?」
 あくまで彼の中では病気のポケモンの方が優先らしい。
「……分かったわよ。この道をまっすぐ」
 首で指し示した方向へ歩き出す。
 途中、ナエトルを連れた子どもとすれ違った。顔見知りのユキと挨拶しようとして上げた顔が一瞬驚きを表す。やはり初めて見る子と一緒に歩いていたからなのか。変な噂にならないといいけど、などとつい考えて首を振るユキの隣で、シェイドは全く違うことを聞いてきた。
「今のアレも、ポケモン?」
「ナエトル。ドダイトスの進化前」
「進化……?」
「成長すると姿が変わるポケモンがいるの」
 全部は知らないけど、とそっぽを向いて吐き捨てるユキに、しかしシェイドは純粋に感心したようだった。
「すごいや、よく知ってるね!」
「別に。学校とか親とかからさんざん聞かされただけ」
「じゃあ、学校に行けばユキみたいな物知りになれる?」
 ユキの足が一歩分の時間だけ止まった。
 前を行く手に引っ張られる上半身は止まれなかったため、足がもつれて転びそうになる。
「……私、物知りじゃないよ。さっきの子に比べれば何にも知らないし、これ以上知りたいとも思わない」
「そうなの?」
「そうなの。どうせポケモンのことなんか知らなくたって生きてくには困らないわよ」
「そうかなぁ……」
 斜め後ろからわずかに見える顔が、明らかに落胆したように見えた。
 もしかしてまずいこと言ったのかな、とユキは思った。手を掴む指先の力が緩んだわけではないけれど。伝わってくる感触や暖かさは何一つ変わっていないけれど。

 あれ、ちょっと待って。何かが引っかかる。

 進化を知らない?
 そういえばさっきから答えている質問はどれも、実物を見たかどうかはともかく、テレビや雑誌や絵本なんかで誰もが一度は見聞きする初歩的なことばかりだった。この自分が知っているくらいだ。

 ポケモンはどこにでもいる。
 町、草原、森、海、山、砂漠。火山のてっぺんから流氷地帯、ゴミであふれた土地にさえ何かしら住み着いていると、何度となく聞かされてきた。
 無関心でいるのは簡単だけど、出会わずにいることはとても難しい。だから、と母親は言う。
『ポケモンを知っていれば、いろんな時に役に立つのよ。困ったときには助けてくれるし、正しく接すれば人間の友達と同じくらい良い友達になれる。それにどんなに遠くから来た人とでも、ポケモンを通じて仲良くなれるの』
 だからせめて基礎的なことは知っておくべきだと。

 もしその主張に偽りがないのだとしたら。
 目の前を歩いている少年は、なぜここまで何も知らないんだろう。
 何も知らないままでいられたんだろう。

 今まで学校にも行かず、いったいどこで、何をして暮らしていたんだろう。

「ね、ユキ」
 唐突にシェイドが口を開いた。
「ユキは、さっきのムックルたちみたいに、空を飛んだことある?」
「……あるわけないでしょ」
「じゃあ僕とおんなじだね」
 広げた手の先に薬が入った袋をぶら下げたまま、くるりと振り返って笑ってみせる。
 さっきまでのがっかりした様子が嘘のような、無邪気な微笑みで。
「飛べるようになったら、きっと面白いよ。飛んでみたいなあ」
「どうして?」
「新しいことができるって、すっごく楽しいんだよ。僕ね、ユキに会えてよかったと思ってるんだ。だって、新しいことをいっぱい教えてくれたから」
「…………」
「ここにはいろんな生き物がいて、いろんな人がいて、いろんなものがあるんだよね。すごいよね。世界ってこんなに広いんだ、って思うと、なんだかわくわくするんだ」
「………………」

 そう、世界は広い。
 ちっぽけな自分ではどうにもならないくらい広い。
 だからこそ、一つの価値観を押しつけられることに疑問を抱いたはずなのに。
 価値観の中身自体はどうでもよかったのに。

 いつから無関心は嫌悪になったんだろう。
 いつから私は、逃げなくてもいいものから逃げるようになっていたんだろう?

「ユキ? どうしたの?」

 名前を呼ばれて我に返り、足が止まる。
 心の奥底で崩れていく何かの音に気を取られて、大事なものを危うく見逃すところだった。

「……待って」
「やっぱり、行くの嫌だった? でも」
「私の家、ここなんだけど」
 ユキが足を止めた位置は、確かに一軒の家の前。
 振り向いた顔がぱっと明るくなった。
「そうなんだ!行こ!」
 まばたきする間もなく、おじゃましますの一言もなしに、シェイドは門に手をかけていた。そのまま家の中に上がり込みそうな勢いを直感で掴んだユキは、シェイドの腕をひねるように引っ張り返した。
「こっち。ついてきて」



 家の中には入らない。外壁と棚の間、古い鉢や木箱やがらくたが積まれた狭い通路を慎重に抜け、広い庭に出る。
 庭のほぼ中央。一番日当たりのいい場所に、1匹のドダイトスがうずくまっていた。
 そして、
「おかえりなさい、ユキ。さっきジョーイさんから電話あったわよ」
「……ただいま」
 甲羅を覆う大樹に寄り添うように座る母親。その表情に怒りが見あたらないことに、ユキは知らず安堵していた。
 ふと隣を見る。予想通り目を輝かせた少年がそこにいる。
「その子、あっちの角の家に引っ越してきた子でしょう? もう仲良くなったのね」
「別に」
 普通に肯定しても良かったのに、口をついて出たのはいつもの曖昧な言葉。
 何か違う。
 頭の中で訂正候補を探し始めていると、少年の目がこちらを見返してきた。
「さわっていい?」
「いいけど、枝は折らないでね」
「うん!」
 重ねていた手はあっさりほどかれた。
 宝の山でも見つけたかのようにドダイトスに駆け寄るシェイドを、ユキは何も言わず眺めた。触れていた感触が手のひらから消えていく。入れ違いに感じるようになった重みは、抱えたままの薬の袋だった。
 ユキは慎重に袋を持ち直し、開けてみた。
 その中身が何なのかを理解するまでに時間はかからなかった。
「……これが、薬?」
「何が入ってたの?」
「セシナの実。こんなのどうするの?」
「あら、知らなかった? それドダイトスの好物なのよ」
「……ふーん……」

 そう、世界は広い。
 まだまだ私の知らないことがたくさんある。
 ポケモンのこと、遠い土地のこと、家族のこと。

 自分の知らないことを知ってる人がいるのなら、話を聞くのも悪くないかも。
 ユキはそんな風に思った。
 


あとがき