きっかけは、本当にささいなことだった。
母親との口論はいつものことだったが、今回はいつもと違って、どうしても自分が悪いと思うことができない。
譲れない意見を必死に主張しようとしても、あんまりにも理解してもらえないものだから、
ついに頭に来て、決意を固めた。

「こんなところにはもういられない。出て行ってやる」

小さなリュックに放り込んだのはお菓子がいくつかと、大切にしている物を詰めた小箱。
それと今まで貯めてきたお小遣い。
貯金箱を割るのは可哀想だと思ったので、必死になって底の蓋を開け、中身を全部財布に移した。
勉強道具?そんなのいらない。
家を出たのに学校へなんて行けるものか。

歩き慣れた道を進む足取りは軽かった。
駅へ着くとまず料金表を見渡し、一番料金の高い駅への切符を買った。
今の自分はどこへでも行ける。
だから、出来るだけ遠くへ行きたかった。

10分待って、ようやく目的地の名を冠した電車がホームにやってきたので、迷わずそれに乗った。
電車は静かに走り出した。
ドアの前に立って、窓に貼りつくようにして外を見る。
見慣れた景色、知っている看板、行ったことのあるマンションやビルが、次々と通り過ぎていく。
自分の家も少しだけだけど見えた。
それを見送った時、不思議なほどすがすがしい気分だった。

景色は留まることなく変わっていった。
大きな川をまたぐ橋を渡った頃から、建物の数が急に増え始める。
たまに知っている固有名詞を見かけたりもしたが、それが見慣れたのとは違う形だと、不思議な違和感を覚える。
曇り空の下には知らない世界が広がっていた。
何も考えず、ただ切符を握りしめ、眺めていた。

いくらか時間が経った頃、電車の高さが急に下がり始めた。
線路が地下へ入ったのだ。
窓の外は真っ暗になって、ガラスに自分の顔が映るようになった。
自分の両目とその向こうにうっすらと浮かび上がる壁とパイプをしばらく眺めていたが、
飽きてきたので振り返った。
人がまばらな車内には、知らない顔ばかり。
難しい顔で新聞に目を落としていたり、耳に手を当てていたり、ぼんやりと中吊り広告を眺めていたり、
誰もが好きなことをしていた。
誰もが自分以外はそこにいないかのように振る舞っていた。

一瞬、胸の中に不思議な感触を覚えた。
痛いとか、苦しいとか、そういうのじゃないけれど、なんか落ち着かない、何か。

立っているのも疲れたので、空いている席に適当に座った。
窓の外は相変わらず暗い地下道しか見えない。
この壁の向こう――正確には上――には何があるんだろう?
きっとさっきまで見ていたような世界が延々と広がっているに違いない。

ぼんやりと窓の外を眺めていると、世界が急に明るくなった。
そこは全く見たことのない場所だった。
まず空の色が違う、いつの間に晴れたのだろう。
何もかもがただ眩しく、輝いて見えた。

そして、強烈な不安に襲われた。

「これからどうすればいいんだろう……」

とにかくつらくてしょうがない空気から逃げ出すことに精一杯で、その先のことを考えていなかった。
なんとかなると思っていたけど、やっぱり限界がある。
いくら窓の外を見ていても、答えは浮かばなかった。

電車のドアが開くたび、一人、また一人、ホームへ消えていく。
彼らにははっきりした目的があって、行き先がある。
どこかで彼らを待ってくれている人も多分いる。
自分と一緒に終着駅まで残ってくれるのは一体何人なんだろう。
いや、彼らも他人だ、一緒にいてもいないと同じ。

……自分が一人きりであることをはっきりと自覚した。

日が傾いてきた頃、電車はある駅のホームに停まったまま動かなくなった。
そこが終着駅だった。
降りてみると、他の乗客は皆足早に出口へ向けて行ってしまい、後には誰もいなかった。
重い気持ちを引きずったまま、たまたま目の前にあった木製のベンチに座った。

何を求めていたのか、何のためにこんな行動を起こしたのか。
気がつくとそれさえも思い出せなくなっていた。
脳裏に浮かぶのは、言い訳のような言葉の破片だけ。

自分は独りだった。

ぼんやりと空を見上げる。
太陽の光から離れ、すっかり夜の色に染まった空の端っこに、月が出ている。
何故か涙が出てきた。
月の光と、反対側のホームの蛍光灯が、ごっちゃになってよく分からなくなった。


懐かしい声が自分の名前を呼んだ。

顔を上げると、駅員と警官と一緒に、何も言わずに別れてきたはずの母親がそこにいた。
しかも今にも泣きそうな顔をして。
通報されたんだったっけ、と思い出す。

「……ごめんなさい」

口を衝いて出た言葉に返答はなく、代わりに強く抱きしめられる感触があった。

窓の外には暗い空が映り、その真ん中にきれいな月が引っかかっていた。
 


昔、よくこういう形の逃亡を夢見ていた。
実際には想像してるだけでむなしくなってたのでついに実行はしなかったけど。